ブーバー『我と汝』


はじめに


 ユダヤ系の宗教哲学者、ブーバー。本書は、1923年の刊行以来、一般にも多くの読者を獲得し続けている。

 人間は2つの関係世界を生きている。1つは〈われ−なんじ〉、もう1つは、〈われ−それ〉である。

 あまりに有名なこの言葉、その内実について、以下じっくり見ていくことにしよう。

 
1.根源語〈われ−なんじ〉と〈われ−それ〉

人間の態度は人間が語る根源語の重性にもとづいて、つとなる根源語とは、単独語ではなく、対応語である

 根源語の一は、われ−なんじの対応語である
 他の根源語はわれそれの対応語である。」


 私たちは、「われ」という単独語の世界を生きているのではない。私たちが生きているのは、徹頭徹尾関係性の世界であり、そしてその関係性は、根本的に2つの形態をとる。

 1つが〈われ−なんじ〉という関係性。もう1つが、〈われ−それ〉という関係性である。

 〈われ−それ〉の関係とは、相手を対象化する関係性のことだ。それは根本的には、相手を利用しようとする態度である。

 他方〈われ−なんじ〉の関係性は、相手を単に経験的に知り利用しようとするものではなく、さしあたっては相手の全体受容するものだ。

 それゆえ、愛の基礎はここにある。

「愛は〈われとなんじ〉の〈間〉にある。」


2.原初関係は〈われ−なんじ〉

 さて、このように私たちは2つの関係性を生きているのだが、ブーバーによれば、どちらがより原初的かといえば、それは〈われ−なんじ〉の関係性であると言う。

 それは、たとえば未開人の生を見れば明らかである。

「原初的な関係の出来事において、まだ自己を〈われ〉として認める以前に、前形体的在り方ではあるが、彼らはすでに根源語〈われ−なんじ〉をきわめて自然に語っている。これに反して、根源語〈われ−それ〉はおそらく自己を〈われ〉と認識して、すなわち、〈われ〉の分離によって、はじめて可能となる。

 未開人は、〈われ〉を〈われ〉として、自然から分離させて認識しない。彼らの生において、〈われ〉は常に自然との〈われ−なんじ〉の関係にある。

 あるいは幼児を見ても、それは明らかである。

 まず、母親との肉体的合一がある。そしてやがて徐々に、そこから〈われ〉が分離され形成されていくのである。

はじめに関係がある。〔中略〕関係のアプリオリとは〈生まれながらのなんじ〉である。

 もちろん、私たちは〈われ−それ〉の関係を日々生きている。しかしブーバーは言う。

人間は〈それ〉なくしては生きることはできない。しかし、〈それ〉のみで生きるものは、真の人間ではない。

 〈われ−なんじ〉の関係を生きてこそ、私たちは真に人間的である。そうブーバーは主張する。


3.〈われ−なんじ〉の背後に神をみる

「すべて個々の〈なんじ〉との関係は、その背後にある神との完全な関係をかいま見る場である。

 ブーバーによれば、この〈われ−なんじ〉の関係は、究極的には人間と神の関係性である。

「本質を同じくする神と人間は、つねに真の一対であり、根源関係の二つの担い手である。この関係が神から人間へ向かうとき、使命や命令となり、人間から神へ向かうとき、直観や傾聴となり、両者の間にあっては、認識と愛と呼ばれる。」

 それは、単なる神人合一といったものではなく、どこまでも〈われ〉と〈なんじ〉とが分離されながらも同一であるという、そして、それゆえに命令関係、責任関係、愛の関係が結ばれうる、そうした関係性である。

 それゆえブーバーからすれば、ウパニシャッド哲学にみる「梵我一如」の思想など、いわばナイーヴにすぎる思想にすぎない。個人原理であるアートマンと、宇宙原理であるブラフマン、いわば〈われ〉と〈なんじ〉とが、実は合一したものであるなどという思想は、〈われ〉と〈なんじ〉との間の重要な尊重関係を、ないがしろにしてしまうのだ。

生きた現実には、存在の一如などはあり得ない。現実は存在の働きの力と深さの中にのみ成り立つ。

 あるいは、本来主客未分である世界を知り、未分のままにあることで悟りの境地へ至ろうと説いた仏陀の教えもまた、ブーバーからすれば納得のいくものではない。

仏陀は、一如を得たものに開かれるあの最高の〈なんじ〉に語りかけることを、さらに一歩すすめて導こうとはしなかった。仏陀のもっとも内面にあった決意は、〈なんじ〉を語る能力すら放棄することにあったようにも見られる。

 ブーバーは、〈われ〉において〈なんじ〉を尊重し対話し受容するという、〈われ〉の側の一種の責任を強調するのだ。


4.相互性、意味の実現、此岸における成就

 こうした〈われ−なんじ〉の関係の特質は、いったいどのようなものであるか。ブーバーはここに、相互性意味の実現此岸性という3つのキーワードを挙げる

「まず第一に、〈われなんじ〉には真の相互性があるということ、受け入れられていること、結合の全体的な充実感があるということなのである。」

第二に、言葉ではいいあらわしがたい意味の実現という特質である。意味は保証される。もはやなにものも無意味なものはあり得なくなる。人生の意味がなんであるか、もはや問う必要はなくなる。

第三には、この世界とは別な来世の生活ではなくこの現実のわれわれの生活に意味があるということ、彼岸の世界〉ではなく、此岸の世界に意味があることこの世界の生活の意味が確証されることを望んでいるという特質である。

 〈われ−なんじ〉とは、真に相互的な関係であり、そこにおいて生きる「意味」を確信させてくれるものであり、しかもそれが、「あちら側」(彼岸)ではなく「こちら側」(此岸)において確証される、そのような関係性なのである。


5.「あとがき」における微修正

 さて、以上人間の根源的関係であるべき〈われ−なんじ〉の構造を明らかにしてきたブーバーだが、本書刊行から約30年後の1957年、「あとがき」を著し本書の内容に微修正を加えている。

 テーマは、〈われ−なんじ〉関係における「相互性」についてである。

 〈われ−なんじ〉はいわば絶対的な相互性にあると語ったブーバーだが、よくよく考えてみると、対等な相互関係にはないものもある。そうブーバーは主張する。

 まずは教育関係がそうである。

 教師−生徒関係も、本来〈われ−なんじ〉関係であるべきだが、それは完全に対等な相互性とは言えないものだ。

「もし生徒の側から包括がおこなわれ、共通の状況にたいする教師の役割を体験するならば、特別な教育的な関係は成り立たなくなる。」

 「教育」というからには、そこにある関係は絶対的に対等な相互性とは言えないだろう。そうブーバーは言うわけだ。

 そして、神と人間との関係もまた、正確には相互性というわけにはいかない。それはいわば「呼びかけ」である。

「神と人間の間の相互性は、神の存在証明ができないのと同じように、証明できない。それにもかかわらず、あえてこれについて語ろうとするひとは、現在の証言であれ、未来の証言であれ、証言しているのであり、彼が語りかける人々にも証言をするように呼びかけているのである。」


苫野一徳)


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