モンテッソーリ『モンテッソーリ・メソッド』



はじめに

 世界中に多くのファンや実践者をもつ、モンテッソーリ・メソッド

 本書は、このモンテッソーリ・メソッドを、モンテッソーリ自身が最初に体系化したものだ。(1909年刊行)


 モンテッソーリはもともと医師で、知的障害の子どもたちの治療に携わっていた。


 その経験を通して、彼女は、知的障害の子どもたちへの働きかけを、一般児童たちに対してもより効果的に応用できるのではないかという着想を得る。


 そこで彼女は、ローマのスラム街サン・ロレンツォ区の共同住宅の一室に、「子どもの家」という保育所を創設し、自らの着想を実行に移すことにした。


 20世紀最も注目を集めた教育実践は、こうして始まった。


 今日、幼児英才教育の方法として着目される向きもあるモンテッソーリ・メソッドだが、彼女自身はけっしてそうしたことを主眼に教育を行っていたわけではないということは、改めて銘記されるべきことだと思う。


 スラム街に最初の「子どもの家」を開設したということからも、それは十分うかがえる。


 モンテッソーリ・メソッドの特徴を簡潔に言うと、自由闊達な環境における成長を第一に、適切な時期に、独自に考案された教具を使って、最も効果的な仕方で成長を後押ししようとするもの、となるだろうか。


 ここでいう「適切な時期」とは、モンテッソーリ教育でも最も有名な概念の1つである「敏感期」のことだが、本書ではこの言葉はまだ登場していない(この発想は十分展開されているが)。


 子どもたちが、視覚対象や言語、数、運動など、さまざまな特定のことに対して、強い感受性を持ちその対象物を一気に吸収してしまう時期のことを言う。


 子どもたちを束縛し、ただただ言うことを聞かせるのではなく、この敏感期を上手にとらえ、のびのびと活発に育んでいくこと。


 ここにモンテッソーリ教育の肝がある。



 ちなみに、モンテッソーリは、彼女と同じいわゆる20世紀初頭の「新教育」の旗手の1人だった、キルパトリックから激しく批判されている。(キルパトリック『モンテッソーリ法の検討』のページ参照)


 いわく、モンテッソーリの教育理論は、アメリカのそれから50年遅れている、と。


 ここでキルパトリックが念頭においていたのは、彼の師ジョン・デューイだ。

 やはり「新教育」の理論的支柱として、今日にいたるまで教育に絶大な影響を与え続けている哲学者だ。(デューイの教育思想については、『学校と社会』『民主主義と教育』『経験と教育』などのページを参照。キルパトリックが開発した「プロジェクト・メソッド」については、『プロジェクト法』のページを参照。)


 確かに、教育のあり方や方法を「考え抜いた」程度でいえば、それはやはり哲学者デューイに軍配が上がるのはある意味仕方のないことだろう。


 実際、以下にも書くように、モンテッソーリの教育思想にはややナイーヴなところも見受けられ、「深み」でいえばデューイには確かにおよばない。


 しかしモンテッソーリの本領は、稀有な実践家として、その経験から得られた教育方法を、ある意味汎用性のある形で体系化した点にこそあると私は思う。そしてその方法は、確かに十分、妥当かつ有効なものだろうと思う。



 ただし私たちは、モンテッソーリは自らの「観察」を通して自身のメソッドを体系化したのだということを、今改めて自覚しておくべきだ。


 ということはつまり、今後の「観察」を通して、モンテッソーリ・メソッドは修正・改善されていく可能性に開かれているし、開かれていなければならないということだ。


 「モンテッソーリ・メソッド」というものが、絶対的な体系として存在しているわけではない。


 「すぐれた教育」は、絶対化され祭り上げられる風潮が時に起こってしまいがちなので、このことは十分肝に命じておかなければならないだろうと私は思う。



1.科学的教育学 


 モンテッソーリは、自らの教育学を科学的教育学と称した。


 それはつまり、子どもたちの自然な成長発達を虚心に「観察」し、そのいわば法則を見極めようとするものだ。


 そのような「観察」のために必要なこと、それは、子どもたちが「自由」に活動しているということだ。


科学的教育学の根本的な原理は、まさしく生徒の自由でなければならない。――そのような自由は子どもの本性の個別的自発的表示の発達を許すような自由である。


 従来、学校空間は、机や椅子が固定され、賞や罰で子どもたちを支配するような環境だった。


 それはあまりに「不自然」だとモンテッソーリは言う。


骨でさえ歪曲されるほど人為的な状況の中で成長するよう運命づけられている子どもの精神に起こることを、われわれは考えてみなければならない。


 このような人為的な空間においてではなく、子どもたちの自由闊達な活動を可能にする空間において、その自然な成長発達の法則を洞察し、これを生き生きと伸ばすこと。


 モンテッソーリはそのような教育学・教育実践を訴えた。



2.「子どもの家」の理念


 ではそのようにして誕生したモンテッソーリ・メソッドとは、いったいどんなものなのか。


 そのことが述べられる前に、本書には「子どもの家」開設にあたってのモンテッソーリの就任演説が収録されているので、彼女がこの保育所にこめた理念についても見ておくことにしたい。


 モンテッソーリは言う。


「それは家庭と学校を教育目的に関して一致させることです。」


 家庭と学校との融合。これは単に、家庭と学校との協力というにとどまらない。モンテッソーリは言う。


共同住宅のすべての母親がこの特権を享受し楽な気持で仕事にでかけられるということを思い返えしてみましょう。現在まで社会におけるたった一つの階級だけがこの特権を持っていたのです。裕福な婦人は、子どもを乳母や家庭教師の手にゆだねて、さまざまな用事や楽しみにでかけることができました。今日、これらの改善された家の婦人は、貴婦人と同じように、「私は息子を家庭教師と乳母に預けてきました」ということができます。またこの他に、王女のように「主治医が子どもに気をつけ、その健全でたくましい成長を指導します」とつけ加わえられます。」


 スラム街の貧しい家庭。働く母親たちは、とても子どもたちの教育にまで手が回らない。


 「子どもの家」は、そうした保育や教育の機能を、しっかり社会が担い支えていこうという理念によって開設されたのだ。


 きわめて先見的な、現代改めて高く評価すべき考えだと思う。


 ただもう一方で、私の考えでは、モンテッソーリの思想には時代的な限界とも言うべきものもある。


「種を意識的に改善し、自分自身の健康と徳を培うために、これは人間の結婚生活の目標でなければなりません。それはまだあまり誰も考えていない崇高な概念です。そして未来の生きている先見の明ある親切な教育者であり慰め手の、社会化された家庭は、種を改善し、人類を生活の永遠の勝利に向けて送りこむことを望む人間同胞の真実で価値ある家庭です。


 結婚・家庭生活は、人類という種の意識的な改善のためにある。


 この一種の進化論的発想は、当時としてはかなり広く行き渡っていたもので、モンテッソーリもそれをただ素朴に述べただけだったのかもしれない。


 モンテッソーリと同じく「新教育」の思想家といわれるエレン・ケイもまた、この一種の進化論的思想を、モンテッソーリよりはるかにラディカルに述べていた。(エレン・ケイ『児童の世紀』のページ参照)


 しかしこうした発想が、その後の全体主義の温床になったということもまた、現代の私たちにはよく知られていることだ。


 種のために、という大義は、容易に、「種のためにならない種族を殲滅せよ」という主張へとすり替わってしまうのだ。(この点についてはアーレント『全体主義の起源2:帝国主義』などのページを参照)


 エレン・ケイにも、まさにそのような思想の萌芽があった。


 もちろん、この点をもってモンテッソーリを批判するのは少々アンフェアだろう。彼女はその時代の一般常識を、ただ述べたにすぎないとも言えるのだから。


 ただし、同時代のやはり「新教育」を牽引したデューイは、ダーウィンの進化論から影響を受けながらも、人類の目的は種の改善にある、などという言い方は決してしなかった。この点、一応心にとめておくべきことではないかと私は思う。



3.モンテッソーリ・メソッド


 それでは、具体的にモンテッソーリ・メソッドについて見ていくことにしよう。



①規律について


 先述したように、その根本思想は子どもたちの「自由」にある。モンテッソーリは言う。


「自由とは、活動性である。」


 そして言う。


「規律は自由を通して生じなければならない。ここに公立学校の方法の信奉者が理解しにくい重要な原理がある。」


 規律は自由を通して学ばれるべきものである。


 子どもたちを縛り付けることが、規律を教えることではない。そうした単なる束縛は、子どもをただ無力にしたにすぎない。そうモンテッソーリは言う。


「彼は無力にされたのであって、躾けられたのではない。」


「われわれは、その人が自分自身の主人である時、躾けられた個人と呼ぶ。それゆえ生活のある規則に従うことが必要であるような時彼は自分の行為を規制することができるのである。


 自らの意志で自らを律すること。それが規律の本質である。そうモンテッソーリは言うわけだ。


 現代学校教育に、今なおきわめて示唆深い考えだ。


 とは言え、それは何でもかんでも子どもたちのやりたい放題を容認せよというわけではない。


 子どもたちにはしっかりと善悪を教えよ。モンテッソーリはそう付け加えることも忘れない。



②集団授業の排除


 続いてモンテッソーリ・メソッドの基軸に据えられるのは、「集団授業の排除」だ。


 個々の生命の自由な躍動を重視するモンテッソーリにとって、集団に縛り付けることは不自然だというのだ。



③授業の原則


 モンテッソーリが重視した授業の原則は、簡明さ、単純さ、客観性」にある。


 とにかく直接的に分かりやすく、そして客観的に。


 客観的というのは、教師の人格が消滅するような方法で」ということだ。めざすのは、学習の目的物それ自体だというわけだ。


 それでもなお子どもたちが授業を理解しなかった場合、大切なのは次の2点だとモンテッソーリは言う。


「第一、強いて教授を繰り返えさないこと、第二、子どもに間違ったことを、あるいは理解されていないことを感じさせないことである。」


 目的は授業内容の理解にあるのだから、変に劣等感を刺激したり、間違ったという記憶を強烈に印象づけたりすることには意味がない。そうモンテッソーリは言うわけだ。



④敏感期


 モンテッソーリ教育といえば、「敏感期」。そう言われるくらいに有名な概念だが、先述したように、本書ではまだこの概念は登場していない。


 しかしその基本的な発想は十分に論じられている。


 敏感期というのは、視覚対象や言語、数、運動など、さまざまな特定のことに対して、強い感受性を持ちその対象物を一気に吸収してしまう時期のことを言う。


 この敏感期を見逃さず、適切な時にその感覚を飛躍的に伸ばすこと。これがモンテッソーリ・メソッドのかなめとなる。



⑤教具


 そのために、モンテッソーリはさまざまな「教具」を考案した。


われわれの教育は、自己教育を可能にし、感覚の組織的教育を可能にする。そのような教育は教師の能力ではなく、教具体系にかかっている。これは、第一に子どもの自発的な注意を引き、第二に、刺激の合理的な段階を含む教具を提供する。」


 この時重要なのは、さまざまな感覚を分離するということだ。



「たとえば、聴覚の練習は静寂であるばかりでなく暗い環境においてより効果的に与えることができる。」

 聴覚を伸ばしたいのであれば、それに特化すること。そうすることで、その感覚を飛躍的に伸ばすことができる。そうモンテッソーリは言うわけだ。


 この点に、キルパトリックがモンテッソーリを批判し、彼女の考えはアメリカの50年前程度だ、といった理由がうかがえる。


 というのも、キルパトリックの師デューイは、感覚を分離した教育というものを、長らく批判し続けていたからだ。


 人間のさまざまな能力は、その時々の状況との相互作用において「全体的」に伸ばされるべきものだ。そうデューイは主張した。


 「聴感覚」それ自体の教育などというのは、デューイからしてみればナンセンスなのだ。


 私たちは、日々異なるさまざまな環境(状況)の中で生きている。したがって聴感覚もまた、聴感覚それ自体というものがあるというより、そうしたさまざまな状況に応じて、さまざまな形で使われているものなのだ。


 だから聴感覚は、そうしたホリスティック(全体的)な環境において成長すべきものなのだ。


 このデューイの考えには一定の説得力があるが、しかし私は、モンテッソーリとデューイの考えを、ことさらに対立的にとらえる必要はないのではないかと考えている。


 感覚機能などを要素に分けて、その要素ごとに伸ばすというのは、確かにあまりに要素還元主義的な古めかしい感じがするが、そうした方法が「使える」部分も、きっと少なからずあるはずだ。


 第一、子どもたちはそうした「練習」を、多くの場合かなり楽しんでいるように思われる。


 私たちは実際、自分たちの何らかの感覚を研ぎすまし、ゲームに興じることが好きなものだ。


 ゲーム感覚で行われるモンテッソーリ・メソッドは、その点十分に的を得ているのではないかと私は思う。


 だから、要素還元的方法と、ホリスティックな方法と、どちらも相補的に組み合わせればいいものなのだろう。


 ちなみに、モンテッソーリの教具がどのようなものでどのように使われているかについては、本書でも細かく描写されてはいるが、これはむしろ目で見れば一目瞭然のことなので、ここで文章にするのはやめておく。


 関心のある方は、次の本に写真つきでたくさん掲載されているので、参考にしていただければと思う。






4.モンテッソーリの子ども観


 最後に、モンテッソーリの子ども観・教育観について書いておきたい。


子ども達は理解されていない。なぜならば大人は子どもを自分の物差しで判断するので。大人は子どもの要求は何らかの有形なものを手に入れることだと思い、親切に子どもがこれをするのを助ける。ところが子どもは概して、無意識の欲求として彼自身の自己発達をもっている。」


 大人はすぐ子どもに、あれをやるな、これをやるな、と言い、そうかと思うと、あれも与えこれも与えしてしまう。


 しかし子どもたちには、自らの意志で成長しようという強い本性が備わっている。


 それをしっかり見極め、寄り添うこと。


 これが、モンテッソーリの教育観のかなめである。


 そうした子どもの自主性を無視した教育について、モンテッソーリは卓抜した比喩で次のように言っている。


われわれが、もし、寄席演芸館の一群の奇術師連の真中か、稲妻のように変わる変装家達のまっただ中に落ち込んだら何が起こるだろうか。〔中略〕もしわれわれが行なおうとするものが何でも手からひったくられ、またたく間に完成させられ、そしてわれわれ自身は無力と屈辱的な不活発に余儀なくさせられるならばわれわれはどうするだろう。困惑を他に表現する仕方を知らないで、われわれは自分自身をこれらの狂気の人々からげんこつや叫び声で守ろうとするだろう。」



(苫野一徳)

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