コールバーグ『道徳性の発達と道徳教育』


はじめに


 道徳性発達理論を打ち立てた、心理学者・哲学者コールバーグ。彼の理論は、いまなお道徳教育の金字塔であると言っていいだろう。

 道徳教育というものには、一種の「うさんくささ」がどうしてもつきまとう。「先生、言ってることとやってること違うんじゃない?」と、生徒たちに思わせてしまうことがよくあるからだ。


 また、「そんなの結局綺麗事なんじゃないの?」と思わせてしまうことがよくあるからだ。


 「道徳教育のジレンマ」とでも呼ぶべきものだ。


 その意味でも、したり顔で道徳教育を語ったり、いかにも自分は道徳を知っている、といわんばかりに道徳教育をしようとしたりする道徳教師もまた、やはりどうしても、一定の「うさんくささ」を感じさせてしまうものである。


 しかしコールバーグについては、私はほとんどそうした感じを抱かない。


 実際どのような人であったのか、残念ながら私は知らないが、少なくともその理論については、どこか感情的で印象的な多くの「道徳教育論」とはまったく違って、徹底的に考え抜かれたものになっていると私は思う。


 コールバーグが活躍した1970〜80年代、特にアメリカには、道徳的相対主義がはびこっていた。多文化主義の影響から、道徳というのは国や地域や時代によって異なるもので、普遍的な「よい」などはない、とする考えだ。


 それは確かにその通りだろう。しかし、普遍的な「よい」などないとただ言い続けることには、大きな問題もある。


 コールバーグは、道徳的相対主義は次の3つの帰結をもたらすと言い、そのことに大きな危機を覚えた。


 1つは、どうせ普遍的な「よい」などないのであれば、社会の支配的な道徳を子どもたちに教え込み植えつければいい、という考えだ(コールバーグは、デュルケームソ連の教育思想などにこの考えをみる)。


 2つめは、道徳教育をあきらめ親に全部任せよ、という考えだ。


 しかし、これはいわば市民社会を崩壊させてしまう考えである。


 市民社会は、異なる道徳をもった人びとがいかに共存するかを1つの大きな課題とする。道徳教育を親だけに任せてしまっては、特にアメリカなどはその価値観があまりに多様すぎるので、結局さまざまな場所での道徳的対立を助長してしまうことになるだろう。


 3つめは、先の2つめに似ているが、学校は価値を押しつけるべきでない、とする考えだ。


 しかしそうは言っても、学校は、学校として存在している以上、結局何らかの価値を子どもたちに伝えることになる。にもかかわらず価値を押しつけるなと主張することは、かえって自己欺瞞を招くことになる。コールバーグはそう言って、たとえばサマーヒルスクールの創始者ニイルを批判する。きわめて「自由」な学校を作ったニイルだが、そんな彼も、ある時「学校のため」を理由に子どもたちの非行をいさめたことがあったからだ。(ニイルがそう言った文脈が述べられていないので、このあたり、コールバーグの批判はニイルに対して少々アンフェアであるようにも思えるのだが。)


 以上のように道徳的相対主義を批判したコールバーグは、哲学的・心理学的に、普遍的な道徳原理と、文化を超えて普遍的な、人間の道徳的発達の段階があることを主張した。


 もちろんコールバーグも、それが絶対に正しい道徳原理であるとか、誰もが絶対にこの段階を上がり最高段階に到達しなければならないのだなどとは主張しない。


 ただ、どうやら道徳性というのは、単純に相対的なものだなどと言いきれるものではなく、一定の普遍性をもっているらしいことを、哲学的・心理学的に論証しようと試みたのだ。


 その論証には、たしかにかなりの説得力がある。私たちは、おそらく文化を超えて、「ああ、あの人は道徳的だなぁ」と感じることがある。


 マザー・テレサは、好き嫌いはあったとしても、やはりどの国の人が見ても「道徳性が高い」と感じられる人だろう。


 危険をおかしてでも人の命を助けようとした人は、それが称賛ねらいやアイデンティティ不安の打ち消しでなかったと感じられるなら、やはり「道徳性が高い」人だと私たちは思うだろう。


 私たちが高い「道徳性」を感じるものには、やはり一定の普遍性があるわけだ。


 繰り返すが、だからと言ってコールバーグは、誰もがこの高い道徳性に到達しなければならないのだなどとは主張しない。


 私たちがこの社会で共存するため、教育を通して子どもたちの道徳性を一定程度高めていく必要があるとするなら、無手勝流ではなく、この普遍的道徳原理と普遍的発達段階をちゃんと理解して、それに沿った形で教育を行っていく必要があるとコールバーグは考えたのだ。


 この主張もまた、かなり説得力のあるものであるように私は思う。


 道徳教育は何を目指せばいいのか、そしてどういう段階を踏めばいいのか。このことを理解しないままに道徳教育を行うことは、コンパスなき航海に似ているとも言えるだろうからだ。


 コールバーグは言う。


「結局、私たちの終わりのない研究プログラムは、道徳教育の指針を提供することを目指しているのです。しかもその指針は、哲学と心理学の両方を踏まえていなければならないのです。


1.道徳性の段階


 コールバーグによると、人間の道徳性の発達は、文化を超えて普遍的に、次のような段階を踏む。



 まず第1段階は、「罰と服従志向」。要するに、悪いことをして罰を与えられることを避けようとする段階だ。

 第2段階は、道具主義的相対主義者志向」「あなたが私の背中をかいてくれたら、私もあなたの背中をかいてあげる」といった、相互性の段階だ。

 第3段階は、対人関係の調和あるいは『良い子』志向」。「よい子」であることによって、承認を勝ち得ようとする段階だ。

 第4段階は、「法と秩序志向」正しい行動とは、自分の義務を果たし、権威を尊重し、既存の社会秩序を、秩序そのもののために維持することにある、と考える段階だ。

 第5段階は、「社会契約的遵法主義志向」。第4段階のように秩序そのものを重んじるのではなく、法を合意によって変更できることを重視する段階だ。

 そして最終段階である、第6段階。これは「普遍的な倫理的原理志向」と呼ばれる。一人ひとりの人間の尊厳性の尊重という原理から、個々具体的な場面における道徳を考える段階だ。

 もちろん、これらすべての段階をすべての子どもたちが必ずステップアップしていくわけではない。しかしコールバーグの観察によれば、子どもたちがこれらの段階をステップアップしていく場合は、必ず1つずつ段階を上がっていき、そして一度上がれば、もうそれ以前には戻ることがないという。




2.ハインツの道徳的葛藤

 コールバーグはそのことを、「ハインツの道徳的葛藤」の例を挙げて例証する。


 さまざまな国や地域や年齢の子どもたちにこの問題を出した時、どんな国や地域の子どもたちも、だいたい上のような発達段階を見せるというのだ。


 ハインツの道徳的葛藤とは、次のような葛藤場面を描いたものである。



 ヨーロッパで、一人の女性が非常に重い病気、それも特殊なガンにかかり、今にも死にそうでした。彼女の命が助かるかもしれないと医者が考えている薬が一つだけありました。それは、同じ町の薬屋が最近発見したある種の放射性物質でした。その薬は作るのに大変なお金がかかりました。しかし薬屋は製造に要した費用の十倍の値段をつけていました。彼は単価二百ドルの薬を二千ドルで売っていたのです。病人の夫のハインツは、お金を借りるためにあらゆる知人を訪ねて回りましたが、全部で半額の千ドルしか集めることができませんでした。ハインツは薬屋に、自分の妻が死にそうだとわけを話し、値段を安くしてくれるか、それとも支払い延期を認めてほしいと頼みました。しかし薬屋は、「だめだね。この薬は私が発見したんだ。私はこれで金儲けをするんだ」と言うのでした。そのためハインツは絶望し、妻のために薬を盗もうとその薬屋に押し入りました。

 合意によって法を変えられると考える第5段階や、人間尊重を道徳原理と考える第6段階の子どもたちは、この問題について、財産よりも生命を優先させ、薬を盗むことが正しいと答えたという。

 もっとも、その子どもが何をもって第何段階にいると捉えるか、というのは、一定の恣意性を免れ得ない。


 さらに言えば、なぜ第4段階より第5段階の方が上で、第6段階の方が第5段階より上なのかということについては、さらに恣意的であると言わざるを得ない。


 これは「実証」レベルの話ではなく「価値観」レベルの話、つまり哲学的な議論に属するものであるからだ。


 もちろん、コールバーグ自身そのことは深く理解していた。


「私の発達段階のアプローチは、道徳判断とは何であり、道徳行為とは何であるか、またより妥当で適切な道徳とは何であるかについて、当為に関する一定の哲学的前提(そしてまた発達段階についても一定の前提)を設けています。こうした前提は、私たちの経験的デタによって証明されるものではありませんが、このようなデタによって私たちの確信は強化されます。」


 第4段階より第5段階が、第5段階より第6段階がすぐれている、というのは、「実証」できることではない。それは哲学的問題だ。しかしそれでも、文化を超えた広範な実証研究を通して、どうやら人間は、確かに第4から第5、第5から第6段階へと発達するらしい、ということが見えてくる。そうコールバーグは主張するのだ。



3.第6段階とは何か


 ここで、少し分かりにくいかもしれない、「普遍的な倫理的原理志向」と呼ばれる第6段階について説明しておこう。コールバーグは言う。


「自律的な第六段階の道徳的行為主体の目的は、ある人の善の増進が他の人の権利尊重を損なわず、また個人の権利尊重がすべての人の最善なるものを促進しそこなうことのないような方法で、道徳問題を解決しようとすることです。」


 その場合、指針となるべきは「人間尊重」の原理である。第6段階において、人は、互いを尊重し合おうという自覚をもって、さまざまな道徳問題を調整していこうと努める。


 その際、重要になるのは、「対話」を続けようとする意志と態度だ。


「人間を等しく尊重する原理を実現できるのは、対話を通してだけですから、対話に入ろうとする姿勢の必要性が認識されているのです。すなわち、対話は、他者とのかかわり方のうち、互いに承認しうる合意に到達することを目指すものとして必要なものなのです。」


 もちろん、私たちは対話を通せば必ず合意に至るというわけではない。しかし、そうした合意に至らない場面においてもなお相互尊重を維持しようとするところに、第6段階の特徴がある。



4.道徳性の「形式」と、ギリガンからの批判への応答


 コールバーグは、道徳性を「内容」よりも「形式」においてみることを主張する。


 道徳性の「内容」は、確かに道徳的相対主義が主張するように、文化によってさまざまだろう。老人を敬えという文化もあれば、子どもの方が老人より大切だと考える文化もある。


 しかしその「形式」を見たとき、やはりそこには一定の普遍性がある。道徳性の発達段階とは、まさにこの「形式」を言い表したものである。


 この点から言えば、コールバーグを激しく批判したギリガンの批判が、かなり的外れなものであったことも分かる。


 ギリガンは、コールバーグの道徳理論は男性中心主義的であると批判した。ギリガンからすれば、道徳的「正義」はコールバーグの第6段階のように重々しいものではなく、「女性」は道徳をその時々における「思いやり志向」において考える、と主張した。


 しかしこの「思いやり」もまた、それがきわめて高い「道徳性」を示していると人びとに感じられるとするならば、それは結局、コールバーグの言う第6段階的な「形式」、すなわち「人間尊重」を感じさせるからだろう。


 コールバーグも、ギリガンの批判に応えて次のように言っている。


「この原理の内容は、人格の尊厳性あるいは人格の価値を等しく尊重することであると考えています。私たちの見解からすれば、この原理は、キャロル・ギリガンが強調した共感的思いやり〔中略〕と、正義の原理、すなわち財と尊敬の念を普遍的に、等しく、公正に分配する原理とを統合し包含しています。


 もちろん「思いやり」は重要だし、実際「女性」は、道徳を個々具体的な場面において「共感的」に判断していく傾向があるだろう。


 しかし、その「思いやり」や「共感」が「道徳的」だと言えるとき、そこには、コールバーグが示した「人格の価値を等しく尊重すること」という観点が、必ず入っているはずである。


 ギリガンの批判は、すでにコールバーグ理論の中に包摂されたものだったのだ。



5.道徳性の「形式」と、カント哲学の批判的継承


 道徳性を「形式」として捉える、というのは、カント以来の道徳哲学の伝統だ。


 しかしコールバーグからすれば、カントにはちょっと“勇み足”なところがある。



原理を純粋に形式的に定義しようとすると、慣習的道徳の古い規則を、より普遍的で規範的な形式に表現し直す程度で終わってしまいます。被害者が殺されるのを救うために嘘をつくことは間違っているというカントの主張が好例です。形式主義者の考えでは、原理はなお行為の規則として、つまり各種の状況における各種の行為を規定する規則として把握されています。」

 カント的道徳主義は、「いついかなる時もこうふるまえ」と主張してしまいやすい(カント『道徳形而上学原論』『実践理性批判』のページ参照)。しかしコールバーグは、それはちょっと行きすぎだと指摘する。

 道徳性の「形式」とは、いついかなる時も従わなければならない基準ではなく、行動の「指針」なのだ。コールバーグはそう主張する。


「私たちの考えでは、原理とは、具体的な状況において道徳に関連あるすべての要素を認識し、統合する指針です。」


 とても重要な指摘だろうと私は思う。



6.道徳教育は「教授」ではなく「発達の促進」


 以上のような道徳性の発達理論を踏まえて、コールバーグは次のように言う。


道徳教育の目標を、決められた規則の教授でなく、発達の促進と規定する場合の魅力は、それが子どもになじみのない行動様式を押しつけるのでなく、子どもがすでに向かいつつある方向へさらに一歩前進するのを援助することを意味している、という事実にあります。


 人間における道徳性の発達段階をよく知り、それを上手に促進援助していくこと。ここに、コールバーグ道徳教育理論の核がある。



(苫野一徳)

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