ハイデガー『技術への問い』


はじめに
 1953年にミュンヘン工科大学で行われた講演「技術への問い」をはじめ、「技術」をテーマにした講演・論文が収録されている。

 第二次大戦後、ハイデガーは、ナチスに加担した哲学者として、占領軍司令部から教職活動を禁止されていた。

 1951年になってようやく復帰が許されたが、この講演当時は、なおその責任が声高に叫ばれていた頃である。

 しかしこの講演を大きな転機として、ハイデガーは再び思想界に返り咲く。講演の最後を、「というのは、問うことは思索の敬虔さなのだから」という今では有名な言葉で締め括った時、満場から嵐のような歓呼の声があがったという。

 さて、しかしハイデガーについての他のページでも何度も書いてきたように、私自身は、いわゆる後期ハイデガーの思想は、大きな問題をはらんだものだと考えている。

 本書においても、伏蔵性(Verborgenheit)、不伏蔵性開蔵(Entbergen)、集−立(Ge-stell)といった、持って回った独自の術語を駆使し、いかにも深遠なことを言っているように見せながら、実は言っていることは極めて単純である。

 われわれにはうかがい知れない、真理というものがある。その声に謙虚に耳を傾けよ。

 すでに前期の『存在と時間』後半部にもそうした思想は見え隠れしていたが、しかしそれでも私の考えでは、『存在と時間』はフッサール現象学実存論的に一歩押し進めた見事な作品だ。

 しかし後期にいたってハイデガーは、とにかく難解な言い回しをもって、ただただ、われわれがつかみ取ることのできない真理に敬虔になれとだけ説くようになる。

 しかしその真理なるものがいったい何であるか、ハイデガーは明らかにしない。ただ、従来は主観と客観の一致が真理とされていたが、真理とはそんなものではなく、伏蔵されたものの不伏蔵性のことである、といった言い方だけを延々と繰り返す。

 そしてそのあまりに難解な言い方がかえって魅力になって、いったいハイデガーは何を言いたかったのだろうと、今もなお、多くの人が知的好奇心をかきたてられている。

 しかし他のページでも述べたように、その一見した「カッコよさ」に、惑わされてはならないと私は思う。

 結局ハイデガーの言う「真理」は、誰もが納得できる仕方で論じられておらず、それゆえフィクションというほかないものだ。『存在と時間』において、現象学的方法を駆使して「イカナルオトギバナシモシナイ」と言ったはずのハイデガーは、後期にいたって、ひたすらに自ら作り出したオトギバナシを、さも深遠なる真理であるかのように論じ続けただけなのだ。

 このブログでもしばしば書いているように、私の考えでは、哲学は普遍的な了解が可能な形で、さまざまな問題に対する「考え方」を提示する営みだ。

 前期ハイデガーには、そうした姿勢が十分に貫かれていたと私は思う。しかし後期ハイデガーは、あるいはナチス体験がいくらかの影響を与えたのか、「私こそが深遠なる真理を知っている」といわんばかりに、荘厳で時に神秘的にさえ見えるような自己イメージを、次から次へと打ち出した。

 しかしその内容は、どれほど独自の術語を駆使し難解な言い回しをしてみたところで、先にみたように単純明快であり、そしてまた、検証不可能なオトギバナシであるというほかないものだと私は思う。


1.技術とは何か

 冒頭において、ハイデガーは次のように言う。

技術についての通俗的観念にしたがえば、技術とは手段であり人間の行為である。」

 技術は普通、手段だとされている。手段というからには目的があるはずだが、その目的は、一般に、何をおいても「人間のため」だと考えられている。

 しかしそれは違う、とハイデガーは言う。技術は単なる手段ではなく、開蔵の1つのあり方なのだ。

「技術は開蔵のひとつのしかたである。このことに注意するならば、技術の本質にとってのまったく別な領域がわれわれに開かれる。それは、開蔵の領域であり、すなわち真性〔Wahr-heit〕の領域である。

 開蔵とは要するに、隠された真理をあかるみに出すことだ。技術はそのための1つのあり方なのだ。


2.現代技術は「集−立」である

 しかし現代技術は、真理をあかるみに出そうとするどころか、むしろそれを挑発するものだ。そうハイデガーは主張する。

「現代技術のうちに存する開蔵は一種の挑発〔Herausfordern〕である。この挑発は、エネルギーを、つまりエネルギーそのものとして掘り出され貯蔵されうるようなものを引き渡せという要求Ansinnen(無理難題)〕を自然にせまる。

 持って回った言い方だが、言いたいことは実に通俗的なことだと私は思う。

 要するに現代技術は、自然への敬意を忘れこれを搾取しているのだ、とハイデガーは言っているのだ。

 このように自然を自分たちのいいように使うことを、ハイデガーはまたも持って回った言い方で用象(Bestand)と名づける。そして、一切をこの用象にしてしまうことを集−立と呼ぶ。

われわれはいま、それ自体を開蔵するものを用象として用立てるように人間を収集するあの挑発しつつ呼びかけ、要求するものをこう名づける――集Ge-stellと。

 そして、現代技術の本質はこの集−立にあるとハイデガーは主張する。

現代技術の本質は集立にもとづいている。」

 先述したように、これは単に、現代技術は自然を自分たちのいいように使っているのだ、ということを言っているにすぎない。それをここまで難解な言い回しにしてしまうことができるのだから、これもある意味では才能と言うべきかもしれない。


3.命運を傾聴せよ

 そこでハイデガーは言う。

 技術の本来の本質である、不伏蔵性としての「開蔵」へと目を向け直せ、と。そうすればわれわれは、命運の中において自由を得ることができるのだ。

「というのは、命運の領域に属し〔gehören〕、そのことによって、隷属する者〔Hörigerではなく、傾聴する者〔Hörender〕になるならば、その場合にこそ人間ははじめて自由になるからである。」

「われわれが自分自身を技術の本質にたいしてことさらに開くなら、思いがけず、自由にする呼びかけに自分たちが呼びかけられ、要求されていることに気づくだろう。

 要するに、真理なるものへと開かれ、これに耳を傾けた時、私たちは真の自由を得ることができる、とハイデガーは言うわけだ。

 こうしたある種荘厳とも言うべき思想は、それはそれで一定の魅力を持ったものだと私は思う。

 しかしこのような言い方は、形式としては、神の意志の内における人間の自由を論じたアウグスティヌス『神の国』のページ参照)の思想など、あらゆる宗教思想に共通の思考形態と変わるところがない。

 荘厳なるものへの敬虔を説く思想は、一定の人の心に確かに響く。しかし私の考えでは、哲学がそれを説くことは、宗教哲学が例外なく陥ったように、何が真理であるかをめぐる答えの出ない論争・闘争へと、再び逆戻りしてしまうことになる。(この点については、先述したアウグスティヌスのほか、たとえば大乗仏典『認識と論理』空海『秘蔵宝鑰』などのページでも論じています。)

 ともあれ、ハイデガーは続けて次のように言う。現代技術が集−立であることは危機である。しかし、危機あるところ救いもまたあるはずである。

 ここでハイデガーは、ヘルダーリンの次の詩を引用する。


 しかし、危険のあるところ、
 救うものもまた育つ。

 本講演(論文)は、次の有名な言葉で締め括られている。

「われわれが危険に近づけば近づくほど、それだけ救うものへの道は明るく光りはじめ、それだけいっそうわれわれはよく問うようになる。というのは、問うことは思索の敬虔さ〔Frömmigkeitなのだから。


(苫野一徳)

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