プラトン『プロタゴラス』


はじめに

 古来より「ソフィストたち」という副題がつけられている本書。

 ギリシア中にその名が知れ渡っていたソフィスト、老プロタゴラスと、まだ30代の若きソクラテスとの対話篇。プラトン最初期の著作とされている。

 ソフィストとは、古代ギリシアにおいて弁論術を教えていた教師のこと。ソクラテスがこのソフィストたちを激しく批判したのはよく知られているが、本書にも、若い頃のソクラテスのソフィスト批判が随所に見られる。

 本書のメインテーマは、とは何か、そしてそれは教えられるか。

 後に『メノン』でより深く展開されることになるテーマだ。

 ソクラテスは、ソフィストを詭弁家と言って批判した。しかしプラトンの諸著作で描かれているソクラテスの対話を読むと、正直ソクラテスこそが稀代の詭弁家ではないかと思わされることしばしばだ。実際プラトンの諸著作でも、対話相手がソクラテスに対して、なんと見事な詭弁を弄する人よと皮肉を浴びせるシーンが時折描かれている。

 そして本書で繰り広げられているソクラテスの議論もまた、正直言ってかなり詭弁的なところが満載だ。個人的には、むしろプロタゴラスの落ち着きぶりやその包容力に、感心してしまうところがある。

 ソクラテスは、確かに当代一の知の探究者だった。どこまでも真摯に、ほとんど病的なほどに、「ほんとうの知」を求めた。

 その姿が、プラトンをはじめ多くの若者たちの心に火をつけた。その意味において、ソクラテスはすぐれた「教師」だったと言っていい。

 しかしソクラテス自身の思索は、それほど徹底的には深められなかったのではないかと私は思う。ソクラテスとさまざまな人たちとの対話をきっかけにして、それを「哲学」にまで高めたのはやはりプラトンだ。

 一般に、プラトン中期や後期の著作には、ソクラテスを主人公にしながらも、プラトン独自の思想的展開があるとされている。しかし最初期の著作である本書には、内容としては、ソクラテス自身の思想がかなりそのままに描かれていると言っていいだろう。

 本書は、結局議論がまとまらないまま、どこか宙ぶらりんの状態で終わっている印象をぬぐえない。

 しかしそれでもなお、本書は、若きプラトンのみずみずしい筆が踊る、熱情あふれる素晴らしい名著だと私は思う。


1.ソフィスト批判

 アテナイに、著名なソフィスト、プロタゴラスがやって来た。

 本書は、ソクラテスの友人ヒッポクラテスが、興奮してこの知らせをソクラテスに伝えにやって来るところから始まる。

 ヒッポクラテスは言う。自分もプロタゴラスに会って知恵を授けてもらいたい、と。

 それに対してソクラテスは言う。

「ソフィストが、ちょうど身体の糧食をあきなう卸商人や小売商人と同じように、自分の売りものをほめたてて、われわれをだますことのないように、気をつけたほうがいいよ。〔中略〕いろいろの知識を国から国へと持ち歩いて売りものにしながら、そのときそのときに求めに応じて小売りする人々、そういう人々もまた、売りものとなれば何もかもほめたてるけれども、しかし中にはおそらく、君、自分で売ろうとするものについて、そのどれが魂に有益であり、有害であるかを、知りもしないような連中がいるかもしれない。」

 知恵を売り歩くソフィストは、そもそも「知」とは何か、とか、「よい生」とは何か、とかいったことなど考えない。ただただ相手にとって有益に思われるような知識を、適当に切り売りしているだけなのだ。だから十分気をつけなければならない。彼らが切り売りする知識は、本当は有害なまがいものであるかも知れないのだから。

 ソクラテスはそのようにソフィストを批判する。
(より詳細なソフィスト批判は、『ゴルギアス』で展開されている。)


2.プロタゴラスは何を教えるか

 そこで、ソクラテスはプロタゴラスのもとを訪れ次のように対話を始める。


「プロタゴラス、私がここへやってきたわけからまずおしすることにしましょう。じつは、ここにいるヒッポクラテスが、あなたにつくことを望んでいるのです。そこで、あなたにつくとどういう効果があるのか、それを聞かせていただければ幸いであると彼は言っているのです。こちらから申しあげることは、これだけです」


 のっけから、何とも挑戦的というか「イヤな奴」感が漂っている(笑)。

 しかしプロタゴラスは、真摯に次のように答えてくれる。


私から学ぶものは何かというと、身内の事柄については最もよく自分の一家を斉える道をはかり、さらに国家公共の事柄については、これを行なうにも論ずるにも、最も有能有力の者となるべき道をはかることの上手というのが、これである


 それはつまり、「すぐれた人間」にするということですね?とソクラテスは言う。プロタゴラスは、そうだと答える。


3.家や国家公共にとって「すぐれた人間」は教育できるか?

 そこでソクラテスは言う。

「私としては、あなたのおっしゃるような事柄は、ひとに教えることのできるものとは思っていなかったのです。」

 このあたりもまたちょっと皮肉っぽい(笑)。

 なぜ、それは教えられるようなものではないのか。ソクラテスは言う。

 土木建築とか造船とか、そういった専門的なことについては、私たちは専門家に教えを乞おうとする。しかし国家公共のことについては、だれもが侃々諤々語りあう。これってつまり、国家公共のことはだれかに教えてもらうようなことじゃないと、みんなが思っているということではないだろうか。

 さらにこうも言う。

 最も徳ある人たちも、その子どもたちを有徳な人にすることに失敗しているではないですか、と。たとえばペリクレス(アテナイの最盛期を築き上げた政治家)のように。


本人自身はすぐれた人間でありながら、自分以外の人間となると、身内の者たると他人たるとを問わず誰ひとりとして、これをよりすぐれた人間にすることに成功しなかったのです。」


 これとまったく同じ話は、『メノン』にも描かれている。

 しかしここでソクラテスの言っていることは、かなりむちゃくちゃなことじゃないかと私は思う。

 国家公共のことはだれもが侃々諤々語りあうからと言って、それが国家公共のことをだれも教えられないということとには論理的に言ってならない。

 有徳な人が有徳な人を育てられないからと言って、それは資質や環境やさまざまの要因があるのだから、別に徳が教えられないということを意味しない。(実際プロタゴラスもこのあとそのように返す。)

 最初から、ソクラテスの論理は破綻しているように私は思う。


4.プロメテウスの物語

 しかしそれはともかく、プロタゴラスの返答を見ていくことにしよう。

 プロタゴラスはまず、これに理論的に答えようかそれとも物語で答えようかと訊ね、周りの人々の反応を見てじゃあひとまずは物語で答えようと言う。

 彼が語った物語は、次のようなものだ。

 むかしむかし、神々が生き物を作る時、エピメテウスプロメテウスにその仕事が任せられた。

 そこで、まずはエピメテウスがその仕事を一通りやることにして、たとえば小動物にはすばしっこさや翼などを、大きな動物にはその大きさそのものという力を与え、あらゆる生き物が平等に生き抜けるよう工夫した。

 ところがうっかり、エピメテウスは人間に何の力を与えるのも忘れてしまった。
 
 そこでプロメテウスは、ゼウスのもとからこっそり技術的なを盗み出し、人間に知恵を与えた。(有名な話だが、そのためプロメテウスは神々の怒りを買って、半永久的に拷問されることになる。)

 さて、そんな人間たちは、最初ばらばらに住んでいたので、動物たちからいつも襲われていた。

 そこでゼウスは、彼らをまとめて自らの身を守らせるため、国家を作らせようと考えた。そしてヘルメスを呼び、人間たちに「つつしみ」「いましめ」を与えさせた。「つつしみ」と「いましめ」(ルール感覚と考えればいいだろう)がなければ、互いに争い合うだけで国家を形成することはできないからだ。

 と、こう話してプロタゴラスは言う。

実にこのような次第で、ソクラテス、〔中略〕人々の行なおうとする論議が、そのすべてが正義と節制を通じて行なわれなければならないような、国民としての徳性にかかわる場合には、彼らは誰の意見でも聞き入れるのであるが、これも当然のことである。ほかでもない、人々は、この徳性に関するかぎり、もともと為らゆる人間がそれを分けもっているべきであり、さもなければ国家は成り立たないと考えているのだから。

 人にはそもそも徳性がそなわっている。だから、国家公共のことについてだれもが論じあえるのは、当然のことなのだ。そうプロタゴラスは言うわけだ。


5.プロタゴラス:徳は教えられる

 そしてまたプロタゴラスは言う。そうした徳は、実際教えられるものなのだ、と。

 そもそも人は、生まれつきのたとえば醜くさなどについては、気の毒とは思えど罰しようとは思わない。

 それに対して、徳に欠けた人は罰せられて当然だと考える。

 それこそまさに、徳とは教えられるものであるからなのだ。

 そうプロタゴラスは主張する。

 それに、有徳な人が有徳な人を育てられないということだって理由は簡単だ。徳にもまた素質があるからだ。

 第一、野蛮人に比べれば、どれだけ徳のない人と言われようが、文明人はだれだってまだ有徳の人である。そうプロタゴラスは言う。

法律の支配する人間社会の中で育てられた者たちのうちで、最も不正な者だと君に見えるような人間であっても、もしその人を、教育も法廷も法律もなく、徳をつねに心がけるように仕向けるいかなる強制力もあたえられていない一種の野蛮人たちとくらべて、判定しなければならないとすれば、なお正義の人であり、この事柄の専門家であるといわねばならぬ。

 そんなわけで、人にはそもそも徳性が備わっていて、しかもこれは教育によって高めることができるのだ。

 以上がプロタゴラスの「徳」についての考えだ。

 個人的には、実にまっとうな考えだと思う。


6.徳とは何か?

 さて、ここでソクラテスは、ちょっと分が悪いぞ、などと思いながら、話を先へと展開する。(こういう、「分が悪いぞ」と思ったなどということが書かれているところが、本書のちょっと面白いところだったりする。)

 ソクラテスは言う。

「いったい、徳というものはある一つのものでありながら、他方しかし、それを構成するさまざまの部分として、正義とか節制(分別)とか敬虔とかいったものが、別々に分れているのでしょうか、それとも、私がいま挙げたこれらすべてのものは、まったく同一のものにつけられたさまざまの名前にすぎないのでしょうか?」

 プロタゴラスは答える。

「いや、ソクラテス、そんなことなら、答えるのはわけはない。徳とは一つのものであって、君がたずねているものは、それの部分をなすものなのだ」

 ここから、私の考えではソクラテスの詭弁の数々が展開される。

 徳は一つだけれど、これを構成しているものは別々のものなのですね、とソクラテスは言う。ということは、正義と敬虔もまた、別物だということですね?

 ということは、正義は敬虔なものではなく、敬虔もまた正義ではないということですね?じゃあ敬虔とは不正義ということですね?

 まさに詭弁の感がたっぷりだ。

 「敬虔と正義は違う、ということは、敬虔は不正義ということですね?」などというのは、論理のすりかえというほかない。両者に違いがあるということは、必ずしも両者が反対物であることを意味しない。

 しかしソクラテスは、この論理でどんどん突っ走る。

 プロタゴラスはちょっと辟易して、次のように言う。


「そんなことはどちらでもよいではないか。もし君がそうしたいのなら、正義は敬虔なものであり、かつはまた、敬虔は正しいものであるということにしておこう


 これに対する、ソクラテスの返答がまた中々にイヤらしい(笑)。

「いや、それはいけません」とぼくは言った、「私が求めているのは、そんな、『もし君がそうしたいのなら』とか、『もし君にそう思われるなら』とか言ったことが吟味されることではなく、私とあなた自身が吟味されることなのです。」

 そこでプロタゴラスは仕方なしに言う。

「よろしい、それならいかにも」と彼は言った、「正義は敬虔と似た点がないでもない。なぜなら、およそどのようなものをどのようなものとくらべてみても、とにかく何らかの点では、似ているところがあるのだから。事実、ある観点をもってすれば、白は黒と似ているし、硬いものは軟らかいものに似ているし、そのほか、互いに最も正反対と思われているものすべてがそうだ。

 これは中々に見事な返答だ。どんなものも、絶対に反対物であるとか絶対に類似物であるとか言うことはできない。それは観点によって変わるのだ。


7.相手のゲームを変えようとするソクラテス

 と、こんな感じで議論を押されたソクラテスは、私の考えではあろうことか最大の詭弁を弄することになる。

 彼はこう言う。

プロタゴラス、どうも私は、あまりもの覚えのよくない人間でして、ひとに長い話をされると、何の話だったか忘れてしまうのです。ですから、かりに私が耳の遠い男だったとしたら、きっとあなたは、私と話し合うためには、ほかの人に話しかけるときよりも大きな声を出さなければならないとお考えでしょうが、まあちょうどそれと同じように、いまの場合も、あなたの相手は忘れっぽい人間なのですから、もし私があなたについて行くべきだとしたら、私のために答を切りつめて、もっと短くしていただけませんか

 分が悪いと思うと、相手のゲームを変えようと試みるのだ。実におそるべき技だ。

 プロタゴラスはその手にのらず、次のように言う。

「ソクラテス」と彼は言った、「私はすでにこれまで、多くの人々と言論をたたかわしてきたものだが、もし君がいま命じているようなことをして、討論相手から言われるがままのやり方で言論のやりとりをしていたとしたら、私は誰に対しても優位に立つことはできなかっただろうし、プロタゴラスの名がギリシア人の間にひろまることもなかっただろう」

 と、こう言われると、今度はソクラテスはまたまたおそるべき手に打って出る。

「いや、プロタゴラス、私としましても、あなたの意に反してまで私たちの話し合いをつづけようと、しつこく望んでいるわけではありません。あなたが私にもついて行けるような対話の仕方をする気になってくださったならば、そのときに私は、あなたと対話することにしましょう。」

 こう言って、一方的に対話を打ち切り立ち去ろうとするのだ。

 いやこれには中々に度肝を抜かれる。ソクラテスといえども、若いころは議論の勝ち負けをけっこう気にしていたらしい。

 しかし結局、周りの人々の懇願により、2人は対話を続けることになる。


8.快は善、不快は悪

 そこで、次に善悪とは何かというテーマが論じられる。

 ソクラテスは言う。とはのことであり、とは不快のことである、と。

 このあたり、快と善は違うと主張した『ゴルギアス』などとはずいぶん違っているが、それはあまり重要な違いではないのかもしれない。

 というのも、本書と『ゴルギアス』の主張は、次の点で共通しているからだ。

 快といっても、「善」なる快は一時的な快ではなく、結果として快であるものだ。悪も同じで、悪なる不快は、一時的な不快ではなく、結果として悪であるものだ。

 一時的な快楽に溺れたら、その後自分にとっての「悪」が待ち受けているかもしれない。逆に、一時的な不快を耐えることで、結果自分にとっての「善」が得られるかもしれない。

 その意味で重要なのは、何が自分にとって有益であるかを知ることだ。

 ここに、「知」の重要性が主張されることになる。

 「善」をめがけることとは、すなわちそれを「知る」ことなのだ。

 と、こう論じてきて、最後にソクラテスは驚くべきことに気がつくことになる。

 自分は徳は教えられないと言ったけれど、どうも徳とは「知」であるようだ。ということは、それは教えられるものでなければならないはずだ。

 一方のプロタゴラスは、徳は教えられると言ったけれど、徳は「知」でないと主張する。(私が読むかぎり、プロタゴラスは必ずしも徳は「知」でないなどと言っていないように思うのだが……)

 こうして、結局徳とは何なのか、よく分からなかったとなって対話は終わる。(『メノン』においても、結局徳とは何なのか宙ぶらりんな感じがある。)

 こうして本書は、「次回乞うご期待」といった感じで終わるのだが、それはそれとして、本書の最後でプロタゴラスがソクラテスを次のように称える言葉が印象的だ。

「私としては、ソクラテス、君のその熱意と議論の進め方を賞讃したい。私は自分がほかの点でもけっして悪い人間ではないつもりだが、とくに人を嫉むという点では、世に私ほどそういう気持から縁遠い者はいないだろうからね。げんに君のことにしても、私の出会う人間のなかで私が誰よりもずっと感心するのは君だ、君と同年輩の者のなかではとくにそうだということを、すでにたくさんの人々に向かって話したものだよ。そして、言っておくけれども、君がいまに知恵にかけては有数の人物のひとりになったとしても、私はけっして驚かないだろう。」

 この言葉、まったく嫌味がないように私には思える。

 プロタゴラスは、実に人間のよくできた包容力のある人だったのだろう。

 スリリングな対話をたどった後、プロタゴラスのこの言葉を読むとちょっとホッとする。


(苫野一徳)


Copyright(C) 2012 TOMANO Ittoku  All rights reserved.