ジジェク『ラカンはこう読め!』

  はじめに

 スロヴェニアの鬼才、スラヴォイ・ジジェクは、超難解で知られるジャック・ラカンの精神分析理論を武器に、映画や社会批評などを幅広く手がける思想家として知られている。

 本書は、そのジジェクがついに書いたラカンの入門書。

 とは言っても、ラカンの理論を逐一解説していくような本ではない。

 ジジェクは言う。

「最良のラカン読解法とは、ラカンの読書法をみずから実践すること、すなわちラカンとともに他者のテクストを読むことではなかろうか。」

 ということで、ジジェクは、ラカン理論を直接解説するのではなく、これを映画や社会批評に応用することで、「なぁるほど、ラカン理論の“物の見方”はこういう感じか」ということを分からせようとする。

 そしてその試みは、それなりに成功していると言っていいだろうと私は思う。

 もちろん、本書で描き出されたラカン理論は、そのごく一部にすぎない。しかしそれでもなお、本書は、最上のラカン使いによる、最上のラカン入門書と言っていいのではないかと私は思う。


1.想像界・象徴界・現実界

 ラカンといえば、まず思い浮かぶ用語が想像界象徴界現実界

 簡単にいうと、想像界とは私たちが目にしているこの世界。それは、私たちの知覚や欲望などに彩られた世界だから、ありのままの世界、つまり現実界ではない。

 私たちはこの想像界を、目に見えないルール・秩序の世界、つまり象徴界に規定されつつ生きている。

 象徴界のルールとは、たとえば、人と出会ったらお辞儀をするとか、褒められたら「いえいえそんな」とまずは言うとか、みんなブランド物を欲しがっているとか、そういった目に見えない秩序のことだ。

 私たちは、こうした象徴界のルールに多かれ少なかれ左右されながら、自分の想像界を生きている。

 この象徴界を、ラカンは〈大文字の他者〉とも呼ぶ。象徴界とは、大文字の他者、つまり社会全般に、無意識的に行き渡っているルールのことなのだ。

 ジジェクはこのことを次のように言う。

象徴的秩序、すなわち社会の不文律は、言葉を話す存在にとっては第二の天性である。それは私の行為を指示し、統制する。」

 しかしこの象徴界のルールは、私たちを絶対的に支配するルールであるというわけではない。

そのしっかりとした力にもかかわらず、〈大文字の他者〉は脆弱で、実体がなく、本質的に仮想存在である。つまりそれが占めている地位は、主観的想像の地位である。あたかもそれが存在しているかのように主体が行動するとき、はじめて存在するのだ。

 私たち一人一人が、このルールを一般的な社会ルールだと(無意識的に)思って初めて、象徴界は象徴界として機能するのだ。


2.ラカン派精神分析

 そこでラカン派の精神分析は、次のような手で治療を行う。

われわれが心の一番奥底に秘めている感情や態度を、なんらかの姿をした〈大文字の他者〉のもとへ移し替えるということが、ラカンのいう〈大文字の他者〉の概念のいちばんの中核にある。

 どういうことか。

 ジジェクは、ここで唐突にドラマ「刑事コロンボ」を取り上げる。

 刑事コロンボは、殺人事件の犯人を瞬時に見抜く。視聴者もまた、誰が犯人かを最初から知っている。そしてドラマは、コロンボがどうやって「謎解き」をやっていくかを楽しむ仕立てになっている。

 ジジェクは言う。

コロンボは、神秘的な、だがそれにもかかわらず絶対的な確信によって、誰がやったのかを最初から知っており、しかる後に、この絶対的な知にもとづいて、証拠を集めていくのである。多少の違いはあるが、精神分析治療において、〈知っていると想定される主体〉としての分析家はそれと同じ役割を演じる。患者は治療を受けることになった瞬間、「この分析家は私の秘密を知っている」という絶対的な確信を得る

 つまりラカン派の分析家は、コロンボのような存在であるわけだ。

「『分析家は私の症候の無意識的な意味をすでに知っている』と仮定したときにはじめて、患者はその意味に到達できる。

 本当は、患者の苦しみの絶対的な理由など分からない。しかし患者は、「この人は全てを知っている」とまず思うことで、それまで無意識のうちに抑え込んできたその意味に、自ら到達するチャンネルを開くのだ。

 しかし、分析家は最後までそのような絶対的な〈大文字の他者〉であってはならない。そうジジェクは言う。

「治療の間、分析家は〈知っていると想定される他者〉の地位を占めているが、分析家の戦略はその地位を掘り崩し、人の欲望に対する保証は〈大文字の他者〉の中にはないということを患者に気づかせることである。」

 たとえば、ヒステリーの理由は、「私が考えている私」と「他者が考えている私」との落差にある。ラカン=ジジェクはそのように言う。

「ヒステリーは、主体が自分の象徴的アイデンティティに疑問を抱いたとき、あるいはそれに居心地の悪さを感じたときに起きる。」

 だからヒステリー患者は、分析家からいわば「ほんとうの私」を与えてもらいたいと考える。

 最初は、分析家もそれに答える。しかしそのようなものは、本当は存在しないのだ。

 分析家はそのことを、患者に徐々に気づかせていく必要があるわけだ。


3.人間の欲望は他者の欲望である

 「人間の欲望は他者の欲望である」とは、ラカンの有名な言葉だ。

「人間の欲望は他者の欲望であり、他者から欲望されたいという欲望であり、何よりも他者が欲望しているものへの欲望である。」

 私の欲望は、実は私のストレートな欲望なのではなく、他者から欲望されたいとか、他者が欲しているものを欲望するとかいった構造を持っている。

 みんながブランド物を欲しがるから、私もそれを欲しがる、というわけだ。

 ジジェクは言う。

「幼児ですら関係の複雑なネットワークにどっぷり浸かっており、彼を取り巻く人びとの欲望にとって、触媒あるいは戦場の役割を演じている。

 例として、ジジェクはフロイトが観察した「苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘」をあげる。

「たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、自分のうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。」


4.欲望a

 これもまた、ラカン理論のおなじみの概念だ。

 先述したように、私たちが見ている世界は想像界、つまり幻想だ。現実界はその背後にある。

 この意味で、ラカンは「本当の世界」があるかのような書き方をする。だからジジェクも言う。

「ラカンをたんなる『ポストモダン』の相対主義者として捨て去ろうとする人びとにとって、これは驚きかもしれないが、ラカンは断固たる反ポストモダンである。」

 しかしいずれにせよ、私たちがこの世界で欲望するものは、結局のところみな幻想だ。

 ラカンはこの欲望の原因を、「対象a」と呼ぶ。

「対象aは欲望の原因であり、欲望の対象とは違う」

 そして言う。

「どんなに欲望の対象に近づいても、欲望の原因は遠くにあって手が届かないのである。
 
 欲望の対象も原因も、結局は幻想的なものなのだ。


5.理想自我/自我理想/超自我/欲望の法

 理想自我(Idealich)自我理想(Ich-Ideal)超自我(Über-Ich)。これらはフロイトの用語だが、フロイト自身はこれらをはっきりと区別しなかった。

 しかしラカンは、これら用語の意味を厳密に区別した。

 図式としてはこうなる。

 理想自我=なりたい自分(想像界)
 自我理想=憧れる大文字の他者(象徴界)
 超自我=懲罰的な大文字の他者(現実界)

 理想自我は、私の想像界(つまり一般には現実世界)における理想の自分。自我理想は、象徴界(つまり一般的な他者たちの世界)における憧れの存在。超自我は、現実界(つまり絶対的な世界)において、私を懲罰してくる存在。というわけだ。

 さて、ラカンはさらに、これに「欲望の法」という第4の審級を加える。

 それは、「欲望に従って行動せよ!」という内なる声だ。端的には、「楽しめ!」という声のことだ。

 例として、ジジェクは映画『カサブランカ』をあげる。

 『カサブランカ』の中には、主人公のイルゼとリックが、情事に落ちたのかどうか観客にはっきりとは分からない描き方をされるシーンがある。

 ここでは、「テクストが観客に『楽しめ!』(つまり、自分の下品な空想に身を任せろ!)という超自我の命令を休みなしに発している。」

 「それ」があったかどうかは分からない。つまり私たちは、「大文字の他者」的には、「それ」がなかったかのように振る舞える。

 だからこそ、私たちは、「大文字の他者」のいわば大義名分を得て、自らの「下品な空想」をただただ「楽しむ」ことができるのだ。

 しかしこの「楽しめ!」という超自我の声(欲望の法)に、ジジェクは次のような警鐘も鳴らしている。

今日われわれは、ありとあらゆる方向からひっきりなしに、さまざまな形での「楽しめ!」という命令を受けている。〔中略〕今日、快楽は、実際には奇妙な倫理的義務として機能している。人びとが罪悪感を覚えるのは、禁断の快楽に耽ることによって禁止を破ることに対してではなく、楽しめないでいることに対してである。こうした状況において、精神分析は、楽しまないことを許されるような唯一の言説である。楽しむのを禁じられるのではなく、楽しまなくてはならないという圧力から解放されるのだ。


6.本物の信仰

 最後にジジェクは、「本物の信仰」について論じる。

 例としてあげられているのは、ナチスの強制収容所に入れられてなお信仰を失わなかった、少女アンネ・フランクだ。

 彼女が持ち続けていた確信(信仰)、それは、「どんなに堕落していようとも、すべての人間の中には善性の神々しい火花があるという確信」だった。

「彼女の言葉は事実とは関係がない。それは純粋に倫理的公理として断定されているのだ。同じように、普遍的人権というのも本質的には純粋な信仰である。それを人間の本質に関するわれわれの知識によって根拠つけることはできない。これはわれわれの決断によって断定された公理なのである。」

 本物の純粋な信仰は、根拠なくただただ「我信ず」というものだ。

 ところが今日の宗教的な原理主義はどうか。


「いくつかの原理主義的な宗派の名前そのものに「科学」という語が見出される(クリスチャン・サイエンス、サイエントロジ) のはたんなる猥褻なジョークではなく、信仰をポジティヴな知に還元しようという方向性を示しているのだ。
今日のイスラム教にもこれと同じような、信仰を知へと縮小しようとする傾向が見られる。いかに最近の科学の進歩がコランの洞察と命令を確証しているかを「証明した」科学者の書いた本が何百と出版されている。」

 宗教的な原理主義者たちは、ただ「我信ず」ということができずに、その根拠を科学に求めようとしている。それは決して、純粋な本物の信仰ではない。ジジェクはそう主張する。

「宗教的原理主義の隆盛に関して、ラカンから何が学べるかといえば、それは、真の危険は、世俗的な科学的知が脅かされていることではなく、本物の信仰が脅かされていることだ、ということである。」


(苫野一徳)

Copyright(C) 2013 TOMANO Ittoku  All rights reserved.