ラスキン『この最後の者にも』



はじめに


 19世紀イギリス、ヴィクトリア朝時代をまるまる生きたラスキンは、美術評論から社会思想にいたるまで、きわめて幅広い、そして膨大な著作を残した思想家として知られている。

 狂信的な福音主義者であった母から超英才教育をほどこされたラスキンは、7歳で詩を書き始め、旧約・新訳聖書をほぼ暗記し、16歳前には科学論文を学術誌に投稿したりもしていた、神童だった。

 しかし、母のそんな偏狭な思想や教育に、ラスキンは耐えられなかった。

 旺盛な創作意欲と共に、壮年になるにしたがって精神を病んでいくことになってしまったのも、そのあたりに1つの大きな要因がありそうだ。


 本書は、主として美術評論を手がけてきたラスキンによる、異色の経済学(経済思想)書だ。

 人間を利己的存在として理論構成をしてきた従来の経済学を、恥知らずのエセ科学として批判し、経済社会を情愛によって営む道を探究した。

 そうした社会主義的なユートピア思想は、当時、人びとから「素人のたわごと」として嘲笑された。

 しかしそれでもなお、ラスキンは本書について後年次のように言っている。

「わたくしはこれを、わたくしがこれまで書いたもののうち最上のもの、つまり最も真実で、最も正しく述べられ、そして最も世を益するものと信じている。そしてその最後の論文は、とくに労力を費やしたもので、おそらくこれ以上のものは今後書けないであろう。」

 ラスキンの思想は、その後1906年イギリス労働党結成に大きな影響を与えたとともに、トルストイガンジーなどからも、大きな尊敬を得た。

 美しい文体と効果的な比喩を駆使して綴られる本書は、しかし確かに、経済思想としてはナイーヴにすぎるように思われる。

 経済学的な「実証」のレベルを問題にすれば、歯牙にもかけられないほどだろう。

 しかしそれでもなお、私は、ラスキンの思想には、今日もう一度かえりみられるべき根本的な洞察があるのではないかと思う。


1.本書の目的

 4つの論文からなる本書の目的を、ラスキンは次のように述べる。

「富の正確にして確固不動の定義を示すことが、以下の諸論文の第一の目的であった。その第二の目的は、富の獲得が結局は社会のある道徳的諸条件のもとにおいてのみ可能であることを示すことであった。そしてその道徳的諸条件の第一は、正直ということが存在するということについての信頼と、実際目的としてさえそれが達成できるという信頼とである。」

 とは何か、そして、富を可能にする道徳的条件とは何か。

 これが、本書でラスキンが挑む問いである。


2.経済学批判

 まずラスキンは、アダム・スミスリカードウミルら、従来の経済学が、人間を利己的存在ととらえ、人間にそなわった情愛を無視してきたことを批判する。

「これまで、さまざまな時代に、多くの人類の心をとらえてきた迷いのなかで、おそらく最も奇怪な――またたしかに最も信用のおけない――ものは、近世のポリティカル・エコノミーという自称の科学であり、それは社会的活動についての有利な規則が、社会的情愛の力とは無関係に決定されうるという考えにもとづいているものである。」

 人間は、単なる損得勘定だけで経済活動を行っているわけではない。

 ラスキンはそう主張する。

 たとえば貧しい親子はどうか。母親は、自分を犠牲にしてでも、お腹をすかせた子どものために一片のパンを与えないだろうか。

 工場経営者もまた、病に苦しむ労働者をおもんばかることがありはしないだろうか。それがたとえ、病死でもされたら労働力が減ってしまって困るから、という理由をひそませているのだとしても。

 それゆえラスキンはいう。

「これらの相互の利益に影響する事情はさまざまでかぎりがないから、行為の規準を損得の比較からひきだすのは無意味である。そしてそれはまた実際、無意味に終わるべきものなのである。なぜかというと、いかなる人間の行為も損得の比較によらず、正邪の比較によって左右されるべきであるというのが、人間をつくった神の意志だからである。」

 人間は本来、損得勘定で生きるのではなく、正邪の比較によって行為する。

 ここでいう「正邪」とは、広く言えば情愛のことだ。

「わたくしはここで、正義ということばに情愛――ひとりの人間が他人に対していだくような情愛――をも含めた意味で、正邪の比較といったのである。」

 このあたり、確かにラスキンの主張はナイーヴだ。人間は損得でなく正義・情愛によって生きるべきだ、という、お題目のように聞こえなくもない。

 しかしラスキンのすぐれたところは、それを単なる道徳論に終わらせるのではなく、人はいかに、単なる損得だけでなく、情愛にもとづいて経済活動をすることができるか、と問うたことにある。


3.情愛の条件

 ではそれは、いかにして可能だろうか。

 まず、労働需要の変動にしたがって変動する労賃は、労働者を失業の危機にさらすために、資本家も労働者も、互いに敵対し情愛を抱くことなどできないだろう。

 そこで考えるべきは、次の問題ということになる。


「賃銀率はどの程度まで労働の需要につれて変動しないように調整できるか。


 賃金を不安定な変動に任せるのではなく、一定固定させてしまおう。そうラスキンは言うわけだ。

 続けて彼は、商人の義務について次のように言う。

かれの明敏さと精力のかぎりをつくして、そのものを完全な状態に生産し、あるいは獲得し、それが最も必要とされるところに、できるかぎりの最低価格で分配することに努めなければならない。

 商人の義務は、利己的な儲けをただ最大化することにはない。

 それは、できるだけいいものを、できるだけ安く、最も必要な人びとに分配することにある。

 そして言う。

軍艦の艦長が、難破のときに最後までかれの艦にふみとどまり、また飢餓にさいしては最後のパンを水兵と分けあわなければならないように、製造業者はどんな商業上の恐慌あるいは危難にさいしても、その苦痛をかれの職工とともにうけなければならない。それどころか、職工たちが感ずるよりも、より多く自分でこの苦痛を負わなければならない。そうすることは、ちょうど父親というものが飢餓、難破、あるいは戦闘にさいして、わが子のためにみずからを犠牲にするのとおなじことである。

 資本家は、労働者を使い捨てのコマのように使ってはならない。むしろ、彼らに対して、自己犠牲をもいとわない父のようでなければならない。

 ラスキンはそのように主張する。

 当時のイギリスにおける労働者のあまりにひどい環境からすれば、ラスキンのこうした訴えは、やや崇高にすぎるかもしれないが、時宜を得たものだったと言うべきだろう。

 実際現代では、まだまだ問題はあるにせよ、彼の時代ほどの過酷な労働環境はなくなった。ラスキンの思想が、そこにいくばくかの影響を与えたのは間違いない。


3.富とは何か

 続いてラスキンは、の定義を試みる。

 彼はまず次のように言う。

「富裕は電力のような一種の力であり、ただそれ自身の不均等ないしは反対物をとおしてのみ作用するものである。すなわち、諸君が財布のなかにもっているギニ貨の力は、まったく諸君の隣人の財布にギニ貨が不足していることによるのである。

 だれかが富めば、だれかが貧しくなる。ラスキンはそう言うわけだ。それゆえ、富を蓄積することは、『自分自身に都合の良いように最大限の不平等をつくりだす術』である。

 結局富とは、社会的には不平等を作り出す貧しいものなのだ。

 したがって、本当の富とは次のようなことに存するのではないだろうか。ラスキンはそう読者に問いかける。

「それは一国の製造業のなかで、りっぱな精神の人間をつくることが結局は最も利益のあることになりはしないかということである。」


4.正義とは何か

 続いてのテーマは、正義とは何か。

 ラスキンは言う。

正義は完全な交換において存在するものである。

 不当な不等価交換が起こるから、これほどにもひどい経済的不平等が起こるのだ。私たちは、「完全な交換」という正義をめざすべきである。

 もしもこれが達成されれば、次のような結果が起こるだろう。そうラスキンは主張する。

正義をおこなうことの直接の結果は、第一にぜいたく品の獲得において、第二に道徳的影響力の訓練において、富の力を減少させることである。」

 正義が行われれば、人びとは富裕であることにそれほど大きな関心を寄せなくなるはずだ。ラスキンはそう言うわけだ。


5.正義はいかに可能か――価値、富、価格、生産について

 ではそのような正義(完全な交換)は、どうすれば可能になるだろうか。

 この問いを考えるため、ラスキンは、価値価格生産物のそれぞれについて、その本質をまず問いただす。

 まず「価値」について。

 経済学では、価値とは交換価値のことであるとされる。つまり、他のどんな物とどれくらい交換可能かという点が、価値をはかる尺度であるとされる。

 しかしラスキンは言う。


「貴重で」あるということは、「生に対して役にたつ」ということである。だから真に貴重な、あるいは役にたつものは、その全効力をもって生につうずるものである。ものが生につうじない程度に比例して、あるいはその効力がそこなわれる程度に比例して、そのものは貴重でなくなり、またそれが生から遠ざかるにつれて無価値に、あるいは有害になるのである。」


 価値とは、どこまでも生にどれだけ役立つかで考えられるべきものである。彼はそう主張する。

 続いて「富」について。

 ラスキンはこれを次のように定義する。

「それは「われわれが使用することのできる有用なものの所有」である。」

 富とは、使われずにただ貯め込まれているものを意味しない。「できる」があってはじめて、それは「富」たりうるのだ。

 しかしここでいう「有用」とは何か。ラスキンは言う。

「もしあるものが有用であるためには、それがたんに性質上役にたつばかりでなく、有用に用いうる人の手中になければならないのである。すなわち、正確なことばでいえば、有用とは勇敢な人の手中にある価値である。」

 なぜここでいきなり「勇敢な人」が出てくるのかよく分からないが、いずれにせよラスキンによれば、「有用」とは、「それに値する人にとって」という枕詞がつくべきものなのだ。

それゆえに富というのは、「勇敢な人による価値あるものの所有」ということである。」

 要するにラスキンが言いたいのは、富がそれに値しない人たちに集中していてはならない、ということだ。

 続いて「価格」だが、これは従来の労働価値説にもとづいて、価格は労働した分にふさわしくつけられるべきだとラスキンは主張する。

 その際、労働は種類によってよいものとそうでないものがあるとラスキンは言う。

宝石工の技術は、拙劣で下品な自尊心に貢献するという点で、おそらく非常に有害なものであろう。それゆえ、わたくしはほとんどすべての労働は結局、簡単にプラスの労働とマイナスの労働に分けることができると思う。プラスの労働というのは生を生ずるようなものをいい、マイナスの労働というのは死を生ずるようなものをいうのである。そして直接に最もマイナスの労働は殺人であって、直接に最もプラスの労働は子供を生み、かつ育てることである。それゆえ、怠惰を中心にして、そのマイナスの側では殺人が憎むべきものであるのとまったくおなじ程度に、プラスの側では育児が賞讃されるべきことである。」

 このあたりも若干ナイーヴにすぎる記述であるようにも思えるが、しかし、人のため、生のためになる労働こそがもっと称賛されもっと富に値すべきだというラスキンの主張は、現代においてもう一度見直されてもいいものであるようにも思う。


6.生産の目的

 「正義はいかに可能か?」という問いに答えるため、ラスキンが最後に考察するのが「生産の目的」だ。

 「情愛」を説く箇所と共に、本書で最も重要な箇所だろう。

 ラスキンは言う。

「絶対的消費こそ生産の目的であり、極致であり、完成である。」

 ただ生産することが目的なのではない。重要なことは、それがちゃんと消費されることにある。

 労働者は、ただただ生産にいそしみ、日々のパンや楽しみを味わえないでいる。それはおかしいじゃないか。ここには、ラスキンのそうした思いが込められているようにみえる。

「すべての本質的な生産は口のためであり、最後は口によって計量されるものなのである。」

 生産とは、資本家がただ富を蓄えるためだけにあるものではない。それは、すべての人びとが、満足いく消費を可能にするためなのだ。

 これは非常に重要かつ本質的な指摘だろうと私は思う。

 このことを、従来の経済学者たちは見失ってきた。そうラスキンは批判する。

経済論者たちの考えは常時金銭上の利得にそそがれていて、口の利得にそそがれてはいないのである。そしてかれらはあらゆる種類の網や罠におちいり、鳥刺の鏡に目をくらませる鳥のように、コインの光に目がくらむのである。

 生のための生産へと目を向け変えよう。ラスキンの最大の主張は、ここにある。

つまり、生なくしては富は存在しない。生というのは、そのなかに愛の力、歓喜の力、讃美の力すべてを包含するものである。最も富裕な国というのは最大多数の高潔にして幸福な人間を養う国、最も富裕な人というのは自分自身の生の機能を極限まで完成させ、その人格と所有物の両方によって、他人の生の上にも最も広く役だつ影響力をもっている人をいうのである。」

 そしてこのことを可能にするのは、公共の努力というより一人一人の力にかかっている。

 最後にラスキンはそう主張する。


最後に注意せよ。人類のこの真の幸福をすべて有効に増進するのは、公共の努力によるのではなく、個々人の努力によらなければならない。
自分が将来出世するかどうかは神の決定にまかせ、自分はこの世で幸福になろうと決心し、現在より以上の富を求めるのでなく、より単純な快楽を求め、現在より以上の栄達でなく、より深い幸福を求めようと覚悟し、冷静を第一の財産とし、平和な生活に対する悪意のない誇りと、落ち着いた営みをもって、みずら尊敬するような人々の模範をわれわれは必要としているのである。


(苫野一徳)

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