デューイ『新しい個人主義の創造』


はじめに

 原文タイトルは、Individualism, Old and New。『新旧個人主義』などとも訳される。デューイ1930年の作品である。

 邦訳は残念ながら現在絶版中だが、本ブログではひとまず研究社の『アメリカ古典文庫13 ジョン・デューイ』(明石紀雄訳)から引用することにした。(現在新しい翻訳プロジェクトが進行中で、私もかかわらせていただいている。)


 デューイは言う。かつて個人主義といえば、社会からある意味孤絶し、自ら自らの世界を切り開く、独立独歩の精神を意味していた。


 ところがそのような個人主義の精神は、今や利己的金儲け主義へと堕している。それゆえ多くの人々は、かつての個人主義を思い出せと主張するのだが、デューイは、いや、それはかえって問題を深刻化させてしまうだけであると言う。そして続ける。むしろ、まさに今、この古い個人主義こそが大きな問題であるのだと。


 人々を「規格化」し「非人格化」してしまうような経済社会においては、関係性から孤絶した個人主義は、人々をして、ますます自らの存在意義や生の充実の実感から遠ざけてしまうからである。


 それゆえデューイは主張する。この産業社会は、すべての人が相互にかかわり合った社会である。それゆえ新しい個人主義も、この関係性の中において、つまり人々相互のコミュニケーションの中において、見出されるべきである、と。


 人と人とのかかわり合いの中において、自らの「個性」を実感できるということ。デューイはそのような社会や個人を志向した。


 これは、ある意味においては、この28年後に出版されたハンナ・アーレントの主著『人間の条件』に先駆けるような洞察であったと言えるかもしれない。「個人」をどう捉えるかという点において、デューイは当時においては抜きん出た考察をしていたと言っていいだろう。


 しかし、本書が結局は問題提起で終わってしまっているのもまた、残念ながら事実である。もっともデューイ自身、本書は単なる社会分析であると断ってはいるのだが。


 ただ、デューイについての他のページでも書いたように、デューイはいつも、最後の最後で、問題を徹底的に深めることを怠ってしまうように私は思う。


 気になる思想家であるからこそ、あえて余計に低い評価を、いつもしてしまっているところはあると思うが……。



1.古い個人主義


 古い個人主義とは何か。デューイは言う。


「アメリカ的伝統において達成されるであろうと予期された個人主義の理想〔個性の発達〕は、貨幣文化の慣習に同化すべきであるというよう今では曲解されている。それはむしろ、不平等と抑圧を生む原因となりそうすることの正当化の理由にもなったのである。


 個人主義とは、自ら自らの世界を切り開く、独立独歩の精神のことであると考えられてきた。ところがデューイは言う、現代において、それは単なる金儲け主義へと堕してしまっているのだと。


 そこにおいて、人々は、経済的合理主義の名の下に次々と「規格化」され「非人格化」されている。


 そこでデューイは言う。このような時代にあって、古い個人主義を再び持ち出すのはナンセンスであるばかりか有害である、と。それは、今日の金儲け主義を助長し、(マルクス流に言うならば、)人々をますます自己疎外へと追いやってしまうだろうからだ。


 重要なことは、独立独歩の個人主義のノスタルジーに耽ることではなく、現代社会に見合った形で、再び「個」が十全に「個」たりうる道を見出すことである。デューイは言う。


「われわれの時代はすでに集産的時代に入っていることを認識する必要があるであろう。この点が理解されるならば、アメリカ的個人主義の顕著道徳的要素――平等と自由が外面的に政策的に表現されるだけでなく、共有される文化の発展に個人的に参加することによって現わされる――を確認し体現するために、いかに集合的文明の現実を利用すべきであるかが、問題の本であることが判明するであろう。


 現代の産業社会においては、あらゆる人々が互いにつながり合っている。新しい個人主義は、そうした相互コミュニケーション社会という現状を踏まえた上で、模索されるべきである。そうデューイは言うのである。



2.新しい個人主義


 現代において、「個人」としての人々を悩ませている大きな問題は何か。デューイは言う。


「アメリカ人の生活の著しい特徴である不安と焦りといらだたしさと性急さは誰もが自分こそ社会の全体の構成員を支えておりかつ支えられている一員であるという事実心の支えと満足を見出しえない状況のなかで、必然的に起こる現象である。」


 あらゆる人が相互に結ばれ合った時代であるにもかかわらず、人々は、その中で自らの存在意義を確信できず、ただ経済社会のコマであるにすぎないような感覚に襲われている。


「『個性の喪失』の悲劇の原因は、個人は膨大で複雑な組織に組みこまれているにもかかわらず、そのことが想像的・情緒的な人生についての考え方にどのような意味があるかということが、つりあいがとれて、また一貫して追究されていないというところにある。」


 それゆえ人々は、自らの存在理由を確信しようと、何らかの大きな物語へと救いを求めてしがいがちである。今日のナショナリズムや、画一性への志向などがそうである。そうデューイは主張する。


「思想と感情の人為的に作りだされた一致は、内面的空虚さのしるしである。今日ある画一性は、すべて意識的に作だされたもの、つまり意図的な操作の結果ではない。しかしそれらは、外的ではあるが偶然かつ不安定な原因から生じたものなのではある。


 しかしわれわれはもはや、近代以前のような何らかの絶対的価値に頼ることはできなくなった。変化こそが、現代社会の特徴であるからだ。


 それゆえデューイは言う。


個性がつくられる場は変わった。〔中略〕われわれは、社会状況から生まれた問題に直面している。それは人間が直接物理的世界と持つ関係ではなく、人間相互の関係にかかわるものである。


 そして言う。そのような社会において、われわれは、新しい科学とテクノロジーを、十分に使いこなせる個人である必要がある、と。


新しいタイプの個性の創造のために現代が要請する芸術(アート)は、われわれの時代の原動力となっている科学とテクノロジにたいして敏感であるべきであり、それらが活用されるような広大なつまり社会的な文化を目ざすべきである。」


 社会から孤絶した個人主義ではなく、社会における人々との相互コミュニケーションの中において、いかに自ら十全な「個」たりうるか。デューイは本書において、そのような問題意識を提示した。



(苫野一徳)



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