勝田守一『人間の科学としての教育学』



はじめに

 戦後教育学のドン、勝田。本書(勝田守一著作集6)は、主著『能力と発達と学習――教育学入門Ⅰ』およびその続編で未完に終わった『政治と文化と教育――教育学入門Ⅱ』をはじめ、勝田の中心的な論考をまとめたものである。

 勝田の教育思想の根本には、教育を政治や経済などの力学から切り離し、政治経済が教育に優秀な人材選抜を求めるのに抗して、教育固有の価値を提起しようという姿勢がある。

 そのキーワードは、「全面発達」「無限の可能性」である。

 教育は、選抜のためにあるのではなく、知性と人間性の「全面発達」をめざすべきものであり、子どもたちの「無限の可能性」を開くべきものである。そう勝田は言うわけだ。

 戦後から1960年末にかけて戦後教育学を牽引した勝田は、当時随一の知識と教養をもった教育学者だった。欧米の最先端の学説を多く摂取し、当時日本ではほとんど知られていなかったG・H・ミードなどにも言及しているところをみると、その目配りの広さと深さに今でも驚かされる。

 しかし今日、勝田教育学の限界もまた思わないわけにはいかない。

 勝田の思想は、一言でいうと対抗思想である。その思想は、政治経済の力学に対抗し、教育固有の価値を提示するというモチーフに貫かれている。

 そのモチーフには、かなり共感できるし、多くの教育関係者もまた、勝田の思想に励まされてきた。とにかく子どもたちの無限の可能性のためにがんばろうと、多くの教師たちが鼓舞された。

 しかし、教育もまた、政治経済社会の中におけるシステムであるほかないものである。にもかかわらず、政治経済の力学から教育だけを独立させ、対抗的な思想によって教育固有の価値を守ろうとする戦略は、かなり無理のあるものと言わざるをえない。対抗思想は、最後の最後に、教育が政治経済の力学に呑み込まれてしまうことを防げないのだ。

 実際、90年代から急速に進展したいわゆる「新自由主義教育改革」は、教育がどれだけ政治経済社会に呑み込まれたシステムであるかを、教育学者たちに嫌というほど見せつけた。勝田が牽引したいわゆる戦後の左派的教育学の思想は、この荒れ狂う教育改革の波の前に、ほとんど有効な思想を提起しえなかったように見える。それはやはり、ただただ「対抗」の言葉をしか紡ぐことのできなかった、戦後教育学の限界であったのではないか。

 私の考えでは、重要なことは教育を政治経済に対抗させることではなく、政治経済社会はどうあれば「正当」といいうるかのその「正当性」の原理を明らかにし、それに支えられた教育の「正当性」を明らかにすることである。「正当性」をもった公教育のあり方を、社会の「正当性」の次元から明らかにすることで、解明し構想することである。

 対抗思想は、どこまでも対抗思想であって、いずれは無力さを露呈してしまう。重要なことは、「対抗」ではなく「正当性」の解明なのである。

 拙著『どのような教育が「よい」教育か』(講談社、2011年)において、私は勝田をはじめとする戦後教育学の問題を克服するというモチーフも含ませつつ、この課題に取り組んだ。ご興味のある方に、お読みいただければ幸いだ。


1.人材選抜の思想に抗して

 先述したように、勝田教育学の重要モチーフは、政治経済の観点からの人材選抜という教育観への抵抗にある。

「学校は選抜機構の役割りを負わされているから、つねに子どもたちを等級づけ、差別することに慣らされている。」
そのような現実とその条件において、人間の可能性とその発達の意味をとらえ直すことによって、いいかえれば、教育的なものを私たちが明らかにすることによって、逆に教育政策に対して根底的な批判を遂行しなくてはならない。


 いかにして、人材選抜という教育観を脱却し、教育固有の価値を提起しうるか。勝田の探究はこうして始まる。


2.人間の能力をどう捉えるか

 そこで勝田は、まず人間の能力について思索を深める。

 まず彼は次のように言う。なぜ学校は人間の能力を測定しようとするのか。そこには、(1)子どもの能力をしっかり把握することで、教育実践に活かしていこうという教育的動機と、(2)社会における有為な人間を見出すための、選抜的動機がある、と。

 言うまでもなく、勝田は教育的動機による能力測定の方を重視し、選抜的動機を批判する。学校は本来、すべての子どもたちの学力・基礎諸能力を高めることをこそ目的としなければならないはずである、にもかかわらず、学校は今、階層再生産の機構と化している。そう勝田は批判する。そして言う。

「学校は認識という知的能力を中心として諸能力を育てるという任務をもっている」

それは、一つには人間が科学(自然科学・社会科学)として組織して所有している文化に参加しながら、事物・世界を認識する能力を自己のうちに育てることによって、自己を解放していく面と、現代の発達しつつある生産方法に組織されている技術を、技術学として学びとる能力を育てることによって、現代の職業の中に参加しながら、自己を確立していき、自己確立のために環境を変革していくという面を含んでいる。

 要するに勝田は、教育における子どもたちの能力発達を、社会選抜のためではなく、すべての子どもたちに科学的認識力を育み、社会の中で自立的に生きていけるようにするためのものとして描くのである。


3.人間が成長するとはどういうことか

 続いて勝田は、「成長」に焦点を当てる。

 ここで参照されるのは、ピアジェヴィゴツキーデューイである。

 よく知られているように、ピアジェは、教育は発達に従属すると考えたと言われている。つまり、子どもは自然に従った発達をするのであって、教育はその法則に従わねばならないのだと。

 対してヴィゴツキーは、自然的発達と教育の相互作用を説いた。発達の最近接領域という考え方がそれである。子どもだけでは十分に発達し切らないところに、教育が働きかけるというわけだ。教育の助けをもって、子どもたちは飛躍的な成長を遂げる。

 他方、デューイは、教育とは成長それ自体だと言った。経験の再構成それ自体を、教育と言ったのである。

 勝田は以上の3学説を検討しながら、ピアジェは教育の力を軽視していると言い、デューイの教育観はあいまいにすぎると批判し、最終的にはヴィゴツキーに同意する。

「すなわち、ヴィゴツキーが発達の「最近接領域」とよんだものをつくり出すのが教育なのだということである。


4.全面発達と無限の可能性

 以上のように、勝田はピアジェやヴィゴツキー、そしてデューイといった学者だけでなく、当時知り得た最先端の学説を踏査しながら、少しずつ自らの思想を練り上げていく。

 そして最終的に提示される重要キーワードが、「全面発達」「無限の可能性」である。

「全面発達は、知的諸能力の多面的な発達というばかりでなく、同時に人間的感情、道徳性の発達、そしてなによりも身体的な発達の統一の思想なのである。」

 教育は、さまざまな能力や人間性の、調和的・多面的な発達をめざさねばならない。そう勝田は言う。なぜなら、子どもたちには「無限の可能性」が備わっているのであり、これを十分に開くことこそが教育の任務であるからだ。

 繰り返すが、この思想は、思想としては確かに美しい。言っていることそれ自体も、妥当なものと言えるだろう。

 しかし現実的な力を中々持ちえないのもまた、残念ながら事実なのである。政治経済は選抜をしたがるかもしれないが、教育はそもそも子どもたちの無限の可能性を開き全面発達を保障するものなのだ、と、政治経済社会とは関係のない場所で教育固有の価値を唱えたところで、「はいはいそうですか、でも教育も結局は社会システムの1つだからね」と言われてしまえば、もうどうすることもできないのだ。

 それゆえ繰り返すが、重要なことは、政治経済への対抗ではなく、政治経済社会の「正当」なあり方を解明し、それに支えられた「正当性」をもった公教育のあり方を、社会システム全体として解明することなのだ。

 この社会の「正当性」および教育の「正当性」という次元から問い直し解明し直すことで、勝田のモチーフは、より強靭に鍛え直されるはずだと私は考えている。詳しくは拙著をご参照いただければ幸いだ。




(苫野一徳)



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