ジジェク『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』

はじめに
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 ラカンの精神分析理論を武器に、映画・文学批評から社会批判にいたるまで、幅広く縦横無尽に自論を展開し続けているジジェク。

 物事をつねに斜めから見る、というより、ほとんど裏側から視線を染み込ませさらにその内部から拡散させていくように見るジジェクの視野・思考は、読む人に、「はぁ、そんな物の見方もあったのか」とうならせるような発見を与えてくれる。

 しかし私は、本書の主張、つまり「コミュニズム(共産主義)よもう一度!」には、ほとんど納得することがなかった。

 現代資本主義の抱える問題については、私もある程度ジジェクと問題意識を共有しているが、そこからなぜコミュニズムへと一足飛びに行くのか、その理由はまったくもって明確でない。

 実際ジジェク自身、それを明確にするつもりがなさそうだ。

 映画や小説を巧みに使いながらの社会批判は、かなり面白い部分も多いが、それだけにどこか「イメージ」に頼りすぎている感も拭えない。


1.コミュニズム(共産主義)から現代を見る

 本書冒頭で、ジジェクはまず次のように宣言する。

「本書が示すものは、中立的な分析ではなく、徹頭徹尾「偏った」分析である。なぜなら真実とは偏っているもので、人がある立場をとったときにだけ近づける、だからこそ普遍性をもつものだからだ。もちろん、ここでとられる立場とは、コミュニズムである。」

 徹底してコミュニズムに沈潜し、そしてそこから、現代を見る。

 その戦略は次のようだ。

「なすべきは、満を持しての直接対決で去勢を敢行することではなく、根気強くイデオロギー批判を重ねることで権力者の支配力を弱めていき、まだ権力の座にある当局が、ふと気づいたときには声高な叫びに悩まされているようにすることだ。」

 コミュニズムの立場から、現代社会のイデオロギーを暴き出し批判し続ける。そのことで、現代資本主義を疲弊させてやろう。

 そうジジェクは言うわけだ。


2.現代資本主義の問題

 では、ジジェクが敵対する現代資本主義の問題とは何だろう。

 それは、多くの人を圧倒的に排除するシステムだ。

 あのリーマンショック(2008年)の時にも、さらにその前のたとえばエンロン破綻スキャンダル(2002年)の時にも、私たちは次のことを嫌というほど思い知らされた。


「仕事と預金を失った何千人もの従業員は明らかにリスクにさらされたが、現実には選択の余地はなかった――リスクは彼らには見えない運命だったのだ。
 これに対し、関連のリスクを見抜いており、状況に干渉できる権限も有していた者たち(つまり経営幹部)は、破綻前に自社株を換金することで、自分のリスクを最小限に抑えていた。現代社会にリスキーな選択がつきものであるのは確かだが、じつは選択するのは一部の人間だけで、その他おおぜいはリスクを冒すだけの社会なのだ。

 金融危機を招いた張本人である投資家や経営者たちは、そのリスクをある程度回避することができた。

 ありうべきことか、彼らの失敗のツケを払わされたのは、一般市民(労働者)だったのだ。

 ジジェクは言う。しかしだからと言って、怒りに任せて我を忘れるな。

「怒りにまかせて行動して自ら傷ついてもかまわない、といったポピュリスト的な衝動には抗わねばならない。無意味に怒りをあらわにするのではなく、怒りをコントロールして、思考する冷徹な決意に変換することだ。すなわち真にラディカルに思考し、このような脅迫が横行する社会とはどういうことかと問わなければならない。

 この社会の本質を暴き出し、そして巧みにこれを転覆させようではないか。

 ジジェクはそう主張するのだ。


3.文化資本主義

 現代資本主義の核には、たとえば文化資本主義とも言うべきものがある。

 その典型を、私たちはスターバックスに見ることができる、とジジェクは言う。

 スターバックスの広告文に、次のようなものがあった。

「あなたがスターバックス製品を買うとき、お気づきかどうかわかりませんが、一杯のコーヒーより大きなものを買っています。コーヒーの倫理を買っているのです。スターバックス社は「シェアード・プラネット」プログラムを通じて世界の他のどの会社よりも多くのフェアトレード・コーヒーを購入し、コーヒー豆の栽培農家がその重労働に見合うフェアな対価を受けられるようにしています。加えて、世界じゅうの農地に投資し、コーヒーの栽培法の改善や土地改良に取り組んでいます。これこそ、コーヒーの好循環。」

 これに対してジジェクは言う。

「ここに「文化的」余剰というものが詳述されている。価格が他社よりも高いのは、環境への配慮や生産者への社会的責任、加えて、社会生活に参加する場を含めた「コーヒーの倫理」を買っているからなのですよ、と」

 かつて左派は、資本主義の搾取を弾劾した。

 しかし今や資本主義は、いわば左派的な倫理的仮面を身につけたのだ。つまり左派は、資本主義に取り込まれてしまったのである。


4.コミュニズムよ、もう一度!

 ではこうした資本主義と、いかに戦うか。

 ジジェクは言う。

 なまぬるいリベラリズムには意味がない。

 単純なリベラリストは次のように言う。

「女性を公務から閉めだし、基本権を奪いたいのですか?宗教を批判、嘲笑した者は全員死刑でいいと?」

 これに対して、ジジェクは言う。

「このとき疑問に感じるべきは、答えが自明すぎることだ。誰がそんなことを望むというのか?問題は、こうした単純すぎるリベラルの普遍主義が、とうの昔に純粋さを失っていることだ。」

 当たり前のお題目を唱えるだけのリベラリズムに、用はない。

 世界が抱える最難問を解くためには、つまり、資源不足環境破壊第三世界の搾取などの問題を解くためには、リベラルな市場経済に依拠し続けるわけにはいかない。

「暴力による反逆を起こす権利は充分にあるのではないか?コミュニズムへの道がいままた開かれようとしている。」

 このあたりから、私としてはジジェクの論立てに中々ついていくことができなくなる。

 現代資本主義、それもグローバル資本主義が抱える問題は、もはや誰の目にも明らかだ。

 資本主義というシステム自体、今のままであり続けようとするのであれば、それは耐用年数を超えていると言うべきだろう。

 確かに私たちは、今何らかの形で、この「暴走する資本主義」(ロバート・ライシュ)を編み直していく必要がある。

 しかしだからといって、なぜそこから「暴力による反逆」を通した「コミュニズム」へと行きつくのか、その論理的必然性がわからない。それは冒頭でジジェクが言っていた通り、最初から「コミュニズム」ありきの論立てであるからという以外に理由がない。

 この論理的必然性が見えない限り、私には、ジジェクの言葉がどれも皮相でむなしく聞こえる。


5.実社会の敵対性

 コミュニズムから見て、現代社会には次の4つの「敵対性」がある。ジジェクはそう指摘する。

「①迫りくる環境破壊の脅威。②いわゆる「知的所有権」に関連した私的財産についての不適切な考え。③とりわけ遺伝子工学などの新しい科学テクノロジーの発展にまつわる社会・倫理的な意味。そして最後になったが、やはり重要な④新しい形態のアパルトへイト=新しい〈壁〉とスラム。」

 このうち①〜③までは、ネグリハート「コモンズ」と呼ぶものの危機である。

 本来「共有」されるべきはずのものが、今や不当に私有化されている。そのことを、ネグリ=ハートと同じく、ジジェクもまた激しく批判する。(ネグリ=ハートの「コモンズ」の考えについては、ネグリ=ハート『マルチチュード』のページを参照)

 しかしジジェクがこれらの中で最も重視するのは、④の「新しいアパルトヘイト」、つまり新しい排除されている人びとの存在だ。

 コモンズを大切に、と言っても、そこにとどまっているかぎりは社会主義の域を出ない。

 ジジェクは社会主義と共産主義を峻別して次のように言っている。

「社会主義はマルクスが「粗野なコミュニズム」と呼んだもので、そこではヘーゲルならば所有の抽象的否定と呼んだであろうものしか得られない。すなわち、所有の領域内での所有の否定であって、それはとりもなおさず「普遍化された私有財産」である。」

ここから、コミュニズムの次の基本定義がもたらされる。社会主義とは対照的に、コュニズムでは特定の限定を回避して、単独的普遍性へ、単独性と普遍性との直結へと目を向ける。

 社会主義は、いわば国家によって私有を肩代わりするようなものだ。それは結局のところ、国家による私有というに等しい。

 対して共産主義は、徹頭徹尾私有を否定する。

 そしてそのようなコミュニズムは、まさに「排除された人びと」にこそ目を向けるのだ。

 ジジェクは言う。

ポストモダンの左派がマントラのごとく唱えてきたのは「ジャコバン/レニン主義」中央集権独裁のパラダイムをもう脱しなければ、ということだった。だが、ここに来て、この呪文を逆転させ「ジャコバン/レニン主義」にどっぷり浸ることこそ今日の左派に必要だと認めるべきだろう。

 どんどん「危うい」匂いがしてきていると思うが、どうだろう。さらにジジェクは言う。

コミュニズムの不変の要素とは、プラトンの昔から中世の秘教派の反乱を経て、ジャコバン主義、レニン主義、毛沢東主義にまで有効とされる「四つの基本概念」だ。厳格な「平等主義の正義」、規律のための「テロル」、政治における「主意主義」、そして「人民への信頼」。

 ジャコバン主義とか「テロル」とかいう言葉をさらりと言ってのけるのは、どこまで本気なのか私にはよくわからない。いつもの斜に構えた物言いなのか、それとも大真面目なのか。

 そしてコミュニズムを標榜する以上、ジジェクは当然反=国家を主張する。

「真に為すべきは、国家と距離をとることではなく、国家自体を非国家モードで機能させることだ。

 具体的にはどういうことを意味しているのか、よくわからない。何となく、イメージだけという印象を受ける。


6.現代の分離された労働3階級

 ジジェクは言う。現代社会においては、労働者階級が3つに分たれ、さらに互いに嫌悪しあいながら生きている、と。

「知的労働者、昔ながらの手工労働者、社会からの追放者(失業者、スラムなど公共空間の空隙の住人)である。」

「プロレタリアートはこうして三分され、互いに張りあっている。知的労働者は「赤首」(無教養な南部白人)に対する文化的偏見でいっぱいだ。一般の労働者は、知的労働者や追放者へのポピュリズム的な憎悪をにじませる。追放者は社会そのものに敵対している。」

 となれば、彼らが団結さえすれば、コミュニズムはもはや成ったも同然じゃないか。そうジジェクは言う。

「なつかしい「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」の叫びがいまほど的を射ているときはない。新たな「ポストインダストリアル」資本主義の状況において、労働者階級の三つの部分の団結は、すでに勝利である。

 このあたりも、ずいぶんむなしく私には聞こえる。

 むしろ、まさに団結できないほど分割されてしまっていることが問題なのではないか。そこを、だからこそ団結すれば、などと言うのは、ジジェク自身が批判するまさに「ユートピア」なのではないだろうか。


7.戻っておいて、コミュニズムへ

 最終章で、ジジェクは言う。今、決して少なくない人たちが、資本主義への怒りを声に上げ、コミュニズムに戻ろうとしていると。

 それにまた、マルクス主義を批判したポストモダンの思想家たちもまた、結局はコミュニズムを信じていたのだ。

 ドゥルーズは、死の直前までマルクスについての本を執筆中だった。

 死の直前に神に許しを乞うキリスト者のように、ドゥルーズもまた、本当はコミュニズムを信じていたのだ。

 本書の最後にジジェクは言う。

「恐れるな、さあ、戻っておいで!反コミュニストごっこは、もうおしまいだ。そのことは不問に付そう。もう一度、本気でコミュニズムに取り組むべきときだ!


(苫野一徳)


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