シェリング『学問論』


はじめに
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 1802年、イエナ大学において行われた講義。

 さすがはドイツ観念論の代表的哲学者、学問の長は徹頭徹尾哲学にあり、それは個別的事象にかかずらうことなく、絶対普遍なる世界を究明するものであるということが滔々と語られる。

 それゆえ、たとえ個別学問といえど、学であるかぎりそれはどこまでも理念的なものであり、技術に堕しては決してならない。そうシェリングは主張する。個別学問もまた、自らを普遍的・絶対的な世界における一側面として自覚していなければならないのだ。

 こうした学問観は、今ではあまりに時代遅れといわざるを得ない。そもそも、絶対普遍の世界、という世界観が、今日ではまず成立しない。

 しかし、哲学を基礎に諸学を組織立てていくという主張については――もちろんこれはシェリングの独創ではなく古くから続く学問観だが――今日再び見直されていいように私には思われる。

 現代学問は、あまりに細分化し、領域によっては、そもそもの目的が何であるのかさえ見失ってしまっているものも多くある。

 そもそも何のための学問であり、そして諸学問は、そのためにいかに相互作用し合うことができるのか。

 この課題に応えうる学こそ、哲学であると私は思うからだ。

 そしてその最も原理的な方法は、私の考えではフッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』において見事に展開されている。

 ともあれ、以下本書におけるシェリングの主張をみていくことにしよう。


1.学問における哲学の重要性

 はじめにシェリングは次のように言う。

学問や芸術においても、特殊なものは、普遍的なものや絶対的なものを、己のうちに宿す限りにおいてのみ価値をもつのである。」

 個別具体的な学問は、普遍的・絶対的なものと有機的に統合されたその部分として考えられなければならない。そしてそれを可能にするのは、哲学である。シェリングはそう主張する。

「こういう直観は、畢竟一般的はただ学問すなわち哲学のみ期待され、かくて特殊的に哲学者にのみ期待されるのである。」

 個別具体的な学問は、ただ個別的なものとして探究・学習されたとしたら、それは単なる技術にすぎない。学問とは、どれほど個別的テーマを扱うのであったとしても、一切を統べる普遍的原理の相において探究されなければならないものである。すなわち、常に哲学をその最高原理としなければならないものなである。


2.大学教員について

 以上のような学問・哲学観に基づいて、シェリングは大学における学者および学問の意義について論じる。

 まず彼は次のように言う。

「その職に値いする教師は、誰でも自己の精神的卓越性により、学問的教養により、またそれをさらに一般に拡げようとする熱意によってかち得る以外の尊敬を求めないだろう。ただ浅学菲才の徒のみこういう尊敬を他のもので支えようとするのである。

 大学教員たるもの、己に対する尊敬は己の学的能力においてのみ得ようとすべきである。それ以外のもので尊敬を得ようなどとする者は、しょせん学的能力を欠くものである。シェリングはそう厳しく批判する。

 そして続ける。

彼らに精神的自由を与えるがよい、学問的なことには役立たぬ考慮で彼らを束縛せぬがよい、そうすれば、上の要求を満たし得る教師はおのずから出来よるであろうし、また他をも教育することができるのである。

 学的創造力は、精神的自由の風土においてこそ育まれる。大学において、政治的圧力があったり、あまりに煩雑な雑務等に追い立てられるようでは、創造的な学的探究は困難を極めるだろう。

 それゆえ彼は、次のように言う。

「大学においては学問以外のものは認められではならぬ、そして才能と教養のつくり出す以外の差異は存在してはならぬ

 また次のようにも言う。


無能が寵を得ることさえなければ、才能は保護を必要としない。理念に対する能力はおのずから至高にして重要なはたらきを創り出す。
 これが、学問のための設備を隆盛にし、それにできるだけ内に向かっては、品位を、外に向かっては、偉容を与えるために、学問のためのあらゆる設備に関してなされる唯一の政策である。

 ただただ学的に有能な者をのみ、大学は取り立てるべきである。

 最後に、シェリングは次のように過激にいってのける。

学問の世界は民主政治ではない、いわんや賤民政治ではない。それは最も高貴な意味での貴族政治である。最もすぐれたものが支配すべきなのだ。」


3.学問各論

 以上を踏まえて、シェリングはそれぞれの学問についての基礎的考え方について述べていく。

 まず哲学だが、これは先述したように絶対的・普遍的なものを探究する学である。それゆえシェリングは次のようにいう。

哲学の効用について語るのは哲学の品位に関わるとわたしは思う。一般に哲学の効用について敢えて質問を発するような人間は、哲学の理念をまだ一度だってもち得なかったのは確かである。哲学はそれ自身の存在によって効用関係から自由だと断定されている。哲学はただそれ自身のためにのみ存する。他のために存するということは、直ちにその本質そのものを棄却してしまうだろう。

 哲学は普遍的・絶対的なものを探究する学であるがゆえに、「なんのために存在するか」は愚問である。それはそれ自身のために存在するのだ。

 哲学のほかに、シェリングは本書において、神学、歴史学、法学、自然科学、芸術学などについて述べているが、以下では自然科学と芸術学についての以下の言葉を紹介しておこう。

明らかに、経験的な観方は、物体性を超越することはできず、また物体性をそれ自体においてあるものとして考察する。ところが哲学的な観方はそれに反して物体性をただ実在的なものに(主観・客観化の作用によって)転化した観念的なものとしてとらえるのである。

 自然科学は、主観から独立した物質としての自然を扱う。しかしそれは、哲学的には不徹底な自然観である。というのも、自然はわれわれの主観から絶対的に独立したものではありえず、つねに、われわれの主観の作用を介在した観念的なものであるほかないからである。

 その意味でも、自然科学は哲学を基礎としなければならない。シェリングはそう主張する。

 芸術については、彼は次のようにいっている。


大学は美術学校ではない。いわんや、芸術学が実際的或は技術的な意図において大学で教授されとはなおさらできぬ。
 したがって、残るものは、芸術の経験的観照ではなく、その知的な観照の訓練に向けられる全く思弁的な意図のみである。」

 大学における芸術学は、けっして芸術の技術のことを意味しない。

 芸術哲学は、芸術における普遍的なものを観照することにある。「芸術哲学は、つまり絶対的な世界を芸術の形式において表示すること」なのである。

 以上のように、シェリングは、普遍的・絶対的なる世界を究明する哲学を基礎に、それぞれの個別学問が組織化されるべきであることを説いた。

 根本的な部分において、今日にはほとんど耐え得ない学問観だが、哲学こそ徹頭徹尾学問の基礎であれというメッセージについては、今なお受容すべきものがあるように私は思う。


(苫野一徳)

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