フッサール『間主観性の現象学 その方法』



はじめに

 フッサールの「他者」論と言えば、『デカルト的省察』の第5省察が有名だ。しかしそこで展開された彼の「他者」論は、フッサールの思考のごく一部でしかなかったと言われている。


 本書は、フッセリアーナ(フッサール全集)第13〜15巻として刊行された、彼の「他者」論にかんする草稿群、『間主観性の現象学』の待望の邦訳だ。


 草稿ということもあり(草稿でなくてもそうなのだが)、あいかわらずフッサールは、考えつくままに自らの思考を綴り続けるという、読み手にとっては実に不親切な書き方をしている。


 内容も、私には、他の諸著作からそれほど目立った発展があるわけではないように思われる。フッサール哲学の、天才的にして革命的な核心は、結局のところ、『イデーン』『デカルト的省察』『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』あたりに尽くされているだろうと私は思う。


 ともあれ、未完の草稿群である本書は、現象学の創始者フッサールを批判的に継承した、ハイデガーメルロー=ポンティレヴィナスサルトルらも読むことがなかったものという意味でも、貴重なものだ。


 他の諸著作とも重複する点が多いので、以下では、私にとって特に興味深く思われた点を中心に紹介していくことにしたい。




1.超越論的主観性


 現象学の思考の核心は、一切を超越論的主観性に還元する、現象学的(超越論的)還元にある。


 フッサールの他の著作についてのページで何度も書いてきたことなので、この点についての詳述は割愛するが、要するにポイントは、われわれはいわゆる客観世界の実在性をどこまでも疑うことはできるが、私が世界をこのように認識しているという、その認識作用それ自体は疑い得ない、それゆえ、一切をこの認識作用に還元して考えようという発想だ。


 フッサールは本書で、この点を次のように、珍しく分かりやすい言葉で言っている。


その事物が現にそこに存在するということについて私が思い違うことはありえても、私が知覚していること、知覚がまさに一つの空間的な周囲内の一つの事物についての知覚であること等々、それは疑いないことである。


 客観的実在は、可疑的であるがゆえに、哲学はこれを前提して考えてはならない。認識論の出発点は、疑い得ないわれわれのこの認識作用(超越論的主観性)にのみ置かれるべきなのである。



2.事物は意味の相において立ち現れる


 ではわれわれ(超越論的主観性)は、この世界をいかに認識しているのだろうか。


 『イデーン』において、フッサールはその構造を、われわれの知覚を中心にきわめて細かく論述しているが、本書において、彼が改めて次のように言っていることは興味深い。


「私は最初から事物はまさに特性等々を備えたある事物がその意味で存在しているその意味においてのみ存在することができるということを知っている。」

世界の内には、世界について語ることの意味を廃棄してしまうようなものは存在しえない、なぜなら、そうしたものはその意味をまさしく意味として前提してしまっているからである。」

 世界は、常に何らかの「意味」をもったものとしてわれわれに現れる。現象学を「実存論」的に展開したのはフッサールの弟子ハイデガーだが、フッサールにもまた、そのような感度が十分にあったのである。



3.現象学的還元の無動機性


 さて、フッサールは本書で次のような主張もしている。


「なぜ現象学は経験措定を遮断するのかということに関して、現象学にはいかなる動機をも押しつける必要はない。現象学であるかぎり、それはそうした動機を一切もたない。当該の現象学者がこうした動機をもっていることもあろうが、それは個人的な事柄である。現象学は経験的措定を遮断し、そのうえで残り続けているものに自身を限定する。すると唯一の問いは、そのうえで何が探究すべきものとして存在しているのか、一つの学問のための余地が残っているのかどうか、という問いである。」


 似たようなことは、『イデーン』などにおいても述べられている。


 しかし私は、これはかなり誤解を招く言い方ではないかと思う。


 なぜ現象学的還元を行うのか。そこに動機は一切ない。こう言ってしまうと、現象学的還元こそが、あらゆる動機を超絶した真理であるからだ、と誤解されてしまうおそれがある。


 先の引用においても、フッサール自身、厳密な学問知はいかに可能かと言っている。それゆえ実は現象学的還元には、そうした学知のための考え方を提示するという動機があるのだ。


 その、学知を徹底しうる原理的思考の提示を、フッサールは、個々別々の動機に左右されるのではない無動機性と言った。つまり、現象学の考えは、あのテーマやこのテーマには使える、といったものではなく、学問一般を根底から支える、普遍的な考えであると主張したのである。


 無動機性という言い方は、ずいぶん誤解を招きやすい言い方だ。後に、現象学が真理探究の形而上学であると批判されてしまった、一つの理由であっただろう。


 実際彼は、「動機」については次のようなことも言っている。


内在的存在とみなされたどのような自然な経験も多様な他の自然な経験や自然な経験の多様な実在的可能性を動機づける認識そして私たちはこの動機づけの連関――それは純粋意識の連関である――を解きほぐしこの連関に私たちのまなざしを向けることができるという認識が、途方もなく重要である。」


 われわれの認識の一切は、「動機づけ」の連関である。これを後にハイデガーは「気遣い」「関心」(Sorge)と呼んだが、要するにわれわれは、常に世界をわれわれ自身の何らかの動機・関心に相関して認識しているのだ。


 われわれの認識が、何らかの「動機」から独立することはあり得ない。その意味において、フッサールのいう現象学的還元の「無動機性」という言い方は、この「動機づけ」の問題をメタレベルで織り込んだ、徹底した原理的認識論という主張として受け取るべきであるだろう。



4.感情移入


 さて、ここでようやく、彼の「他者」論「間主観性」論を見ていくことにしよう。


 フッサールは言う。他者は、他のあらゆる知覚物とはまったく異なった現れ方をするものである。


 普通の知覚物は、単なる対象物として認識される。しかし他者は、一個の独立した精神をもった、一個の独立した世界をもった、自らと似た存在として認識される。


 このことを認識することを、フッサールは感情移入と呼ぶ。


「私たちは知覚ないしはその他の感性的表象において〔他者の〕身体を措定しており、それを意識の担い手として捉えている。私たちがそうしたことをなしうるのは、私たちがその担い手の存在をまったく心理物理的に理解するのではなく、むしろただ、『他の身体』の知覚として遂行される事物措定が、『感情移入』という記述するのが容易でない仕方で『他の自我−意識』の措定を動機づける、というようにしてである。」



 フッサールによれば、われわれが他者を認識するのは、まずその身体性においてである。われわれは他者の身体を見いだし、それがどうやら私と同じような精神性をもった存在であるらしいと確信する。もちろんわれわれは、そのような順番で認識するわけではなく、他者は一気に全体として現れるのだが。



「私が遂行するのはまさに『統覚』であり、外的現出をその帰属する内的現出へと解釈することであり、そこで身体性などの内的現出の他のシステムをともなう他なる経験的主観を、諸可能性のシステムとして措定しているのであり、それは私がある物(的身)体に『可能性のシステム』を統覚的に措定するのに類似している。」
しかしわたしはそのようなことを考えているのではない。」

 さて、しかし感情移入と言うからといって、それは、私という実体から他者という実体へと、実体的に感情が移っていくというわけでは決してない。


 それはあくまでも、超越論的主観性において、すなわち私の内的な確信として、他者が確信されるということだ。


「私は徹頭徹尾私の領野に留まっているのだが、しかしこの領野は感情移入によって多数の閉じた意識流(自我意識と呼ばれる)の領分にまで拡大され、これら意識流は感情移入の動機づけ連関を介して『私の』意識流と結びつけられ、また互いの間でも結総合されているか、あるいは結合されることができる。


 間主観性について考える時も、このことが極めて重要だ。それは、異なる主観の間に作り出された共同確信ではなく、より正確に言うならば、異なる主観の間に共同確信が成り立っているという、「私」の確信なのである。



5.モナドは窓をもつ


 以上のように、他者へと開かれ共同確信(間主観性)を自らのうちに成立させる「私」は、フッサールにとっては、独我論的自我ではなく、原理的に他者への通路をもったものとして考えられている。


 このことを、フッサールは「モナドは窓をもつ」と表現する。


ライブニッツはモナドは窓をもたないといった。しかし私はどの心のモナドも無限に多くの窓をもっと考える。」

私のものである私の意識としてもたれるものや、わたしの内在的与件や体験も、そのどれもが他者のものではありえないことである。しかしこの意識としてもつことこそ、それを通じて私が他者へ接近し、私の動機づけによって他者に到達しうるような窓なのである。


(苫野一徳)


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