ベンヤミン『暴力批判論』



はじめに

 鋭い社会批評を、エスプリの効いた独特の文章をもって表現し続けた、ユダヤ人思想家ベンヤミン。思考が幾重にも重なり合うように紡がれる彼の思想表現は、今なお多くの人を引きつけて放さない。

 ナチスの追っ手から逃亡する途中、ピレネー山中にて服毒自殺を遂げたとされている。

 本書は、「暴力批判論」とその他10篇が収められた論文集。

 以下では、その中から主要なものとして、「暴力批判論」と「認識批判序説」について紹介したい。そしてまた、彼の思想を批判的に考察することにしたいと思う。


1.「暴力批判論」について

①目的のために暴力は正当化されうるか?

 本論文の目的は、たとえ正しい目的のための手段にもせよ、一般に暴力が原理として倫理的であるかどうか」という問いに答えることにある。

 あらかじめ言っておくと、ベンヤミンの答えは「ノー」だ。

 まず彼は次のように言う。

「自然法は、正しい目的のために暴力的手段を用いることを、自明のことと見なす」

 たとえば、いつ果てるとも知れない、ホッブズ言うところの「万人の万人に対する戦い」を調停するような暴力がそうだろう。その場合、暴力という「手段」は「正しい目的」のために正当化される。

 しかしベンヤミンは言う。

「それ(暴力―引用者)は法関係を確定したり修正したりすることができる」

 正しい目的(法)のためなら、暴力という手段は正当化される。そう一般には考えられている。しかし実のところ、暴力はこの目的(法)それ自体を作ったり変えたりしてしまう力を持っているのだ。

手段としての暴力はすべて、法を措定するか、あるいは法を維持する。


②目的の正しさを決めるのは神

 そこでベンヤミンは、次のように言う。

手段の適法性と目的の正しさについて決定をくだすものは、けっして理性ではないのだ。前者については運命的な暴力であり、後者については――しかし――神である。

 暴力は、手段としての自らの正当性を主張することができない。暴力を行使するに値するとされる目的もまた、結局はその暴力が自ら作り出すものであるからだ。

 では何が目的の正しさを決めるのか。

 それはである。

 きわめて飛躍的に思えるが、ベンヤミンはこうして、最後に神の正しさを主張する。

 人間が行使する暴力は、自らを正しい手段であると強弁する神話的暴力である。この神話的暴力を廃棄せよ。そして神の正しさに還れ。ベンヤミンはそう主張するわけだ。

非難されるべきものは、いっさいの神話的暴力、法措定の――支配の、といってもよい――暴力である。


③「暴力批判論」の問題

 さて、私の考えでは、以上見てきたベンヤミンの思想は、やはり飛躍であり、また思想的退行である。

 近代哲学は、何が「神の正しさ」であるかは分からない、ということを、一つの到達点、あるいは思考の出発点とした。

 キリスト教とイスラム教の戦いや、カトリックとプロテスタントの戦いなど、何十年何百年にわたる凄惨な命の奪い合いの歴史を通して、デカルトに始まる近代哲学者たちは、絶対的な神の正しさが不可知であることを明らかにし、これをめぐる殺し合いに終止符を打つことを訴えてきた。(デカルト、ロック、ヒューム、バークリーなどのページ参照)

 重要なことは、何が絶対的に正しい真理であるかをめぐって争い合うことではなく、どうすれば互いに平和に共存することができるか、そのルールを設定し共有することである。これが、カントからヘーゲルに至る近代哲学者たちの1つの到達点だった。(カントとヘーゲルのページ参照)

 それゆえ私たちは、ベンヤミンのように、手段としての暴力はそれ自体が目的を作り出すがゆえに正当化され得ないなどと言うのではなく、設定された目的の正当性と、その実質化のプロセスや程度の正当性を、常に問い続けるべきなのだ。

 手段としての暴力が目的それ自体を作り出す、というのはベンヤミンの洞察だが、しかしだからこそ、私たちは、そうならないよういかに暴力を正当性のもとに制御しうるかと問わなければならないはずなのだ。


2.「認識批判序説」について

 続いて、1928年に発表された「認識批判序説」について。

①哲学は散文的であれ

哲学の構想においては方法は、その教授法に解消されるようなものとは違う。ということは、哲学の構想には一種の秘教性がつきまとう、ということにほかならない。」

 ベンヤミンによれば、哲学とは確固たる方法を持つものではないがゆえに、秘教性を免れ得ない。いやむしろ、秘教性を持つべきものである。

 ベンヤミンによれば、ヘーゲルなど19世紀の哲学は、真理蜘蛛の巣状に張り渡された認識の網のなかに捉えようとする」試みである。

 要するに、大文字の真理を自らのうちに取り込み叙述してやろうなどという、出過ぎたまねをしているというわけだ。

 しかし真理なるものは、そのような不遜な態度で叙述できるようなものではない。それゆえ哲学は、命令的な教説としてではなく、散文的に叙述されるべきものなのだ。

「対象が大きければ大きいほど、この観察はそれだけ多く中断する。その散文的な冷静さは、命令的な説の言葉よりも身近であり、そしてそのような冷静な書きかただけが、哲学的な探究にはふさわしいのだ。


②真理は認識されるものではない

 そこでベンヤミンは次のように言う。

真理は意図とは無縁に、諸理念から構成された存在である。だから、真理にふさわしい態度は、認識における志向性ではなくて、真理へはいりこんで消滅することだ。

 真理は、認識対象などという枠を遥かに超え出たものである。人間の認識はあまりに限定的なものだから。

 それゆえ、私たちは真理を認識対象として捉えることはできない。とすればわれわれに可能なことは、そこへ入り込んで消滅することのみである。

 そうベンヤミンは主張する。


③「認識批判序説」批判

 さて、以上がベンヤミンの「認識論」あるいは「認識論批判」の要諦だが、私の考えでは、これは残念ながら「認識論」としては原理性を欠いている。

 ベンヤミンにおける「真理」あるいは「根源」は、認識されるものではなくわれわれにその存在をいわば刻印するようなものだ。

経験によって規定されうるような志向としてではなく、この経験をまず刻印する力として、真理は存立している。

 「真理」なるものが認識され得ないものであることは、ある意味ではもはや哲学的常識だ。そこで哲学は、ここから2つの道へと分かれることになる。

 1つは、「真理」なるものへの問いを打ち切り、一切をわれわれに立ち現われた「現象」として捉える方向。もう1つは、この「真理」なるものを、認識不可能でありつつもわれわれの存在根拠として措定する方向。

 前者はフッサール現象学が徹底した方向性だ。対して後者は、たとえばフッサールの弟子にしてベンヤミンの同時代人、ハイデガーが熱心に叙述した。

 そして私の考えでは、両者の「真理」論を比べれば、圧倒的にフッサールに軍配が上がる。

 その理由については、このブログでもさんざん論じてきたので、ここではポイントを1つだけ言っておくことにしたいと思う。(詳細はフッサールやハイデガーのページ参照)

 重要なことは、私たちの存在根拠としての真理というベンヤミン的な真理についての考えは、決して検証し得ないということだ。

 検証しうる(確かめ可能である)のは、私たちには何らかの現象が立ち現われているというそのことまでであって、この現象の立ち現われを可能にしている何ものかは、「想定されるもの」という域を出ない。

 したがって私の考えでは、私たちが入り込んで消滅する真理とか、経験を刻印する力としての真理とかいったものは、検証不可能な物語以外の何ものでもない。

 そしてもしもこの物語を受け入れるとするならば、私たちは、ではその真理とは一体何かという、決して答えの出ない、そして時に激しく対立し合う論争を繰り広げることになる。そして実際、哲学は、そうした決着のつかない(あえて言うなら不毛な)論争の歴史でもあったのだ。

 フッサール現象学の功績は、こうした形而上学的物語を封じ込めることにあった。

 認識対象としての真理への問いは言うまでもなく、われわれの存在根拠としての真理への問いをもやめよ。

 私たちはそのように言うべきである。(このことについての詳細な論証は、フッサールのページを参照されたい)


(苫野一徳)


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