アーレント『全体主義の起源3:全体主義』



はじめに
アレント
 第1部「反ユダヤ主義」で、19世紀ヨーロッパでなぜ、そしてどのように反ユダヤ主義が沸き起こったのかを明らかにし、第2部「帝国主義」で、帝国主義がどのように全体主義を準備したかを明らかにしたアーレントは、いよいよ本第3部「全体主義」において、20世紀を震撼させたナチズムスターリニズム(ボルシェヴィズム)の本質を明らかにする。

 今なお、各地で不気味に姿を潜ませている全体主義の影。この恐怖を、私たちはいかに克服することができるのか。

 人は人として、どうすれば自由に生きることができるのか。 

 アーレントの生涯をかけた探究の幕が開く




第3部 全体主義


1.階級社会の崩壊と大衆の出現

「全体主義運動は大衆運動であり、それは今日までに現代の大衆が見出し自分たちにふさわしいと考えた唯一の組織形態である。」

 大衆なくして、全体主義は起こらなかった。アーレントはそう主張する。

「運動は幾百万もの人々を擁してはじめて運動たりうるのであって、その他の点でいかに好条件に恵まれようと、比較的少い人口しか持たない国では成立が不可能である。」

 大衆の出現、それは端的には階級社会の崩壊から起こった。

 階級社会から経済社会への移行に伴って、人びとは自分のことだけを考える大衆へと変わっていった。

「営利社会においては人間生活は経済戦争という仮借ない競争における成功か失敗のいずれかの型に分けられるものとして経験され、なんとしてでも私的、個人的成功を遂げねばならぬという必要のみに全生活が集中されるため、市民としての義務と責任は耐え難い余計な重荷となってしまう。」

 それは、一人一人がばらばらにされた、時にルサンチマンを抱きがちな、組織されない多数の大衆である。

「階級構造の瓦解とともに、これまで各政党の背後に立っていた無関心な潜在的多数派は、絶望し憎悪を燃やす個人から成る組織されない無構造の大衆へと変容した。」

 こうなると、階級利害を代表する従来の政党は魅力も役割も失ってしまう。

 代わりに台頭するのが、大きな世界観を掲げる世界観政党だ。

「政党の階級基盤が不明確に、非現実的になるにつれて、政党はますます世界観政党への方向を強めていった。」


2.バラバラにされた大衆

 こうした世界観政党にとっては、個々人は団結されるよりバラバラであったほうが支配しやすい。

 そこでナチススターリンも、まずは個々人をバラバラにしていく作戦をとった。

たとえば「スターリンがこのためにとった方法は、インターナショナリズムの名において新しい少数民族を、階級なき社会の名においてソ連の新しい諸階級を絶滅したことだった。」

「まずこれらの階級の絶滅が完了すると、今度はスターリンは革命の直接の産物たる階級、すなわち、これまで階級なき社会に対する彼らの確信に訴えることで、その他の階級の清算に協力させてきた階級の絶滅に乗り出した。ソ連の管理者層と軍の全貴族階級を清算するには、僅か二年間の無制限のテロルで充分だった。〔中略〕そしてこの大粛清の終幕を飾ったのは、大粛清を遂行した当の警察の上部機関の粛清だったのだから、テロルの執行者自身たるGPUの幹部でさえ、自分たちが何かを、いわんや何らかの権力を代表するグループであるとは信じられなくなったのである。」

 このような社会はまた、友人を密告し合う社会である。

「粛清の大波が荒れ狂っている間は人々が自分自身の信頼性を証明する手段はただ一つしかない。自分の友人を密告すること、これである。」

 こうして、全体主義の支配の勃興に伴って、人びとは徹底的に孤立化されたのだ。

 そしてこれら大衆は、その後、恐るべき犯罪をもたやすくやってのけることができることが判明した。

「その後まもなく明らかになったことだが、大衆はいわゆる職業的犯罪者よりもはるかに大きな犯罪――その犯罪が完墜に組織されて日常的な仕事にまで変えられていさえすれば――を犯す能力を持っていた。」

「私生活のうちに引きこもり身の安全と出世のことしか念頭になくなった俗物というのは、公的、国家的生活の要求よりも社会的、経済的利害のほうに絶対的優位を与えたブルジョワジーとその信念の最後の産物、すでに堕落し退化した産物だった。俗物とはすなわち孤立したブルジョワ、自らの階級から見捨てられたブルジョワなのである。」

 階級社会の崩壊に伴った、そしてまた、全体主義者によって意図的に作り出された、自分のことしか考えなくなったバラバラの大衆。これこそが全体主義の最大の条件だったのだ。

(ちなみに、バラバラにされ不安に打ちひしがれた個人が、自らの自由を放棄して絶対的なるものと結びつこうとする心理は、すでに1941年に刊行されたエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』にも克明に描かれている。)


3.全体主義運動

プロパガンダからテロルへ

 全体主義が社会を支配すると、まずいったい何が起こるか。

 アーレントは言う。それは残虐なテロルであると。 

「全体主義運動は政権を握るとそれまでのプロパガンダに代えて教義の実現にとりかかるのがつねであるし、そのテロルは間もなく〔中略〕無差別に誰にでも向けられるようになる。」

 プロパガンダとは、とどのつまりは交渉手段にすぎない。まだ全体主義に与していない人たちへの、一種の啓蒙活動であり宣伝活動なのだ。

 それに対してテロルとは、全体主義運動の実行そのものだ。全体主義は、政権を握るやいなや、プロパガンダを現実のものとすべくテロルを起こす。

 テロルこそが、全体主義の本質なのだ

「テロルは全体的支配の本質そのものである。全体主義国では体制の敵の存否とは全く関係なくテロルが支配する。それは丁度、立憲統治の行なわれている国では法を犯す者のあるなしに関わらず法が支配するのと同じである。」

 こうなると、人びとは自らもテロルとそのイデオロギーに加担するようになる。

 この点、アーレントの透徹した人間洞察が光る。

「人間というものは、アナーキックな偶然と恣意に為す術もなく身を委ねて没落するか、あるいは一つのイデオロギーの硬直し狂気じみた首尾一貫性に身を捧げるかという前代未聞の選択の前に立たされたときには、必ず後者の首尾一貫性の死を選び、そのために肉体の死をすら甘受するだろう」

 人間は、自由を奪われ無意味に没落するよりは、不合理なイデオロギーにであっても身を委ねたいと思うものなのだ。そうアーレントは言うわけだ。

 そうした惨状から、私たちはどうすれば救われるのだろうか。

 本第3部の最後ではそのことが考察されるが、アーレントは早くもここでそのヒントを言っている。

「重要なのは、自分と繋がりのある他の人間――血縁者、友人、隣人――の存在に対する信頼、その人たちは決してこの作り話を信じないだろうという信頼であって、これがあってこそ、抽象的にはつねに可能性として存在するこのような犯罪を認めてしまいたくなる誘惑に抵抗できるのである。」

 他者とのつながり、信頼、それこそが、恐ろしい全体主義からわれわれを守る社会のあり方だ。そうアーレントは主張するのだ。


すべては総統の意志

 ナチスの組織は、幾重にも重層的に張り巡らされていた。いわばナチへの信仰度や過激度に応じて、様々な人間を組織に振り分けていたのだ。

 そしてその頂点にいる総統ヒトラーこそが、この全体主義運動の意志そのものである。

「『総統の意志は党の法律である』という原則が意味しているのは、全体主義のヒエラルヒー全体はこの「意志」をすべての階層において直ちに実現することを唯一の目的として組織されている、ということである。

 このことはつまり、一切の責任もまた、総統に、より正確に言うと、運動それ自体に帰されるということになる。幹部も党員も、ただの歯車に過ぎないのだ。

「幹部は自分のしたことに対して責任を感じる必要も責任を関われる惧れも自動的に消滅する。」

 自らの責任を判断し得なくなった人たち。

 私たちは、彼らの罪をいったいどう考えればいいのだろうか。

 これこそまさに、アーレントがナチス問題を通して生涯考え抜いたテーマにほかならない。(このテーマは、とりわけ後の『責任と判断』で中心的に探究されている。)


強制収容所

 全体主義運動の集大成、それが強制収容所だ。

 アーレントは言う。

「ナツィがすでにずっと前から知っていたこと〔中略〕それは、犯罪をおこなおうと決心しているときには、最大の、最も信じがたい規模でそれを演出するのが得策だということだ。」

 ユダヤ人は絶滅されなければならないと叫び続けたヒトラーの嘘は、何百回も繰り返されることで、人びとが信じる真実になったのだ。

 さて、この強制収容所について改めて考えてみると、少し不思議に思うことがある。

 この強制収容所において、「個別的に死の判決を受けた人々が刑の執行者をせめて一人でも死の道連れにしようとしたことはきわめて稀でしかなかった」のだ。

 それは一体なぜだったのか。

 アーレントは言う。

 彼らはすでに、法的人格を奪われ、バラバラにされた個人であったからだ、と。

「個体性の破壊ということは、自発性の――つまり、環境や事件に対する反応では説明され得ない或る新しいものをみずから進んで創始する能力の――抹殺にほかならないからである。」

 私が私であるということを奪われる。それは、自ら進んで環境を変えようとする力もまた奪い去ってしまうのだ

「ヨーロッパのまんなかでこのようないまだかつてない事態を発生せしめた動因となり、それ以上重要なことには、このような事態に対する暗黙の同意を生ぜしめたものは、政治の形式が解体して行く時代のなかで最初数十万の、やがては数百万の人々から故郷と国籍と権利とを奪い、彼らを経済的な余計者に、社会的な邪魔者にしてしまったさまざまの事件だった。」


4.いかに全体主義の危険を克服するか

 本書の最後に、アーレントは、現代また、全体主義の危険が迫っていると主張する。

「人間を無用なものにするために全体主義の発明したさまざまの制度の恐るべき危険は、急速に人口が増加し、同時にまた土地を失い故国を失った人々も着実に殖えて行くこの時代においては、いたるところでいつも無数の人間が、功利主義的に考えるかぎり実際に〈無用〉になりつつあるということにある。」

 中国の文化大革命やカンボジアのポル・ポト政権を思い出せば、この「予言」はまさに的中してしまったと言わざるを得ない。

 全体主義の危険は、どうすれば克服しうるのか。

 アーレントは言う。

「この強制と、矛盾のなかで自己を喪失しはずまいかという不安とに対する唯一の対抗原理は、人間の自発性に、「新規まきなおしに事をはじめる」eine Reihe von vorne anfangenわれわれの能力にある。すべての自由はこの〈始めることができる〉Anfangenkönnenにある。始まりについては必然的論証もまったく力を持たない。なぜなら始まりはいかなる論理的連鎖から導き出されるものでもないからだ。」

 私たちは常に、新たに「始めることができる」

 ここに自由がある。これを手放すな。

 アーレントはそう言うわけだ。

 ではそれはどうすれば可能なのか。

「テロルのもたらす複数性の破壊は、一人々々の個人の心にすべての人間から完全に見捨てられたverlassen zu seinという感情を残す。」

「全体主義的支配のなかで政治的に体得される人間共存の基本的経験は見捨てられていることVerlassenheitの経験なのである。」

 見捨てられていること、これがテロルをもたらしテロルがもたらすものだ。

 見捨てられているのではないということ。隣人がいて、つながりがあり、そこに信頼関係が結ばれていること。

 これこそが、全体主義を蔓延させないための社会のあり方なのだ。

 このテーマは、その後『人間の条件』などで、「現れの空間」の創設といった形でさらに洗練されていくことになる。



(苫野一徳)


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