キルパトリック『モンテッソーリ法の検討』

はじめに

 20世紀初頭、イタリアの教育家マリア・モンテッソーリが始めた「モンテッソーリ・メソッド」は、瞬く間に世界中で大ブームを巻き起こした。

 子どもたちの「自由」や「自主性」を重んじるこの教育は、知識の詰め込みや強制的な学びを主とする、いわゆる伝統的教育への批判でもあった。(モンテッソーリ『モンテッソーリ・メソッド』のページ参照)


 それゆえモンテッソーリ教育は、20世紀に世界中で隆盛をきわめた、いわゆる「児童中心主義」を標榜する「新教育運動」の1つに数えられている。



 本書の著者キルパトリックもまた、アメリカを代表する「新教育」の担い手だ。


 そして彼もまた、モンテッソーリのように、「プロジェクト・メソッド」という教育メソッドを体系化した。(キルパトリック『プロジェクト法』のページ参照)


 キルパトリックはまた、20世紀から現代に至るまで、教育に絶大な影響を与え続けている哲学者・教育学者、ジョン・デューイの高弟でもあった。


 ところがこのキルパトリック、モンテッソーリ・メソッドが大流行した当初から、この教育法にはあまりいい印象を持っていなかったらしい。


 そしてはるばるイタリアにまでモンテッソーリを訪ねた彼は、この教育法が、デューイや自身の教育理論に比べて、著しく劣るものであることを確信することになる。


 本書は、そんなキルパトリックによるモンテッソーリ批判の書だ。アメリカにおける、モンテッソーリ教育衰退の一因になったと言われている。(もっとも現在では、「プロジェクト・メソッド」より「モンテッソーリ・メソッド」の方が、世界的に言って格段に有名だろうとは思う。)



 本書におけるモンテッソーリ批判は、たしかにおおむね妥当であるように思われる。(もっとも、ややモンテッソーリに対して不当に思われる箇所もないことはない。)


 しかしそれは、ある意味では仕方のないことだ。


 一実践者であったモンテッソーリの教育法は、私としてはかなりすぐれた点も多いとは思うが、プラグマティズムの哲学を提唱し、それに支えられた教育理論を打ち立てた哲学者・デューイのそれに比べれば、「理論」的に劣らざるを得ないのは仕方のないことだろう。


 しかしそれは、逆にいえば、キルパトリックの「理論」的な批判を受けて、モンテッソーリ教育はもっとヴァージョンアップできるはずだ、ということでもある。


 実際、今のモンテッソーリ・メソッドは、当初のものに比べればずいぶんヴァージョンアップされているらしい。たとえば、キルパトリックは本書でモンテッソーリの教育法には「協同的な学び」がないと批判しているが、今ではかなり協同の学びをやっているところもあるらしい。


 ともあれ、キルパトリックによるモンテッソーリ・メソッド批判のポイントは、おそらく4つある。以下、それぞれのポイントをつかみながら本書を紹介・解説していくことにしよう。



1.「種子」的発達観批判


 キルパトリックは言う。モンテッソーリは、いかなる発達も潜在しているものの単なる展開である」と、ナイーヴに考えている、と。


 しかし教育とは、種子が水さえやれば自らその可能性を開かせるように、ただただ子どもに内在しているものを引き出せばよいというような単純なものではない。


 なぜなら、個人の発達は人類の業績を利用してのみ可能である」からだ。


 「新教育」の主唱者であったキルパトリックは、もちろん、子どもたちの自主的な学びを最重視した。しかしだからと言って、それは外からの働きかけを一切否定することを意味しない。


 成長とは、個人と社会との相互作用によって達成されるものなのだ。


 こうしてキルパトリックは、モンテッソーリの素朴な発達観を批判する。



2.協同的な学びの軽視



 キルパトリックは言う。モンテッソーリは、より十分な社会的協力体制づくりの場を与えなかった」と。

 デューイの「問題解決学習」やキルパトリックの「プロジェクト・メソッド」が重視したのは、協同的な学びを通して、互いの意見を聞き合い、尊重し合い、そして協力しながらさまざまな問題に取り組んでいくという態度だった。


 このような態度こそが、「民主主義」の土台となる。そして教育は、まさに民主主義の土台たらねばならないのだ。


 彼らはそう考えた。


 それに比べれば、モンテッソーリ・メソッドは、それぞれがただひたすら個別の学びを遂行するだけで、協同というものがない。


「私たちが望むのは,幼児期にある子どもを彼らがだんだんに仲間と共に生活してゆくよい方法を学ぶことができるような仲間づきあいのできる環境に入れることである。」



3.自己表現の欠如


 さらにキルパトリックは言う。


 モンテッソーリは、子どもたちの「自由」を重視し尊重すると言う。しかしそこでやっていることは、「教具」を与え、その限定的な教育活動に集中させることである。


 つまりそれは、ある機械的な活動だけを繰り返させ、自由な「自己表現」を許さない。


己表現のより進んだ形態である絵画や立体製作は,全体として現在アメリカで行なっているものより劣っている。実際,立体製作はほとんど見られない。絵画は時としてはうまく行われているが,大抵は教師が与える型にはまった図に色を塗るにすぎない。またお話はほんの少し行なわれるか,全く行なわれていないのである。これは最も重大な手落ちである。」


 たしかに、子どもたちは「教具」を使った活動をそれなりに楽しんでいるようには見える。しかし自由な自己表現の場は、子どもたちの成長の可能性を、その何倍も促進させるものなのだ。


結局のところ「モンテッソーリ学校」は,普通に活動する子どもに栄養の足りない定食を与えるにすぎない,ということが言える。」



 たとえば、モンテッソーリの「教具」に有名な「はめ込み円柱」というものがある。


 大小さまざまな穴に、それに合致する円柱を入れていくという「教具」だが、これについてキルパトリックは次のように言う。


教具は,それぞれただ一つの活動の流れにだけ適応するよう考案されている。だから, うまく教具の提示をされた子どもには,上述のような「円柱さし」を見せることは,円柱を取り出し,それをもとに戻すことのみを示唆することになる。(自動車を即興に作ってみるように示唆することは,実際には抑えられている。)


 子どもたちの自由な自己表現をはぐくむのではなく、決められた動作、決められた活動にだけ従事させることを、キルパトリックはこのように批判した。



4.限定的な「能力」


 最後の批判は、モンテッソーリ教育がはぐくむ「能力」が、実は日常生活からはほど遠い、きわめて限定的なものであるという点にある。


「教具を使った練習は合理化されてはいるけれども,高度に特殊化されたものであり,そのような線に沿った練習は,ふつうの生活からいちじるしく遊離し,技能としてそれが直接に作用する見込みからはほど遠いと言える。」


 たとえば先ほど例に挙げた「はめ込み円柱」について、彼は次のように言う。


「このように与えられた「円柱さし」が,異なった大きさの第2のシリンダーの箱の穴にぴったりするということを認識することが,子どもにとってどんな益があるだろうか。


 私たちは、毎日異なった状況において生きている。だから重要なのは、どのような状況においても、自ら考え自ら問題を解決していける子どもを育てることであるはずだ。そのためには、日々の生活経験を通して、子どもたちがみずから問題に立ち向かいこれを解決していくことを、教育の基礎にしなければならない。


 しかしモンテッソーリは、きわめて限定的なシチュエーションにおいて、きわめて限定的な「能力」を身につけさせようとする。


 キルパトリックはそう主張する。


 実際モンテッソーリは、主著『モンテッソーリ・メソッド』において、さまざまな能力を分離して教育せよと強調している。


 聴覚であれば聴覚だけを、視覚であれば視覚だけを、分離して教育せよと主張する。その方が、能力を伸ばすのに効率的だから、と。


 しかしキルパトリックは、これは最新心理学から行っても間違ったことであると言う。


 いわゆる能力「転移」の研究がそれだ。


 「転移」研究によると、たとえば、限定されたシチュエーションにおいてはぐくまれた聴覚が、別のシチュエーションにおいても機能することはあまりない。つまりさまざまな能力は、シチュエーションが異なれば、そのまま「転移」するというわけではない。


 もちろんこれは、その能力の性質による。たとえば、サッカーの能力はバスケットボールの能力にも一定「転移」するだろう。国語における何らかの能力は、英語においても何らかの形で「転移」しうるだろう。


 しかしいずれにせよ、「能力」というものはきわめて状況依存的なので、限定的な状況において何かの能力を伸ばすというのは、実はかなり効率の悪い方法なのだ。


 ではどうすればいいか。


 教育は、生活経験を通して行われるべきである。これが、デューイやキルパトリックの教育理論の核心だ。


 人工的に過ぎるシチュエーションにおいて学びを行うのではなく、日常の、さまざまに変化する生活経験において、自ら問題に行き当たり、それに取り組み、解決していく。その過程の中で、私たちはさまざまな「力」を柔軟かつ力強くはぐくんでいくことができるのだ。


 以上のように、キルパトリックは、モンテッソーリの狭い「能力」観と、「科学的教育」を標榜するわりには、彼女自身の科学リテラシーがかなり遅れていることを批判した。

 そして言う。


「(モンテッソーリ・メソッドは、)現在の教育理論の発展よりも約50年ほど遅れているのである。


 しかしこの点、「原理的」にはデューイやキルパトリックの理論に軍配が上がるだろうが、だからと言って、モンテッソーリ・メソッドの効果を全否定するわけにはいかないだろうと私は思う。


 確かに、学びは日常の生活経験全体を通して進展していくものだし、そうしてはぐくまれていくべきものだろう。原理的にはそうだ。


 しかしだからと言って、なんでもかんでも生活経験からのみ学べるというわけでは
ないのも事実だ。

 そしてまた、限定的なシチュエーション、限定的な教具でも、しっかり伸ばせる「能力」というのはあるはずだ。それが何か、私たちは見極める必要がある。


 だから、デューイ=キルパトリックとモンテッソーリの理論は、相互補完的なものと考えたほうがいい。モンテッソーリ・メソッドの「使える・いい」部分は、デューイ=キルパトリック教育理論にも積極的に取り入れればいいし、逆に、モンテッソーリ・メソッドも、デューイ=キルパトリック理論を受けて、よりよいものにヴァージョンアップしていけばいい。


 私はそう思う。



5.モンテッソーリの功績


 ともあれ、以上のようにモンテッソーリ・メソッドをさんざん批判したキルパトリックだが、本書では一応、その功績を称えることも忘れてはいない。


 キルパトリックが評価するのは、モンテッソーリがいわば教育を社会化した点である。


 モンテッソーリがその幼稚園「子どもの家」を最初に作ったのは、スラムにおいてだった。


 ここでは、親たちが日々仕事に追われ、子どもたちのケアが十分になされていなかった。


 そこでモンテッソーリは、子どもたちを一日あずかり、十分な栄養と教育を与えたのだった。


 キルパトリックはこの点を高く評価する。


「母親たちが家または外で,果たさなければならない職務にがんじがらめにされているので,子どもたちが適切な世話をしてもらえない場合には,幼稚園の教師たちが一日中世話をするということは,まことに望ましいことであろう。」


 実際、この点こそが、モンテッソーリの名を教育史上不朽のものにするものだろうと私も思う。



(苫野一徳)

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