柄谷行人『世界史の構造』

はじめに


 来るべき世界を構想する本書。世界史を「交換様式」の観点から読み直し、その上で、これからの新しい世界のあり方を提示する。


 壮大なスケールで繰り広げられる本書は、まさにその壮大さのゆえに、とてつもなく面白い。大変な「仕事」をされたと、心から敬意を表したい。


 しかし私の考えでは、本書には非常に大きな問題もある。本書の紹介・解説に入る前に、そのことについて少し論じておきたい。


 世界史上、4つの交換様式が起こってきた。まず柄谷はそのように言う。


 互酬性を原理とする「交換様式A」。略取=支配を原理とする「交換様式B」。そして、資本主義的な合意に基づく商品交換、すなわち「交換様式C」である。


 今日支配的なのは、交換様式Bと結びついた交換様式C、すなわち世界大の産業資本主義である。そしてこの資本主義は、たえず格差を生み続けるという大きな問題を抱えている。


 さらに言うと、資本主義は、たえざる技術革新安価な労働力無尽蔵の自然を必要とするという限界を抱えている。そして現代は、すでにこの限界に到達した時代だと言っていい。


 この問題を克服するためには、われわれは再び交換様式A、すなわち「互酬性」を原理とする社会を構想しなければならない。つまり交換様式Dの創出だ。


 柄谷は言う。互酬性という、フロイト流に言うならば「抑圧されたものの回帰」を果たし、世界共和国を構想しなければならないのだ、と。


 以上が柄谷の主張の軸である。


 膨大な世界史および哲学的知識によって支えられていることもあり、柄谷の論は多くの部分において非常に説得的だ。


 しかし私の考えでは、彼の最も重要な主張、すなわち、国家と資本主義に対抗し、互酬性の原理をこそ回復しなければならないという主張には、かなりの論理的飛躍がある。


 第一に、なぜ国家と資本主義を「揚棄」しなければならないのか、その理由が不明確だ。

 
 もちろん、柄谷自身がそのことを大きなテーマとしてきた思想家だから、それはある意味前提だと言っていいだろう。しかしそれでもなお、なぜ私たちが資本主義を揚棄しなければならないのか、その理由はよく分からない。柄谷が、自らの「直観」と「願い」を、膨大な知識を使って力技で理屈づけたとさえ思われる。

 第二に、なぜ、国家と資本主義を揚棄して、互酬性の原理が全面的に回復されなければならないのか、その理由が不明確だ。


 確かに互酬性の原理は、現代資本主義の問題を考える上できわめて有用なアイデアだろう。しかし、なぜそれが、資本主義を揚棄した上で全面化されなければならないのだろうか。


 むしろ私たちは、資本主義のシステムに、この互酬性の原理をうまく組み込むことを考えてもいいのではないか。いや、むしろそちらの方が、柄谷のいう世界同時革命より現実的だと言えるのではないか。


 もっとも、それがなお「資本主義」と呼びうるシステムであるかと言えば、留保も必要かもしれない。歴史学者ブローデルにならって、「資本主義」というより、より透明性の高い「市場経済」をめざすべきだと言うべきかもしれない(ブローデル『歴史入門』『物質文明・経済・資本主義』のページ参照)。


 それはともかく、以下、本書の壮大なストーリーを見ていくことにしたいと思う。




1.資本=ネーション=ステート


 現代資本主義は、ネーション(国民/共同体)とステート(国家)と「ボロメオの環」のごとく結合されている。


 柄谷が長らく主張してきたことだ。


 どういうことか。


「資本制経済は放置すれば、必ず経済的格差と対立に帰結する。だが、ネーションは共同性と平等性を志向するものであるから、資本制がもたらす格差や諸矛盾を解決するように要求する。そして、国家は、課税と再分配や諸規制によって、それを果たす。資本もネーションも国家も異なるものであり、それぞれ異なる原理に根ざしているのだが、ここでは、それらがボロメオの環のごとく、どの一つを欠いても成り立たないように結合されている。私はそれを、資本=ネーション=国家と呼ぶことにしたのである。」


 現代資本主義は、それ自体がもたらす矛盾を克服しようというメカニズムを内在している。それが、ネーションという(想像的な)共同体や、その現実的な支配システムとしてのステート(国家)である。


 これらは分ちがたく結ばれ合っている。したがって、どれか1つをなくしてしまえば、現代資本主義の諸問題が解消されるというわけにはいかない。

 
 マルクスは、このうち経済の問題こそが本質的だと考えた。経済が下部構造であって、ネーションやステートは上部構造なのだ、と。

 しかしこの考えこそが、マルクス主義にとっての躓きの石だった。経済の問題だけに狙いをつけても、常に格差を拡大する資本主義の暴走を止める手だては得られないからだ。


 そこで柄谷は、新たなアプローチの必要性を次のように述べる。


「ゆえに、われわれは「生産様式」=経済的下部構造という見方を放棄すべきである。だが、それは「経済的下部構造」一般を放棄することではまったくない。たんに、生産様式にかわって、交換様式から出発すればよいのだ。


 世界史を、生産様式ではなく交換様式から再び読み直すこと。そのことで、資本=ネーション=ステートを突き崩す方途をさぐること。これが本書の目的である。



2.交換様式 A, B, C, D


 柄谷はまず、世界史上起こった4つの交換様式を抽出する。


 まず、交換様式A。これは「互酬性」を原理とする交換様式だ。人間社会の最も原初的な交換様式であると言っていい。


 続いて発展する交換様式Bは、「略取=支配」を原理とする。国家の始まりがそうだと柄谷は言う。


 交換様式Cは、「合意に基づく商品交換」である。さしあたっては資本主義のことと考えていいだろう。


 そして柄谷はここに、来るべき想像上の交換経済Dを置く。


交換様式Dは、交換様式Aの高次元での回復である。


 つまり交換様式Dは、帝国的支配や資本主義経済を経て、搾取と格差が広がった現代あるいは未来において、再び互酬性の原理に基づいて行われる交換の様式のことである。


 柄谷が目指すのは、この交換様式Dの実現である。



3.ミニ世界システム


 以下、柄谷は世界史の流れに沿って、「ミニ世界システム」「世界=帝国」「近代世界システム」を描き出し、最後に「現在と未来」の構想を論じる。


 まずは「ミニ世界システム」について。


 狩猟採集民族だった人類は、ある時「定住革命」を起こすことになる。なぜ定住が起こったか。それは基本的には気候変動のためだった。


「氷河期の後の温暖化とともに、中緯度の温帯地域に森林化が進んで大型獣が消え、また採集に関しては、季節的な変動が大きくなった。そのとき、人々が向かったのは漁業である。漁業は狩猟と違って、簡単に持ち運びできない漁具を必要とする。ゆえに、定住するほかなかった。」


 ここにおいて氏族社会が成立するが、この氏族間の基本的な交換様式が、贈与交換、すなわち交換様式Aだった。(贈与についての詳細は、モース『贈与論』のページなどを参照)



4.世界=帝国


 ところがこの交換様式A主体の社会は、やがて外部からやって来る侵入者によって破壊されることになる。外部からの征服者が、「国家」を作ったのである。


 国家の起源はなぜ外部からの侵略にあると言えるのか。柄谷は言う。


国家がたんに共同体の発展として成立することはありえない。互酬原理にもとづく共同体では、いかに内部に矛盾が生じても、贈与と再分配によって解消されるからだ。

そこで、つぎのような考えが生まれる。そのような主権者は、共同体における自己疎外の結果として生じたのではなく、もともと「外」から来たのだ、つまり、征服者として。ゆえに、国家の起源に征服があるというのである。

 互酬原理は、絶対的な支配者が現れるのを巧みに避けようとするシステムだ。したがってこのシステムにおいて、支配−征服者が内部から現れるとは考えられない。それゆえ国家の起源たるべき支配者は、外部からやって来た。そう柄谷は言うわけだ。


 そしてまた、外からの侵略者の脅威に絶えず脅かされれば、互酬性内部のシステムもまた、強い支配者を立てようとするシステムへと変わっていかざるを得ない。したがって、そのように内部から生まれるとしても、主権者は窮極的には「外から」来るというべきである。


 国家の誕生に伴い、専制国家が現れたり官僚制が発達したりすることになるが、交換様式の観点から見て重要なことは、ここにおいて貨幣が登場することになるという点である。

 柄谷は言う。


さしあたり大事なのは、商品交換がなされるためには国家が必要であるのと同様に、国家もその存続のために貨幣を必要とするということである。国家は貨幣で人を雇用することができる。それによって、恐怖によるのではなく、また、互酬的な拘束によってでもなく、「自発的な契約」にもとづく支配が可能となる。


 国家は貨幣を必要とした。貨幣によって、人々をより効率的に支配することが可能になるからだ。


 やがて、強大な力を持つ世界=帝国が誕生する。


 世界=帝国たる条件は3つである。1つは、世界貨幣。2つは、共同体を超えた法、そして3つは、世界宗教である。



5.近代世界システム


 16世紀、世界史は、世界=帝国の時代から「近代世界システム」の時代へと変貌を遂げる。


 近代世界システムとはウォーラーステインの言葉だが、要するに、資本主義システムが世界に張り巡らされたことと考えておいていいだろう。(ウォーラーステイン『近代世界システム』のページ参照)


 それは、産業資本が自己増殖するシステムである。


「産業資本とは、労働者に賃金を払って協働させ、さらに、彼らが作った商品を彼ら自身に買いもどさせ、そこに生じる差額(剰余価値)によって増殖するものである。

産業資本の画期性は、労働力という商品が生産した商品を、さらに労働者が自らの労働力を再生産するために買うという、オートポイエシス的なシステムを形成した点にある。    

 資本主義は、賃金労働する労働者を働かせ、さらに彼らに、自ら作ったものを生活のために購入させる。そしてその過程で生まれる剰余価値によって、資本はますます増殖していく。このようなシステムができたことで、資本主義はあっという間に世界中に進出し、世界中を支配した。


 ということはつまり、資本が蓄積を続けるためには、たえず新たなプロレタリアが必要なのである。」


 さて、しかしそのような産業資本主義は、それゆえに、自らのうちに限界を抱え込むことになる。


「第一に、それはたえまない技術革新を必要とする。なぜなら、産業資本の相対的剰余価値は、労働生産性を上げることによって得られるからだ。第二に、それはたえず安価な労働者新たな消費者を必要とする。それは、農村部・周辺部から提供される。以上二つの要素が、資本の蓄積にとって不可欠である。これらがないと、資本主義は終わってしまう。

「さらに、〔中略〕産業資本主義経済の成長は、つぎの条件を前提している。それは、工業生産の外部に無尽蔵の自然があるという前提である。それは、資源が無尽蔵にあること、および、自然界が生産に伴う廃棄物を処理しうるほどに無尽蔵であること、である。

 たえまない技術革新安価な労働力、そして無尽蔵の自然。これら条件が整わない限り、資本主義は必ずどこかで頓挫してしまう。柄谷はそう主張する。


 こうして、その内部に矛盾を抱える資本主義(資本=ネーション=ステート)の問題を克服するため、柄谷が提唱するのがアソシエーショニズムである。


 それは、互酬の原理、すなわち交換様式Aを高次に回復することだ。あるいはフロイト流に言うならば、互酬という「抑圧されたものの回帰」を果たすことである。


 それが具体的にどのような形をとるものか、本書では柄谷はあまり詳論していないが、たとえばマルクスの主張した株式会社における法人所有を、労働者の共同占有に変えること」などについてが論じられている。



6.現在と未来


 現代はどのような時代か。柄谷は言う。1990年代以降、世界は「帝国主義的」である、と。


 ヘゲモニーを担ってきたアメリカは、製造部門におけるヘゲモニーをすでに失い、新たなヘゲモニー闘争が始まっている。


 この闘争において、アメリカなど各国は、国内の人々の福祉を考えるよりも、国際競争力に目を向けることになる。


国際競争のためには、人々の生活は犠牲にされてもやむをえない。この意味で、新自由主義のイデオロギーは帝国主義のそれと類似する。帝国主義時代に支配的なイデオロギーは、弱肉強食という社会的ダーウィニズムであったが、新自由主義時代にもそれの新版があらわれた。たとえば、勝ち組・負け組、といった語が公然と語られたのである。」


 このヘゲモニー闘争を、中国インドが制するかどうかは分からない。というのも、資本主義はすでにその限界に到達しようとしているからだ。


先に述べたように、産業資本主義の成長は、つぎの三つの条件を前提としている。第一に、産業的体制の外に、「自然」が無尽蔵にあるという前提である。第二に、資本制経済の外に、「人間的自然」が無尽蔵にあるという前提である。第三に、技術革新が無限に進むという前提である。だが、この三つの条件は、一九九年以後、急速に失われている。


 そこで目指すべきは、互酬性、すなわち交換様式Aを原理とした諸国家連邦「世界共和国」の構想である。そう柄谷は主張する。


「たとえば、このとき贈与されるのは、生産物よりもむしろ、生産のための技術知識(知的所有)である。さらに、相手を威嚇してきた兵器の自発的放棄も、贈与に数えられる。このような贈与は、先進国における資本と国家の基盤を放棄するものである。」


 資本主義的経済競争から、互酬性を基礎とした世界へ。これが柄谷のプランである。彼は続ける。


「それによって無秩序が生じることはない。贈与は軍事力や経済力より強い「力」として働くからだ。普遍的な「法の支配」は、暴力ではなく、贈与の力によって支えられる。「世界共和国」はこのようにして形成される。この考えを非現実的な夢想として嘲笑する人たちこそ笑止である。



(苫野一徳)


Copyright(C) 2012 TOMANO Ittoku  All rights reserved.