アーレント『全体主義の起源1:反ユダヤ主義』

はじめに

f:id:Hyperion64:20110625132326j:image 全体主義とは何か。それはなぜ、そしてどのように起こったのか。

 第1部「反ユダヤ主義」、第2部「帝国主義」、第3部「全体主義」からなる本書は、この問いに答えることを目的とした現代政治学の傑作だ。


 ドイツにユダヤ人の子として生まれたアーレントは、自身、1933年にナチスが政権を取ると、フランス、続いてアメリカへと亡命生活を余儀なくされた。


 あの狂気はなぜ起こったのか。そして、なぜ誰もそれを止めることができなかったのか。

 
 アーレントの探究は、静かに、しかし地下深くのマグマに衝き動かされるように進んでいく。

 第二次大戦後、それほど時をおかずに書かれた本書は、それゆえその後、一部歴史的事実認識に誤りがあるなどの指摘もしばしば受けている。


 しかし、本書は実証的な歴史書というよりは、人間と社会を洞察する第一級の哲学書と言うべきものだ。後の『人間の条件』などにみられる彼女の哲学的洞察は、早くもこの時かなり出そろっている。


 細かな歴史的事実の誤りを気にするよりは、全体主義の勃興を通してアーレントが洞察した、この問題を繰り返さないための社会のあり方にこそ目を向けたいと私は思う。


 長大にして幾重にもテーマが重なり合った本書の内容を、分かりやすい1本の筋にして提示するのは容易ではない。


 しかし以下では、できるだけ本書の核となる構造を浮かび上がらせられるよう、紹介・解説していきたい。


 長大な本なので、第1部から第3部まで、別々のページで紹介・解説しよう。(本書のクライマックスは何と言っても第3部なので、手っ取り早く知りたい方は、そちらだけお読みいただければと思う。)



第1部 反ユダヤ主義

1.反ユダヤ主義の気分


 20世紀の全体主義(ナチズムスターリニズム)が勃興したその起源を、アーレントはまず19世紀ヨーロッパで深刻化した反ユダヤ主義にまでさかのぼって考察を開始する。


 彼女はまず次のように言う。


 当時の反ユダヤ主義の「気分」を理解するためには、フランス革命時にトクヴィルが言った次の洞察が役に立つ、と。


 フランスの民衆はかつて、貴族階級を抑圧者として憎みながらも、彼らへの尊敬もまた少なからず持っていた。


 何だかんだ言っても、貴族は時の「支配階級」だったからだ。

 しかし革命期に、貴族はその支配者としての地位を失った。


 にもかかわらず、彼らは「富」だけはいまだに持っていた。

 民衆が激しく貴族を憎悪したのは、この点だった。


 支配できないくせに、富だけは持っている。このことを、人びとは許すことができなかったのだ。


「堪えがたく感じられたのは抑圧そのもの、搾取そのものではまずなかった。それよりはるかに人々の怒りをそそるのは、明確な機能をまったく持たない富だった。」


 これと同じことが、19世紀の反ユダヤ主義にも言える。


 そうアーレントは主張する。


 ユダヤ人は、その力を失いつつも、富だけは持ち続けていたのだ。


 どういうことか。


 17、8世紀のヨーロッパは、絶対君主制。ここにおいて、君主の財布の役目を果たしていたのは、宮廷ユダヤ人たちだった。


 たとえばイギリスのエリザベス女王の銀行家は、スペイン系のユダヤ人だった。


 ところが絶対君主制は、やがて自らを土台としつつ、国民国家へと移行していくことになる。


 国民国家は、国民の自由な経済活動を基盤とする。絶対君主にあらゆる富が集まる、専制収奪システムではもはやなくなったのだ。


 こうなると、ユダヤ人の富はもはや必要ではなくなってしまう。


 ユダヤ人は、


「その無用の富の故に一般の憎悪の的としかなり得ず、そのあきらかな無力さの故に一般の軽蔑の的としかなり得なかったのである。」



2.ロスチャイルド家


 反ユダヤ主義には、もう1つ、ユダヤ人による世界支配陰謀説という、荒唐無稽な気分もまたつきまとっていた。


 その象徴が、ロスチャイルド家だ。


 19世紀の国民国家では、全西欧のユダヤ人に同権を保証する、ユダヤ人解放令が各国で次々に出された。


 しかしこれは、宮廷ユダヤ人からすれば、むしろそれまでの特権が剥奪されることを意味した。


 この解放令は、国内のユダヤ人に同権と国籍を与えることで、それまでユダヤ人たちが国際的に築いてきた事業の基盤をゆるがす恐れがあったのだ。


 宮廷ユダヤ人だったロスチャイルドは、そこで次のような策に出る。


 自身はヘッセン選帝侯に仕えながら、5人の息子もまた、それぞれフランクフルト・パリ・ロンドン・ナポリ・ヴィーンに同時に仕えさせることによって、自分の一門を国際的な財閥に仕立て上げたのだ。


 このことは、ユダヤ人社会全体を大きく変えた。従来ユダヤ人社会全体で請け負ってきた国際的な事業が、一家族によって牛耳られることになったのだ。


「この時期の本当の御用銀行家はロスチャイルドであって、他のすべてのものはロスチャイルドの代理人、連絡者、エイジェントにすぎなかったのである。」


 ユダヤ人による世界支配という妄想は、ここに起因するとアーレントは見る。


「ユダヤ人の世界支配という荒唐無稽な観念を実証しようとするならば、この家族の像に見られるもの以上に恰好な証明がどこにあり得ただろうか?」



3.反ユダヤ主義政党の誕生


 反ユダヤ主義の徴候は、19世紀初頭のプロイセンに起こった。


 プロイセンは、ナポレオンに敗れて後、国家を国民国家へと改造していった。その際貴族が特権を失い、その貴族たちが憎悪を向けたのが、ユダヤ人たちだったのだ。

 しかし貴族たちの反ユダヤ主義は一過性のものだった。より重要なのは、その後国民国家において登場したプチブル(小商店主など)たちによるユダヤ人憎悪だった。


 先述したように、国民国家は市民の自由な経済活動からなる。彼らプチブルが頼るのは銀行だ。そしてその銀行は、ユダヤ人に牛耳られていたのだ。


 さらにこのユダヤ人銀行家たちは、落日の絶対君主国家とも結びついていた。そしてその国家は、自分たちプチブルを少しも援助しようとはしないのだ。


「銀行家たちに対する小市民階級の憤激は理解できるが、彼らが経済的に依存している銀行資本が同時にまた彼らをもはや全然助けてくれない国家機構に一枚加わっているかのように見えたということがあってはじめて、この憤激は爆発的な政治的因子になった。」


 こうして、プロイセンに反ユダヤ主義政党が登場することになる。


 この反ユダヤ主義政党には、著しい特徴があった。それは「反ユダヤ主義」を掲げるゆえに、超国民的な傾向を帯びたのだ。


 ユダヤ人は世界中にいる。それゆえ、「反ユダヤ主義」も超国民的になる。

「古い政党制と対比した場合、反ユダヤ主義政党が持っているおそらく最も本質的な相違点は、これらの政党が最初からヨーロッパのすべての反ユダヤ主義的集団を一つの超国民的な組織に結集することにとりかかったというところにあった。」

 
 この反ユダヤ主義政党に、「超国家」的運動たる全体主義の萌芽を見ることができる。アーレントはそう主張する。


4.ドレフュス事件


 19世紀、反ユダヤ主義が大きな歴史的流れとして目に見えるようになった事件が、ドレフュス事件だ。


「1894年末、フランスのユダヤ人参謀将校アルフレッド・ドレフュスは軍事法廷でドイツ帝国のためのスパイ行為を告発され、悪魔島への終身流刑を言渡された。判決は全員一致で下され、審理は非公開でおこなわれた。」


 ドレフュスは最初から無罪を主張していたが、有罪判決が覆ることはなかった。(その後事件がでっち上げであったことが分かり、ようやく1906年無罪を勝ち取ることになる。)


 事件の背後にあったのは、まさにユダヤ人憎悪だった。


 フランスは当時、パナマ運河の建設を行っていた。多額の投資が必要だったが、しかしこの頃すでに事業は破産していた。


 しかしパナマ運河開鑿会社は、そのことを国民に隠し、議会を買収して社債発行を行った。


 前代未聞の買収事件だった。パナマ疑獄事件である。

「パナマ疑獄事件は、二つのことをあきらかにした。第一に、第三共和政の内部で議員と国家官僚が商人となっていること。そして第二に、私的事業――この場合はパナマ運河会社――と国家機構とのあいだの斡旋がほとんど独占的と言えるほどまでにユダヤ人の手でおこなわれていたこと。」


 多くの投資銀行が破産し、人びとは貯蓄を失った。


 彼らが憎悪したのは、先述のロスチャイルド家を中心とするユダヤ人金融家たちだった。

 そしてこの頃現れたのが、モッブ(大衆)だ。


モッブはありとあらゆる階級脱落者
)
から成る。モッブのなかには社会のあらゆる階級が含まれている。〔中略〕
モッブは自分を締出した社会と、自分が代表されていない議会を憎んだ。」


 さらにその怒りの矛先は、当然ユダヤ人に向けられることになる。


 こうして、反ユダヤ主義のコマは出そろった。以下に整理しておこう。

①絶対王政から国民国家への流れの中で、その国家的重要性を失いつつも富だけを持っていたユダヤ人への軽蔑的憎悪。

②ロスチャイルド家によるユダヤ人世界支配という妄想。

③プチブルたちの、ユダヤ人銀行家たちへの憎悪。

④モッブたちの、富裕なユダヤ人たちへの憎悪。


第2巻へ続く

(苫野一徳)



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