ベーコン『学問の進歩』


はじめに


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 1605年発表の本書は、英語で書かれた初めての哲学書といわれている。

 「知は力なり」で知られるベーコンだが、当時の「知」は、へ理屈ばかり述べ立てるスコラ学と、錬金術なみのおそまつな科学でしかなかった。

 本当に「力」たりうる「知」を生み出そう。

 そうした気概をもって、ベーコンは学問の「大革新」という壮大な計画を打ち立てる。本書も、この計画の一部として書かれたものだ。

 当時学問に寄せられていた不信を取り払い、これからどのような計画をもって学問を刷新していくべきかが述べられている。

 ベーコンの、類まれな原理的思考、比喩や文章表現の巧みさなども十分に堪能できる、近代学問の萌芽を感じさせる名著だと思う。


1.スコラ学批判

 学問が信頼されない最大の問題は、学者自身の研究の問題にある。ベーコンはそう主張する。

 最大の敵は、アリストテレス哲学をキリスト教神学の中に組み入れた、スコラ哲学だ。

「墜落した学問が主としてスコラ学者たちのあいだに圧倒的に行なわれていたのである。すなわち、かれらは鋭くて強い知力と豊かなひまをもちながら、ごくわずかな種類の書物しか読まず、その身が僧院や学寮の小部屋にとじこめられていたように、かれらの知識は少数の作家(主として独裁的支配者アリストテレス)の外に出ることはなく、自然誌についても歴史についても知るところが少なかったので、かれらはそのわずかばかりの材料から、際限なくその知力をはたらかせて、かれらの書物に現存しているような学問のクモの巣を苦心してわれわれのために紡ぎだしたのである。」

 要するにスコラ哲学は、神学的なテーマを、閉じられた世界の中で、細かなへ理屈ばかりを述べ立てながら応酬しているだけなのだ。

 こうしたスコラ哲学を、ベーコンは次のような機知に富んだ比喩で批判する。

「大きな部屋にいるものにとっては、一つの大きなあかりか、幾本ものろうそくを立てたあかりをつけておくほうが、常夜燈の小さなろうそくをもってすみずみまで見まわるよりもよくはないであろうか。スコラ学者たちの方法というのは、〔中略〕あらゆる疑念とへりくつと異論を一々論破し、それに解答を与えることにたよるものであって、一つの問題を解いたかと思うと、もうまた別の問題を生むのがつねである。ちょうど、いま述べたたとえにおいて、燈火を一方のすみへもってゆけば、他方のすみは暗くなるようなものである。」


 「これは、なにもすることのない老人のことばだ」と、ベーコンはディオニシオスの言葉を引用しながら痛烈に批判する。

 ベーコンはまた、スコラ哲学が、過去の偉大な哲学者たち、とりわけアリストテレスの哲学の方法にただ依拠し、彼をただ祭り上げるだけで、さらにその先へと進もうとしてこなかったことを批判する。

「流れ下る水がその最初の水源の高さよりもうえに上るととがないように、アリストテレスからおとって、自由に吟味されずにうけとられる知識もまたアリストテレスの知識よりもうえに上ることはないであろう」

 そして言う。

古いものは尊敬に値するものであって、人びとはその上に立って、最善の道がどれであるかを見きわめるべきではあるが、しかし、見きわめたという確信がついたら、それからはどんどん進んでゆくべきである。


2.学問の進歩のために

 では学問の進歩のために、われわれはこれから何をなすべきか。

 ベーコンはまず次のように言う。

すべての事業は、十分な報酬と堅実な指導と協同的な作業とによって成就されるということを、われわれの立論の基礎と定めよう。第一のものは、努力を倍加し、第二のものは、誤りを防ぎ、第三のものは、人間の微力を補う。」

 十分な報酬と堅実な指導と協同的な作業、これが、これから学問の「大革新」において必要とされるものである。

 しかしこの中でも、「堅実な指導」が最も大切だとベーコンは言う。

 なぜなら、「手段の工夫あるいは選択のほうが、懸命の努力あるいはその積み重ねよりも有効」であるからだ。

 ただがむしゃらに努力するのではなく、どうすればうまく行くかを知り実行したほうが、学問の進展に大きく寄与するだろう。ベーコンはそう言うわけだ。

 この学問の方法こそ、ベーコンが特に「帰納法」として強調した方法である。詳細は『ノヴム・オルガヌム』で論述されているので、そちらのページを参照されたい。

 また、学問研究においては哲学原理がきわめて重要だ、とベーコンは主張する。

 細かな技術やハウツーばかり求めたがる人が多いが、しかし学問にとって重要なことは、常に物事の本質を見極めることにある。

哲学と一般原理の考察はとりとめもない研究であるとみなすひとがあるなら、そのひとは、すべての専門科目がそれから奉仕と補給をうけているとを考えないのである。そしてれが、れまで学問の進歩をさまたげた大きな原因であるとわたくしは考える。〔中略〕ある木にこれまでよりも多くの果実を結ばせようとするなら、枝にどんなに手を加えてもむだであって、根もとの土をほりおとして、新しい腐蝕土を入れてこそ、その目的を果たすことができるからである。


3.イドラを打ち倒せ

 真摯に学問をする上で、打ち倒さなければならない幻影(イドラ)がある、とベーコンは言う。

 われわれの認識を誤らせる、4つのイドラがある。そうベーコンは言うが、これも『ノヴム・オルガヌム』でより詳細に展開されていることなので、そちらのページを参照していただきたい。

 ここでは、『ノヴム・オルガヌム』にも登場する次の有名な言葉を引用しておきたい。

「人間の精神は、事物にあたる光線がその真の入射角どおりに反射する曇りのない平らな鏡の性質であるどろか、いな、むしろ、魔法にかけられた鏡のようなものであって、その魔法をといてもとにもどさないかぎり、迷信とまやかしにみちたものである。」

 まさに、中世から近代への入り口にふさわしい言葉と言うべきだろう。


4.人間・社会・処世の学

 以上は、自然学など、主として人間の「理性」に頼る学の刷新のためのベーコンの考えだった。

 続いてベーコンは、人間や社会についての学について述べる。ベーコンなりの処世術が描かれていて、中々に興味深い。

 たとえば彼は次のように言う。

ひとの正体を知るもっとも確実な道は、そのひとの性質と目的を知るとである、とのばあい、もっともおろかな部類のひとはその性質によって、もっとも知恵ある部類のひとはその目的によってもっともよく解明される。

 あるいは、処世の術として、1.世間を広く知る人と交わる、2.腹蔵なく話すとともに秘密は守る、3.行動と同時に、観察と目算と計画を用心深く、といった、中々に算段高い話も展開される。

 さすがは、政治家・法学者として大法官にまで上り詰めた人、というところだろうか。自分の競争者と対抗者になりそうなひとにうまくたちうちできるかどうかを考え、もっとも競争者が少なく、自分がもっとも目だちそうな行路をとらなければならない」というようなことも言っている。

 こうした処世の術も学問の重要な領域であると考えていたところが、近代合理主義のさきがけにふさわしい、ベーコンの面白いところだと私は思う。

 本書の終わりで、ベーコンは次のように言っている。

「以上のように、わたくしは、いわば知識の世界の小さな地球儀を、わたくしにあきらかにできるかぎり真実に、忠実につくって、人間の努力によってたえず占有されてはいないように、あるいは十分に改良されていないように思われる部分をあげ、それについて述べたのである。そのなかで、わたくしが、一般に受けいれられている説からなんらかの点で離れ去っているとすれば、それは、「いっそうよいもの」へ進もうとしたからであって、「別のもの」へ進もうとしたからではなく、改善し完成するつもりでしたのであって、変更し異説をたてるつもりでしたのではなかった。〔中略〕しかし、それにもまして、わたくしは、他人がわたくしをふたたび追い越してくれることを望んでいるのであって、このととは、わたくしが論破によって他人の判断の自由を奪おうとはせずに、わたくしの意見をいわば裸のまま無防備のまま出したということによって、いっそうあきらかであろう。」

 来るべき学問のあり方の地図を描いてみせたベーコン。彼の試みは、この後デカルトやカントらに引き継がれ、近代学問の基礎が固められていくことになる。


(苫野一徳)

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