ルソー『人間不平等起源論』


はじめに


 原始において、人間は平等であった。それぞれが、ただただ精一杯それぞれの生活を送るだけであった時代、そこに社会的不平等は存在しなかった。


 ルソーは本書でそう主張する。

 「私有」がすべてを変えた。ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会〔国家〕の真の創立者であった」のだ。

 本書は、1753年、ディジョンのアカデミー懸賞論文に応募され、落選したものだ。

 その3年前の1750年、『学問芸術論』において、ルソーは同じ懸賞論文において当選している。彼を一躍時の人たらしめたのは、この論文である(ルソー『学問芸術論』のページ参照)。

 しかしこの『人間不平等起源論』の内容は、アカデミーには受け入れられないものだった。

 時はフランス絶対王政の時代。不平等は、自然法によって是認されている。これがアカデミーが期待した結論だった。

 ところがルソーは、原始において人間は平等だったのであり、現代の専制政治は、不平等の最終局面にして最大悪であると論じたのだ。

 時代のうねりを感じさせる作品であると共に、ルソーの類まれな熱情と文才が光る名著である。


1.「私有」=社会的不平等のはじまり

 本書第1部において、ルソーは、原始状態の人間の生活を仮説として描き出し、そこにおいては、人々の間に身体的不平等はあっても社会的不平等はなかったと論じる。

 というのも、原始状態において、人々はまだ「私有」というものを知らず、ただその日その日を各人が精一杯暮らしていただけだからである。人類史においては、「私有」が始まるよりも前、不平等は存在しなかったのだ。

「森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要ともしないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。〔中略〕世代はいたずらに重なっていった。そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。

 そして本書第2部が、次の有名な言葉とともに始まる。

ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会〔国家〕の真の創立者であった。」

 人類の歴史のある時期において、この「私有」の観念が突如として現れる。歴史的にいえば、それは約1万年以上前の、定住農耕蓄財の時期がそうだろう。

 ここから、人々は激しい争い合いの時代へと突入する。

一口でいえば、彼らがただひとりでできる仕事や、数人の手の協力を必要としない技術だけに専心していたかぎり、彼らはその本性によって可能だった程度には、自由に、健康に、善良に、幸福に生き、そしてたがいに、独立の状態での交流のたのしさを享受しつづけたのであった。ところが、一人の人間が他の人間の援助を必要とするやいなや、またただひとりのために二人分の貯えをもつことが有効であると気づくやいなや、平等は消えうせ、私有が導入され、労働が必要となった。


2.憐れみ

 ただし、この普遍的な争いの状態が起こるよりももっと以前から、人間には「憐れみ」の情があったとルソーは言う。

「それはわれわれのように、弱くていろんな不幸に陥りやすい存在にはふさわしい素質である。それは人間が用いるあらゆる反省に先立つものであるだけにいっそう普遍的なまたそれだけ人間にとって有用な徳であり、そして時には禽獣でさえもそのいちじるしい徴候を示すほど自然的な徳である。

 ルソーによれば、この憐れみこそが、他者へのあらゆる同感的感情の源にある。

「実際、寛大、仁慈、人間愛というものは弱者、罪人あるいは人類一般に適用された憐れみの情でなくてなんであろうか。親切や友情でさえも、それを正しく理解するならば、特定の対象にそそがれた不変の憐れみの情から生まれたものである。」

 ルソーの思想はその後のフランス革命の導火線になったが、革命時、恐怖政治を行ったロベスピエールは、ルソーのこの「憐れみ」の思想に共鳴していたと言われている。そして、貧民への「憐れみ」を原動力に、「富める者」たちを次々と虐殺していった。

 そこから、ルソーは後の時代から激しい批判を浴びることになる。たとえばハンナ・アーレントなども、「憐れみ」を思想原理としたルソーを徹底的に批判し、政治において重要なのは、「憐れみ」に訴えかけることではなく、いかに万人の「自由」を創設するかということにこそある、といっている。剥き出しの「憐れみ」は時に危険な暴力になる。私たちは、この「憐れみ」を理性によってコントロールしなければならないのだ、と。(『革命について』のページなど参照)

 しかし本書を読む限りでは、ルソーは別に、この「憐れみ」をもとにして社会変革を行えなどとは一言もいっていない。(革命の必要性をほのめかしてはいるが、「憐れみ」に基づけとはいっていない。)

 ルソーは、ただ人には「憐れみ」の感情が原初的に備わっていることを指摘しただけであって、一切の社会変革や社会構想を、この感情に基づいて行えなどとは主張していない。

 私はさまざまなところでルソーへの批判に対する反批判を書いているが、この「憐れみ」批判についても、ルソー思想の深い理解に基づいた批判であるというよりは、ロベスピエール経由の、あまりに色のつきすぎたルソー批判なのではないかと考えている。


3.専制政治の完成

 「私有」を皮切りに、普遍的な戦争状態が起こり、人類の歴史は強者による弱者の支配へと行き着くことになる。

 この過程について、ルソーは次のような興味深いことをいっている。

 いくら富者や強者といえども、次々に戦争が続けば自らも無事であり続けられるとは限らない。

 そこで彼らは、ある一つの手に打って出た。

 自分に一切の権力を集中させることこそが、人々の平和と安全に寄与するのだと人々をたぶらかし説得したのである。

「彼は彼らにむかって言った。『弱い者たちを抑圧からまもり、野心家を抑え、そして各人に属するものの所有を各人に保証するために団結しよう。正義と平和の規則を設定しよう。それは、すべての者が従わなければならず、だれをも特別扱いをせず、そして強い者も弱い者も平等におたがいの義務に従わせることによって、いわば運命の気紛れを償う規則なのだ。』」

 ホッブズにいわせれば、人々が合意のもとに集中権力を作り出すことは、平和と安全維持のための理性的アイデアである(『リヴァイアサン』のページ参照)。

 しかしルソーにいわせれば、それは専制権力のいわば詐欺的行為なのである。

 そしてこの専制政治こそ、人間の不平等の最終局面である。ルソーはそう主張する。

「これがすなわち不平等の到達点であり、円環を閉じ、われわれが出発した起点に触れる終極の点である。ここですべての個人がふたたび平等となる。というのは、今や彼らは無であり、家来はもはや主人の意志のほかなんらの法律ももたず、主人は自分の欲情のほかなんらの規則をもたないので、善の観念や正義の原理がふたたび消滅してしまうからである。すなわち、ここでは、万事がただ最強者の法だけに、従って一つの新しい自然状態に帰結しているのだが、この自然状態がわれわれの出発点とした自然状態と異なるのは、後者が純粋な形で自然状態であったのに対して、前者が過度の腐敗の結果だ、ということである。」

 ルソーはここから、人類は「新しい諸変革が政府をすっかり解体させるか、またはこれを合法的な制度に近づけるにいたるのである」と主張する。

 本書から7年後、『社会契約論』において、ルソーの政治思想はその頂点を迎えることになる。


(苫野一徳)

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