スピノザ『国家論』



はじめに


 17世紀オランダの哲学者、スピノザの政治論。


 主著『エチカ』において描かれた人間本性論を基軸に、国家はいかにあるべきかを考察したが、著者死去のため未完に終わった。

 鮮やかな人間洞察に支えられた彼の国家論には、大変興味深いものがある。前世代の偉大な政治哲学者、ホッブズとの相違も興味深い。


1.人間本性から国家を考える

 ホッブズと同様、スピノザもまた、国家を考えるにあたって、そもそも人間とはどのような本質をもった存在であり、それゆえどのような統治形態をめざすことがふさわしいかと問いを立てる。冒頭において、彼は言う。

「人間は必然的に諸感情に従属する。また人間の性情は、不幸な者を憐れみ、幸福な者をねたむようにできており、同情よりは復讐に傾くようになっている。さらに各人は、他の人々が彼の意向に従って生活し、彼の是認するものを是認し、彼の排斥するものを排斥することを欲求する。この結果、すべての人々はひとしく上に立とうと欲するがゆえに、みな争いにまきこまれ、できる限り仲間を圧倒しようとつとめ、こうして勝利者となる者は、自分を益したことよりは他人を害したことを誇るに至る。

 人間は、強い憐れみ妬みの感情を持ち、また、他者に対する優越願望に突き動かされる存在である。そうスピノザは言うわけだ。

 彼はまた次のように言う。

「理性はなるほど感情を制御し、調節することはできる。しかし我々は同時に、理性そのものの教える道が実に峻険なものであることを見た。だから、民衆なり、国務に忙殺される人々なりが、もっぱら理性の掟だけに従って生活するように導かれうると信ずる者は、詩人たちの歌った黄金時代もしくは空想物語を夢みているのである。

 どれだけ理性的になろうとしても、人は結局感情的に生きざるを得ない生き物である。国家を考えるにあたっても、私たちはまずそのことをしっかりと把握しておく必要がある。

 それゆえスピノザは言う。国家は単なる精神論で統治されるべきものではない。私たちが考えるべきは、システムなのである、と。

「国家が永続しうるためには、国事を司る者が、理性に導かれると感情に導かれるとを問わず、決して、背信的であったり邪悪な行動をしたりすることができないようなふうに国事が整えられていなくてはならない。その上国家の安全にとっては、いかなる精神によって人間が正しい政治へ導かれるかということはたいして問題ではない。要はただ正しい政治が行なわれさえすればよいのである。」


2.自由の実現

 国家は何のために存在するか。ホッブズにとってもスピノザにとっても、それは平和安全のためである。

 しかしスピノザは、後のルソーヘーゲルにおいて深められる、「自由」についての論もまた展開している。

 国家は、単に平和と安全のためにのみ存在するのではない。それは人々の「自由」のために存するのだ。そして言う。

「私は、理性に導かれる限りにおいての人間をおよそ自由であると名づける。」

 自らの欲望のままに生きる人間は、結局のところ実は自由ではあり得ない。私たちは、自らの自然な欲望を理性によってコントロールし、より高次の人間的欲望を叶えるとき、本来的な「自由」をつかみとることができるのだ。


3.自然状態と自然権

 ホッブズと同様、スピノザもまた、自然状態自然権について述べている。

 ホッブズのいう「自然状態」とは、「万人の万人に対する闘争」状態のことだ。人は、ほうっておいたら必ず、自らの命を守るため他者と争い合ってしまう。

 自然状態において、各人はこの他者を殺す権利「自然権」をもっている。黙って殺されるわけにはいかないからだ。

 しかし人々が平和に共存したいのであれば、この他者を殺す権利「自然権」を、私たちは何らかの形で放棄しなければならない。

 そこでホッブズは、平和のためには、「自然権」を皆で合意した統治者に委譲し、統治してもらうことで平和を得ようと考えた。これがホッブズ政治思想のポイントだ。

 一方のスピノザは、自然状態も自然権も、ホッブズとはやや異なった角度からみているようである。

 それは単なる「万人の万人に対する闘争」の状態であるだけでなく、「相互援助」の状態でもある。そして自然権は、この相互援助を可能にする力のこともまた含意されている。

「人間というものは相互の援助なしには、生活を支え精神を涵養することがほとんどできないということがある。以上から我々はこう結論する。人類に固有なものとしての自然権は、人間が共同の権利を持ち、住みかつ耕しうる土地をともどもに確保し、自己を守り、あらゆる暴力を排除し、そしてすべての人々の共同の意志に従って生活しうる場合においてのみ考えられるのである、と。」

 この意味では、スピノザにとっての「自然権」は、単に相手を殺す権利であるとして放棄すべきものではなく、相互援助を可能にするものとして、国家形成後も根底に持ち続けておくべき各人の権利であるということになる。


4.君主政治、貴族政治、民主政治

 以下、スピノザは、上述した平和・安全・自由のために私たちにはいかなる政体が必要かと問い、君主政治貴族政治民主政治のそれぞれを検討していく。

 といっても、どれが最もよい政体かといった観点からの考察ではないようで、平和・安全・自由を確保するために、それぞれの政体がどのようにあることが望ましいかを問うている。

 君主政治については、彼はこう結論づける。

「我々はこうして次のように結論する。王の力がもっぱら民衆自身の力によって決定され、民衆自身の守護によって保持されるようにさえすれば、民衆は王のもとにおいて十分の自由を保持しうる、と。そしてこれこそ私が君主国家の諸基礎を建てるに際して従ってきた唯一の規則である。」

 民衆を十分保護できる君主政治は、上記目的を達成しうる政体である。

 貴族主義についても、貴族と民衆の割合は経験的にいって1対50にすればいいとか、元老院と護法官を設置すればよいとか、民衆を従わせるのは恐怖によってではなく自由意志によってでなければならないとかいったことが述べられる。

 そして民主政治だが、スピノザはこれを、貴族政治が一部の「有能」な者による政治であるのに対し、「すべての者が官職に就く資格」をもった政体であると定義する。そして彼は、これを「完全な絶対統治」と呼ぶ。(ただし本書だけからは、これを極めて肯定的な意味でいっているのかどうかはいまいち分からない。)

 ただし、この資格は、外国人、女性、子ども、犯罪者には与えられないとスピノザは言う。

 特に女性に対しての言い方は、現代からするとかなりひどい。女性が被支配的であることは、自然なことである、とスピノザは言うのだ。

「どこでも男と女とがともども支配しているところはないのであり、男と女が住んでいる地上のいたるところにおいて、男は支配し女は支配され、しかもこうやって両性が和合的に生活しているのを我々は見ている」

 そして、もし男女が共に政治をやったとしたら、大きな問題が起こるだろうとも彼は言う。

なおまた我々が、人間の諸感情を眼中に置くならば――すなわち男はおおむね官能的感情によってのみ女を愛すること、男は女の才能と知恵とを、女が美においてすぐれている限りにおいてのみ高く評価すること、また男はその愛する女が他の者に何らかの好意を示すことを最も厭うこと、その他こうした種類のことどもを眼中に置くならば、男と女が等しく支配することは平和をひどく損なうことなしには不可能であることを我々は容易に知りうるであろう。

 男は嫉妬深いから、その嫉妬をかき立てる女といっしょに政治をやるのはとても無理な話だ、というわけだ。ここは、ほんの少しだけ、おもしろい。

 残念ながら、これ以降の民主主義にかんする考察は、スピノザ死去のため書かれることがなかった。最も重要なところで、未完に終わってしまったと言うべきだろう。


(苫野一徳)



Copyright(C) 2012 TOMANO Ittoku  All rights reserved.