アップル『教育と権力』


はじめに

 1982年発表の本書。

 70〜80年代、教育学の世界は、いわゆる「再生産」論が隆盛をきわめていた。

 学校は、それが資本家の子だろうが労働者の子だろうが、誰にでも教育の機会を均等に保障することで、社会の平等化に寄与するものである。

 長い間、多くの人はそう信じ込んできた。

 ところがいざフタを開けてみると、どうもそうではないらしい。いや、そればかりか、むしろ学校の存在こそが、既存の社会的不平等を「再生産」しているのだ!

 ボウルズ=ギンタス『アメリカ資本主義と学校教育』ブルデュー=パスロン『再生産』など、多くの研究がそのことを実証し、教育界に衝撃を与えた。

 アップルもまた、こうした「再生産」論の系譜に連なる教育研究者だ。

 ただし彼は、学校は社会的不平等をただ再生産しているだけだとする、彼の言葉でいえば「単純」かつ「悲観的」な再生産論にはくみしない。

 確かに学校には、企業・資本家の論理が巧みに染み渡っている。

 企業は、一部の優秀な支配階層と、彼らに従う従順な労働者を求めている。したがって学校もまた、一部の優秀な子どもと、彼らに従う従順な子どもたちを作り出してくれればそれでいい。

 国家もまた、こうした企業の論理に加担する。こうして学校は、平等化装置としてでなく、不平等再生産装置として機能することになる。

 しかしアップルはいう。このような再生産は、確かに今起こっている現実だ。しかし学校には、学校独自の文化というものがあり、この文化を通して、われわれは社会的不平等に立ち向かっていくこともできるのだ、と。

 そうした事例を、アップルはマルクス主義的エスノグラフィーと彼の呼ぶ観点から、さまざまな研究論文を引きつつ抽出する。

 教師の連帯や子どもたちの抵抗を通して、学校は、社会の矛盾に切り込んでいく現場になれる。

 アップルはそう主張する。

 ただしアップル自身、そのことに強い自信を抱いていたわけではないらしい。本書の最後で彼は、こうしたレジスタンスの成功の可能性は、正直いって予測不能だといっている。

 それでもアップルは、それまでに繰り広げられてきた多くの悲観的「再生産」論に対して、何とかして一種の希望を見いだしたかったのだろう。


1.逸脱増幅装置としての学校

 アップルはまず次のようにいう。学校の基本的・潜在的な社会的役割は『逸脱増幅』にある」と。

 それはつまりこういうことだ。

 学校は基本的に、支配(資本家)階級の文化を伝達する場となっている。そこにおいて、その文化をうまく受容することができない子どもは(つまり学力の低い子どもは)、「逸脱」した者とみなされる。

 さらに学校は、この「逸脱」が起こるのは、本人の能力や努力が足りないからだという価値観を人々に植えつける。

 そして、「逸脱」するのはしょせん能力が低いからなのだから、能力が低い者は低い者なりの知識や技能や態度を身につければそれでいい、という価値観もまた、人々の間に蔓延させていくことになる。

 学校はこのようにして、支配階級と労働者階級との間の不平等を「再生産」している。

 アップルはそのように主張する。

一方では、技術的・管理的知識の生産の最大化に貢献しないと「見なされて」いる者は逸脱と考えられ、したがって、適切に差別化された規範と価値にしたがって、種々なレベルに効果的に選り分けられることになる。他方で、「専門家」は重要なイデオロギー的な役割を果たすものとして生産される。〔中略〕要するに、精神労働と肉体労働という差別の広がりのために、生産過程の重要な側面を理解し、また方向づけるために必要な知識の領域から、労働者はほとんど事実上排除されてしまっている。

 本書の約10年前に発表された、イリッチの『脱学校の社会』もまた思い起こさせるような問題提起だ。


2.企業に奉仕する学校と、それを正当化する国家

 今日学校は、企業が求める労働力を効率よく生産する装置になり果てている。

 アップルはそう主張する。

 企業からすれば、一部の優秀な支配階級と、多数の従順な労働者がいてくれば最も都合がいい。(もっとも今日ではそう単純に言うことはできないと思うが。)

 だから企業からすれば、学校は、優秀な子と従順な労働者とを選り分けて、それぞれにふさわしい教育をする場であってくれれば最もありがたい。

 そして特に経済危機の時代、国家もまた、そのような企業の論理に加担する。そして、そのような労働力生産機械としての学校を、国家自らが正当化していこうとするのだ。


「個別企業が技術的智識や専門的技術者、準熟練工の流通を確保することはますますむずかしくなっている。したがって、国家の教育機関は、カリキュラムを使って、優先権や政策を提示し、テストしながら、よりきわだった責任を引き受けるようになる。
国家は、資本の蓄積を助成し、サービスを提供し、新しい市場を開拓し、また古い市場を保護し、さらに大部分の「余剰」人口を公的な雇用へと吸収することにより、私たちの経済中心へと入り込んできたのである。そこではあるまとまった傾向がみられる。すなわち、コストの社会化と利潤の私有化である。

 80年代から顕著になり始めた、いわゆる新自由主義に対する、かなり早い段階における批判といっていいだろう。


3.対応原理批判

 さて、しかしアップルは、だからと言って、学校は、社会における不平等をそのまま映し鏡のように単純に映し出しているわけではないと主張する。

 この、社会の不平等を学校はそのまま反映しているとする理論を、対応原理という。

 ボウルズギンタスが打ち出したものとして有名だ。(ボウルズ=ギンタス『アメリカ資本主義と学校教育』のページ参照)

 アップルはいう。この理論は、学校の積極的役割を軽視してしまっていると。

 実は学校は、単に社会の不平等をそのままに再生産しているだけでなく、そうした不平等に対して立ち向かう、独自の文化を形成することができるのだ。

 アップルはそう主張するわけだ。

学校の活動を直接的に資本主義経済の要求に結びつける対応理論は、〔中略〕教師や生徒、労働者が教室や職場でのそれぞれの生活を展開しているときに、彼らの実践や意味を十分に把握することもできない。

 たとえば、教師たちの連帯を通した、企業(資本)の論理へのレジスタンスがある。

「教師の労働文化は、教育上有効な目的のために働きうる。すなわち、教師の労働文化の要素をもって、それを労働条件を左右できる力をとり戻す例として、政治教育ができるし、また進歩的教育運動を制約する構造上の決定因を明瞭にするためにも役立つ。」

 学校は、単に資本家の論理に呑み込まれるだけの場所ではなく、こうしたレジスタンスの現場にもなりうるのだ。そうアップルは主張する。


4.学校の技術的コントロール

 とは言うものの、学校が資本家の論理によってコントロールされているのもまた、疑い得ない現実だ。

 そのコントロールは、主として技術的コントロールを通して行われている。そうアップルは指摘する。

 技術的コントロールとは、私たちの仕事の物理的な構造に潜むものである」

 たとえば、学校におけるパッケージ化された教材などがいい例だ。

「そこでは、学校がたいてい標準化された教材のセット全体を購入している。それは、目標の詳細を述べてあり、カリキュラムの内容と教材の必要なすべてを含んでおり、教師の活動や生徒のすべき反応をあらかじめ詳述し、そのシステムに関連する診断的アチーブメントテストが入っている。

 このパッケージ化された教材を使うことを通して、教師たちの創意工夫は奪われる。彼らはただただ、企業から与えられた教材を使った授業を、その実施から評価にいたるまで、まるでマシーンのようにたんたんとこなしていくだけになってしまうのだ。

 こうなると、教師同士の連帯もまた危うくされることになる。

教室実践のレベルでは、教師の孤立化が進むため、彼らがともにカリキュラムの決定にインフォーマルに影響を与えることが、よりむずかしくなるだろうことは予想しうる。もしすべてのことが本当にあらかじめ決めたとおりに進むならば、教師の相互作用はもはや必要となくなる。教師はばらばらとなり、他の仲間や同僚など実際に仕事に携わっている人たちから切り離されるようになる。


5.可能性を信じて

 以上のような技術的コントロールを受ける学校が、今後なおもそれに抵抗していくことははたして可能なのか。

 アップルはいう。

「この問いに対し私たちは率直である必要がある。私たちはそれを予側できないのである。私たちにできることは、研究者や知識人がやっているように、理論的レベルで私たちの探究が現行の再生産と非再生産の双方を説明できるようにしむけることである。」

 成功の可能性は予測不能だ。けれど私たちは、それを信じて、これからも研究を続けていく必要がある。アップルはそういって本書を締めくくる。

 何とも煮え切らないというか自信に欠けた結論ではあるが、これがまさに、彼の「率直」な感懐なのだろう。


(苫野一徳)

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