ボルノー『哲学的教育学入門』


はじめに

 玉川大学、および、その総長を務めた著名な教育学者小原國芳とゆかりの深い、ドイツの哲学者・教育学者ボルノー。本書は、1972年にボルノーが玉川大学において行った講演録だ。


 強靭かつバランス感覚に富んだボルノーの教育思想は、今日なお高く評価されるべき優れたものだと私は思う。

 その教育思想の本質は、『人間学的に見た教育学』により詳しい。

 ただしこの本は哲学的な色が強いので、哲学に関心のない方には少々手が伸びにくい本であるかもしれない。

 その意味では、本書は『哲学的教育学入門』と題されてはいるものの、哲学的要素が比較的おさえられた、ボルノー教育学の入門書としても最適の本だろう。


 透徹した洞察力が光る名著だと思う。

 

1.教育は社会のためか個人のためか


 教育は社会のためのものか、それとも個人のためのものか?


 教育学において、最も根本的な問いの1つとして長らく続いてきたものだ。


 従来、この問いをめぐっては社会派と個人派が論争を繰り広げてきたが、ボルノーははっきりと次のように言っている。


「初めからいずれかの一方的な立場をとるのは、素朴で批判力を持たない態度なのである。大切なことは、まず両者の可能性を挑めて、両者の正当性と限界とを知ることであり、両者が実際に排除しあうものなのか、またはもっとよく注意して見れば、より大きな関連のなかでお互いが依存しあうこつの面として、両者が一致できないものかどうか、を問うことである。」


 社会のためのものか、個人のためのものか、ではない。それは相補的なものなのであって、その関係性をどのようなものとして構築していくかが教育学の課題なのである。


 そうボルノーは言うわけだ。


 きわめてまっとうな考えだと言うべきだろう。



2.解釈学的な教授法


 『人間学的に見た教育学』でも論じられていたように、ボルノーは自らの教育学を、人間学的教育学として打ち立てた。


 教育学は、教育事象を客観的に説明するようなものではない。それは原理的に言って不可能なことだ。人は教育事象を、それぞれの関心においてただ解釈することしかできないのだから。


 したがって教育学は、その方法をまず「解釈」によるよりほかにない。ハイデガー解釈学的現象学を受け継ぎながら、ボルノーはそう主張する。(ハイデガー『存在と時間』のページを参照)


 こうした考えに基づきながら、ボルノーは本書において、教授法もまた解釈学的なものとして提示し直す。授業を、単なる知識の伝達の場としてでなく、教師と生徒の知の相互解釈の場として考察するのだ。



暗黙のうちに、これまでの教授法の多くの根底にあった決定的な思想は、子供たち来るときにはまだ何も知つてはいない、少なくとも学校で学ばねばならぬことは何も知いないし、子供たちに知識はまず学校で与えられねばならない、ということである。

しかしこの原理は、〔中略〕本質的に誤っている。子供が学校に来るときは、すでにきわめて多くのことを知り、理解している。そしてこれらの知識と理解は、授業にとって決して余計なものではない。それ故に教授法は、単純にその知識を除外してはならないし、その知識に結び付いたり、対決したりしなければならない。


3.言葉から直観へ


 そこでボルノーは、ペスタロッチ以来教授法において長らく言われてきた、「直観から概念へ」の定式を次のように編み変えることを提案する。


「道はむしろまず一度、「言葉から直観へ」と、逆にされねばならない。言葉のなかに漠然とあらかじめ与えられている理解が、直観のなかで具体的に満たされねばならない。これが教授法論者の、最高の注意を必要とする道である。


 従来の教授法においては、子どもたちが直観的に感じ取ったものを、確かな概念へと高めていくことこそが肝だと考えられてきた。


 しかしボルノーは、子どもたちはそもそも日常生活などにおいてさまざまなことを知っている、むしろ、ただ言葉においてだけ知っていると主張する。それゆえ教授法は、この言葉に豊かな直観を伴わせ、その内実を生き生きと充実させていく必要があると言うのだ。


 とは言え、常にバランス感覚に富んだ思索を展開するボルノーは、こうした解釈学的教授法だけが唯一の教授法であるわけではないということも同時に主張する。


教授法が解釈学的な課題から始まり、いつもまた解釈学的な課題に戻ってくるにしても、教授法をすべて解釈学のなかで解決することはできない。


 では他にどのような教授法があるのか。


「事実の知識(学識)や合理的に一貫した科学の構成には、それ故に教授法の別の形式が必要である。われわれはこのことを(まだ明確でない先取りされた概念で)教えと呼ぶ。


 教授法はこうして、「教え」と「解釈」(より教育的な概念としては「対話」と呼ばれる)の二段構えのものとして構築されることになる。


「いずれも不可欠であり、そのいずれも一方のために犠牲にされてはならない。



4.道徳教育の本質


 続いてボルノーは、道徳教育の本質について議論を進める。


 ボルノーにとって、道徳教育とは良心を育むものである。


 では良心とは何か。


われわれは先ず暫定的な定義として、良心とはあらゆる外部の影響とは独立して、何をなすべきかを言ってくれる内部の声である、あるいはおそらくはもっと明らかには逆にして、何か不正なことを為し、または為そうとする時に、非難をする内部の声であると言うことができる。


 外部の権威や罰などを動機としない、自らの内なる善悪判断の声。ボルノーはこれを「良心」と呼ぶ。


 そこで道徳教育が育成すべきは、次の2つということになる。


一つは、善悪にたいする独立した独自の判断(それ故に、独自な判断の形成がさし迫った教育の課題となる)と、第二は、正しいと認めたことに、ためらわずに自己投入をする能力(それ故に狭い意味での道徳教育)である。」


 しかしそれは、あれをせよこれをするなといった、義務をひたすらに説き押しつけるような教育であってはならない。道徳性というものは、本来押しつけによってでなく自発的に育まれるものなのだ。


「そのためには、まず若い者に自由な活動をする機会を与えることであり、またその自由をいまわしい目的に悪用する危険にもさらすことである。それ故に若い者に自由な余地を与えてやらねばならず、用心しすぎて、決断の機会をうばってはならない。


 自らの意志、自らの選択で行動する自由な機会を十分に用意せよ。ボルノーはそう主張する。その過程で、数々の失敗や苦悩を経験することだろう。そのことが、まずは子どもたちに、自らの良心を芽生えさせる重要なきっかけになるのだ。


 かと言って、それは何もせずただ子どもたちの自発性に委ねることを意味しない。


 良心の育成のために、ボルノーは3つの方法を提示する。


 1つは「自我理想」を芽生えさせること。


「若い者は自分の理想に自分を同化し、自分をそれに全く投入することによって、彼のなかに無意識のうちに、理想を自分と同じものにし、理想の賛美すべき姿を、自分の行動のなかで実現しようとする要求が、育つのである。とくに高度の文学は、この点で大きな教育的な意味をもつのである。


 若者は、あのような大人になりたい、ああいう人物になりたい、といったことを思いやすい存在だ。そうした時期に、教育はそのロールモデルを提示することができるだろう。ボルノーはそう言うわけだ。


 2つめの方法は「訴え」と呼ばれる。


「道徳的な意識は「作る」ことはできない。またそれは、自力では必然的に育つものではない。〔しかし〕それを「目覚ます」ことはできる。」


 この道徳的意識を目覚ますための1つの方法が、「訴え」である。


「このような訴えは、独自の強制的な影響力をもつものではなく、それが受け入れられた時に、そのような影響力を及ぼすことができる。呼びかけられた者がその呼びかけに心を閉すときには、同様にまた影響力を持たないままに終る。」


 3つめの方法は「警告」だ。


「人間というものは、(有機体論的な姿に適応するように)自然にたえず成長するものではなく、罪や怠惰から、いつも為すべきことを怠っている存在である。人間はそれ故にいつも、以前に為すべきであったことを取りもどす、いつも新たなきっかけが必要である。若い者をそうさせるには、警告が必要である。」



 本書最終章では、ボルノー教育学のキーワードである「教育的な雰囲気」「庇護と安全の場所」「愛と信頼」といったことについてが論じられているが、その内容は『人間学的に見た教育学』とほぼ同じなのでこのページでは割愛する。



(苫野一徳)



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