ヴィーコ『学問の方法』


はじめに
ファイル:Giambattista Vico.jpg ナポリの小さな古本屋の子として生まれたヴィーコ。

 知的に早熟すぎたのと、7歳の時に階段から転落して頭蓋骨を損傷したこともあって、学校にはなじめず、ほとんど自学自習で学を積み上げた。

 18歳から家庭教師生活を送り、31歳で王立ナポリ大学の修辞学(雄弁術)教授に就任。

 本書(原題『われらの時代の学問方法について』)は、1708年に行われたこのナポリ大学での講演がもとになっている。

 当時の学問の主流方法であったクリティカに対し、トピカの重要性を説いたものとして有名だ。より正確に言うと、ヴィーコはこれら2つの補完関係を強く訴えた。

 クリティカとは、デカルトに端を発するいわば徹底した論理思考で、真理を演繹的に捉えようとする。真理は数式で表せるのだ、という、数学的思考法と言っていいかもしれない。

 他方のトピカは、今ここのトポス(場所)における、共通感覚や生活感覚にもとづいた知恵のことである。われわれの認識は、真理を数学的に捉えるより前に、この生活感覚的知恵によっている。

 したがってヴィーコは言う。学問は今のようなクリティカ中心主義を脱するべきである。そして教育は、まずもってトピカを重視し、そこからクリティカへと展開する必要がある。

 フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』に170年先駆ける、「生活世界」重視の学問論であるといえるかもしれない。


1.古代と現代、どちらが学問の方法的にすぐれているか?

 まずヴィーコはこのように問い、次のように言う。

「あなたがたは、あらゆることがらについて、容易さであれ、有用性であれ、崇高きであれ、それらを観察してみるなら、われわれの学問方法のほうが、どんな疑いをも超えて古代のものより、より正しく、より良いと思うことであろう。」

 医学における化学の知識、印刷術、また大学の存在など、どれをとっても現代の方が古代に勝る。ヴィーコはそのように言う。当たり前のように思えるが、古代を理想化しがちな当時からしてみれば、重要な指摘であったのかもしれない。



2.クリティカ中心主義批判


「今日においてはクリティカのみがもてはやされている。トピカは先に置かれるどころではなく、まったく無視されている。」


 先述したように、ヴィーコはデカルト主義の主方法であるクリティカ中心主義を批判する。

 クリティカとは何か。そしてヴィーコが重視するトピカとは何か。ヴィーコは言う。

「クリティカは真理について述べる弁論の技法であるが、他方トピカは言葉豊かに述べる弁論の技法なのである。

 これらはどちらも重要な方法であり、どちらか一方だけでは学は成立しない。ヴィーコは言う。

どちらの論述の方法も欠点を持つ。トピカ主義者はしばしば虚偽を捕らえてしまうし、クリティカ主義者は真らしいものを取り上げようとはしないからである。したがって、どちらの欠点もが回避されるように、青年たちは全体的な判断によってあらゆる学芸を教えられるべきである、と私は思う。それゆえ、彼らはトピカのトポスを豊富にし、そしてその間に賢慮と雄弁のための共通感覚を増大させ、想像力とか記憶力を鍛えて、これらの知性の能力によって支えられている諸技芸のために準備すべきである。次いでクリティカを学ぶべきである。


3.幾何学的方法では自然は汲み尽せない

 次の主張もまたとても重要だ。

 ヴィーコは言う。われわれは今や、自然を幾何学的に説明し尽くせるものと考えている。しかしそれは大きな間違いだ。なぜなら、幾何学的方法とはわれわれが作り出したものにすぎないからである。

幾何学的方法の力によって真理として引き出された自然学のことがらは単に真らしいだけのことであり、また幾何学から強かに方法は得ているにしても、証明を得ているわけではないのである。われわれが幾何学的ことがらを証明するのは、われわれが〔それらを〕作っているからである。もしかりに、われわれが自然学的ことがらを証明できるとしたら、われわれは〔それらを〕作っていることになってしまうであろう。」

 私なりに言うと、次のようになる。

 おそらく、私たちの時間・空間認識のあり方と、犬のそれとは異なっている。魚や虫などとも、大きく異なっているはずだ。

 ということは、われわれの時間・空間認識が、絶対に正しい認識であるとは決して言えない。

 つまり、もしもわれわれが、われわれがもっているような時間・空間認識を持っていなかったとすれば、今あるような幾何学的認識もまた成立していなかったはずなのである。

 ヴィーコが幾何学とはわれわれが作り出したものであるという時、そのような含意があったのではないかと私は思う。

 それゆえ、この幾何学的方法によって自然の真理を汲み尽くすことは不可能である。ヴィーコは言う。

「発見しえないところでは、この真理への欲求そのものを、至善至高の神、唯一の道であり真理である神に向けよう。


4.哲学と雄弁とを融合せよ

 さて、以上のようにヴィーコは、一言でいえば、学問をがちがちの真理探究のものとせず、いわば「人間的」なものと融合させよと説いた。というより、それはむしろ「人間的」なものたらざるを得ないのだ。(もっともヴィーコは、「人間的」などという言葉を使用しないが。)

「一般的真理からまっすぐにもろもろの個別的真理に降りてゆこうとする、学識はあるが賢慮を欠いている者たちは、実生活の曲がりくねった道を何が何でもまっすぐに突き進んでゆこうとして、道そのものを打ち壊してしまう。」

 これこそが「真理」である、などと愚直に強弁する人は、実生活を味わえない人である。そもそもほとんどの人は、「真理」などというものに興味を持たないものなのだ。

「人間は大部分が愚か者であって、熟慮したうえで行為するようなことはなく、ただ欲望のおもむくままに、あるいはまた運にまかせて行動しているのである。また、彼らはものごとを、それらはそうあってしかるべきであったのだと判断するが、ものごとはたいがい無鉄砲に行われているものなのである。」

 したがって重要なことは、真理を強弁することではなく、真理と正義を、人々に理解させるための技である。

「真理にそれが人々にも真理と見えるよう心を配り、正義に誰もがそれを承認するようなかたちで従って欲しいと言っているのである。

 それは、哲学雄弁術とを融合させることである。ヴィーコは言う。

そのすべてがあたかも一つの泉から湧き出るようにして欲望から生てくる人間の内なる悪である心の動揺は、ただ二つのことのみがそれらを善用する方向へと指し向けてゆくことができる。すなわち、一つは哲学であって、このほうは知恵ある者たちにおいて彼らの心の動揺を適度に抑えることによって、そこから徳が出てくるようにおもんばかるのであり、またいま一つは雄弁であって、このほうは民衆のうちに彼らの心の動揺をむしろ燃え上がらせることによって彼らを徳の義務を果たすようしむけてゆくのである。


(苫野一徳)

Copyright(C) 2012 TOMANO Ittoku  All rights reserved.