竹田青嗣『恋愛論』


はじめに

 恋愛とは何か。そして、それが私たちの生にとって持つ意味は何か。

 竹田はこの問いに、見事な哲学的洞察を与える。

 恋愛、それは、自らが育んできたロマン的世界憧れが、まるでこちら側に顕現したように思った時に訪れる感情である。

 この恋愛感情が、私たちの生にもたらす意味はいったい何か。

 深い洞察の言葉の数々が繰り広げられている。 


1.結晶作用

 恋愛においてまず私たちに訪れるもの、それは、スタンダールの言う「結晶作用」にほかならない。

「当の相手のしぐさ、身振り、表情、スタイル、言葉、それらのことごとくが美的な感嘆とともに見出されること。恋愛の結晶作用は、まずこの美的な結晶作用からはじまる。」

 これはいったい、なぜ起こるのだろうか。

 竹田は、まずこの結晶作用の本質契機を明らかにする。結晶作用とは、いったいどのような作用であり、われわれに何を告げ知らせるものであるのだろうか。

 1つめの本質契機を、竹田は次のように言う。


「人間の欲望の視線に射られて、ある対象が、単なる事物から固有の意味をもった取り換えのきかない『このもの』として現われること。それはまた、結晶作用を説明するまず第一の事態でもある。」


 恋する人は、私にとって、ある「取り換えられない」存在として現れる。この「取り換えがたさ」が、結晶作用の1つめの本質である。

 竹田は続ける。

「第二の事態は、ある対象が『憧れ』の的となることが結晶作用にとっては欠かせない、ということである。


第三の事態。それは、そこに『可能性』があることだ。」


 取りかえがたさ憧れ、そして可能性。竹田によれば、これが結晶作用の本質契機である。


2.承認欲望

 続いて竹田は、このような結晶作用としての恋愛が、私たちの生にとってもつ「意味」を明らかにする。

 まず竹田は次のように言う。私たちはたえず、他者からの承認を求める存在である。そして私たちは普段、社会的関係の中で、自らの何らかの価値を通して、他者からの承認を得ようとする。

 しかし恋愛関係において、私たちは、そうした社会的関係における承認とはまったく違った、ある特別な承認の可能性を手にすることになる。

「恋愛において人は、自分の存在の意味が、社会的な関係におけるのとはまったく違った仕方で、絶対的に満たされるかもしれないという予感に満たされる。恋愛の結晶作用は、この異例の可能性への予感を伴っているのだ。」

 それはいったい、どのような可能性であるのだろうか。


3.恋人の「美」

 その可能性は、恋人の「美」という、独特の通路を通って私たちに訪れる。竹田はそのように言う。

 つまりこういうことだ。

「恋人の美を『自分だけのもの』とし、それを深く味わう可能性。さしあたって言えばこのことが、恋人への欲望が、社会的な関係とは『まったく違った仕方で』自分の存在意味を満たすという可能性であることの、具体的な内実にほかならない。

 そして恋人の「美」とは、私たちが子どもの頃から無意識に育みつづけた、自らのロマン的憧れにほかならない。それゆえ、恋人を『わがもの』としうる可能性は、“憧れ”と一致すること、つまり生への憧れそれ自体を実現することである。

 私たちは日常生活において、これは美しい、あれは美しい、と思いながら生きている。しかし私たちは恋愛においてはじめて、これこそが「美」であったのかと本当の意味で知る。恋愛の欲望においては美はいわばその原型性を現わすのである。

 それはまるで、恋愛においてはじめて「美」の何たるかを知るような経験である。

「人は、『恋人の美しさ』というものに触れたとき、『美しい』ということの真の意味をはじめて知ったように感じる。言い換えればそれは、それまでに自分が知っていた『美しいもの』、『素晴らしいもの』が、『美』の単なる“仮象”にすぎなかったことに気づくような体験として現われる。

 恋愛が私たちに開く可能性は、この「美」を私が「わがもの」としうるかもしれないという可能性である。そしてそれは、社会的承認のよろこびなどとは次元の異なった、いわば自らの憧れの世界との一致の可能性に対するよろこびなのである。


4.自己のロマン化

 では、なぜわれわれは、ほかならぬ「この恋人」の「美」に憧れ、これを「わがもの」としたいと思うのだろうか。

 竹田によれば、その秘密は「自己のロマン化」にある。つまり恋人の美とは、実は自らのそれまでの人生を通して蓄積された、幻想的・ロマン的な対象なのだ。

 「自己のロマン化」は、特に幼少期における、自己中心性の挫折を大きな契機として起こる。

ロマン的世界は子供の自己中心性の『挫折』を根本動因としている。両親、周りの大人たち、遊び仲間、といった現実世界の他者たちは、子供の自己中心性にとって絶えざる『挫折』をもたらす源泉である。子供は『挫折』にぶつかり、自己中心性を生き延びさせようとしてロマン的世界を作り上げ、そこに逃げ込む。それは、あくまでナルシシズムから出たひとつの現実逃避にほかならない。」

 赤ちゃんは、全能感を備えた自己中心的な存在である。泣けばお母さんがおっぱいをくれる。どこへ行っても、「可愛いね」と話題の中心になる。

 しかし成長するにつれ、そうした自己中心性は満たされなくなっていく。泣けば叱られ、我慢を強要され、弟や妹が生まれたら、世界の中心が否応なく自分から離れていってしまうことに気がつきもする。

 そこで子どもは、自らのロマン的世界を築き上げるのだ。

 そしてこのことは、私たちが「生きる」上できわめて重要な意味を持っている。竹田は言う。

「この“自分自身の中にロマン性を確保すること”は、人間の生の欲望にとって必要不可欠のプロセスである。なぜなら、このことで人は、ある目標を立ててそれに“憧れ”つつ、同時にそういう自己の像に“憧れて”生きることができるからだ。この“憧れつつ生きること”は人間が生を味わう力の根源にほかならない。人間がまったく何ものにも憧れないなら、生はただ、生存を維持するための必要に還元されるだろう。

 自らのロマン的世界を築き上げるということ、それは、「憧れ」をもって生きるということである。そしてこの「憧れ」をもって生きることこそ、人間が自らの生を味わう力の根源にほかならないのだ。

 そして恋愛感情とは、この「憧れ」が、ロマン的な「あちら側」にではなく、現実の「こちら側」に現れたことを知った時に抱く感情である。

 恋人とは、まさにこのロマン的「憧れ」の化身なのである。

「こうして、“恋人”の出現とともに『世界』はひとつの独自な『可能性』として現われる。『ロマン的世界を現実のものとして生きうる』という可能性。」


5.恋愛のエロティシズム

 さて、このような恋愛において、私たちは、プラトニズムエロティシズムとが、奇妙に融合していることに気づくことになる。

 プラトニズムとは、俗なるものを否認し、ただただ恋人との天上的な関係だけを求める感情である。 

「プラトニズムは、地上的なもの(俗なるもの)を否認し、人間の関係を否認し、幸福や快楽を否認し、ひいてはこの世の生それ自体を否認することで天上的な超越性だけをめがけるような道を進む。」

 対してエロティシズムとは、快楽の超越性を求める欲望である。

「それは、日常生活やそのうちのおよそ人間的なものに“唾を吐く”ことで、快楽それ自体の超越性をつかもうとするような逆説的な欲望なのである。」

 恋愛においては、この二つが奇妙に融合する。それはいったい、どういうことだろうか。

 まずエロティシズムの本質から考えていくことにしよう。

 バタイユが言うように、エロティシズムの本質は「禁止の侵犯」にある。(バタイユ『エロティシズム』のページ参照)

 禁止されているものを犯すこと、穢すこと、ここに、エロティシズムがエロティシズムたるゆえんがある。

 このようなエロティシズムのあり方を、竹田は「ロマン的幻想の自己消費」と呼ぶ。つまりそれは、他人の肉体を利用して自己のロマン的幻想を消費するような『自己中心性』である。」

 ここには関係への配慮などない。それはどこまでも、自らのロマン的幻想を、ただ自らのうちにおいて享受することなのである。

「『愛することなく欲望の対象とすること』また『愛されることなく欲望の対象となること』。エロティックな欲望はそういう場所で成立する。そして、人はそこで自分の内部のロマン的幻想をただ『消費』するのである。

 ところが恋愛におけるエロティシズムは、こうした一般的なエロティシズムとは異なった本質を持っている。と言うのも、恋愛の欲望の目標は、相手の『魂』を“わがもの”とすること、でなければならないからだ。

 恋愛におけるエロティシズムは、この相手の「魂」へと向けられる。そしてそれは、相手の最も大切なものを「わがもの」とすることで達成される。

「相手の心をわがものにしたいという恋愛の欲望にとって、最大の目標となるのは、相手にとって最も大事なものを“わがものとすることである。最も大事なものとは何か、それは最も深く隠されているもの、『禁止されているもの』である。そしてそれが、恋人の『肉体』にほかならない。この『最も深く隠されたもの』は最後のものである。

 一般的なエロティシズムは、ただ相手の肉体を利用することで、自らの欲望を達成しようとする。

 ところが恋愛のエロティシズムにおいては、そうした自己中心性が不思議な仕方で脱臼させられる」

 「情熱恋愛においては、エロティシズムの目標がプラトニズムの目標と一致する」のである。

 情熱的な恋愛におけるプラトニズムにおいて、私たちは、恋人の「美」に憧れ、いわばこの世ならぬ世界に触れた気がする。そして恋愛におけるエロティシズムは、一般的なエロティシズムが美を穢すものであるのに対し、その憧れに一致できるという喜び、恋人の美を「わがもの」とできる喜びを意味している。

 こうして、恋愛においては、プラトニズムとエロティシズムが、不思議に融合することができるのである。


(苫野一徳)



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