『孟子』

はじめに

 「孔孟の教え」と言われるほどに、儒教において、孟子の思想は孔子に次いで重要であるとされている。

 しかし、その孟子の言行録である本書には、孔子の言行録『論語』とはずいぶん違った印象を抱かざるを得ない。

 『論語』を読むと、その思想に共感するかどうかは別にして、孔子がきわめて多くの人々から敬愛された人格者であったことがうかがえる。(『論語』のページ参照)

 他方『孟子』を読むと、孟子は、人格者であるどころか、弟子たちからの疑義にへ理屈をこねたり、とにかく論敵を論破してやろうともくろんだり、人に嫌味や皮肉をしょっちゅう投げかける、かなり性格の悪い人であったような印象を受ける。

 そしてまた、孟子は、孔子の思想をかなり杓子定規なものに歪曲してしまったようにも私には思われる。

 儒教の創始者孔子の思想は、臨機応変、かなり柔軟なものであったように私には思えるが、孟子は、この孔子の思想を、まるで教条化してしまったかのようである。

 そして、を説く孔子がその思想にふさわしい人格者であったのに対して、孟子は、言っていることとやっていることに、ずいぶんと懸隔がある。

 実際、孟子は儒教においても、長い間小物と見なされてきた節があるらしい。それが長い歴史を通して少しずつ儒教の重要書物へと昇格したのには、その背景に、おそらく為政者の人民統治への関心があったからだろう。忠君を説く孔孟の思想は、実際為政者にとっては「使える」思想であったと言っていい。


1.王道、覇道

 王道覇道は、孟子の思想における最も有名なものの1つである。

 王道とは、仁義による徳治のこと、覇道とは、武力による統治のことである。孟子は言うまでもなく、王道をこそ説く。孟子は言う。

「〔国を治めるのに〕大事なのは、ただ仁義だけです。もしも、王様はどうしたら自分の国に利益になるのか、大夫は大夫でどうしたら自分の家に利益になるのか、役人や庶民もまたどうしたら向分の身に利益になるのかとばかりいって、上のものも下のものも、だれもが利益を貪りとることだけしか考えなければ、国家は必ず滅亡してしまいましょう。」

 ここで、有名な「五十歩百歩」の話が登場する。
 
「王様は戦争がお好きでいらっしゃるから、ひとつ戦争でたとえて申してみましょう。ドンドンと進軍の陣太鼓がいさましく鳴りひびき、敵味方刀で斬りあいがはじまった〔大事な〕ときに、鎧を脱ぎすて〔矛などの〕武器まで投げすてて逃げだしたものがいました。百歩逃げたものもあれば、五十歩逃げてふみとどまったものもあります。五十歩しか逃げなかったものが、百歩逃げたものを『この臆病者め』と笑ったら、いかがなものでございましょう。」〔王はいわれた〕「それはいかん。ただ百歩逃げなかっただけだ。逃げたことにはかわりはない。」

「ところが、今〔王様〕の政治は、ご自分の犬や豚には人間の食べものを鱈ふく食わせながら、これを米倉に収め貯えようともなさらない。路ばたに餓死者がころがっていても、米倉を開いて救おうともなさらない。人民が餓死しても、只いたずらに手を束ねて『わしの〔政治の悪い〕せいではない。凶作のせいでねえ』とすましていらっしるが、これは人を刺し殺しておきながら、『わしが殺したのじゃない。この刃物のせいだよ』と白白しくいうのと、なもし、王様が歳に罪をきせたりせず、ご自分の政治が悪いからだとハッキリ責任をご自覚なさいましたら、〔隣国どころか〕天下の人民は必ず王様の徳を慕って、お国にむらがり集ってくることでしょう。」

 人民が貧困に苦しんでいるのに、王が、それはわしのせいじゃないなどと言い張るのは、まさに「五十歩百歩」の話にも似た愚行である。そう孟子は言うわけだ。


2.惻隠の情


 孟子の最も有名な思想と言えば、性善説、そしてそれを裏付ける、惻隠の情」についてだろう。

 惻隠の情とは、苦しんでいる人、困っている人を見た時、私たちが思わず憐れみや助けたいという思いなどを抱いてしまう、その感情のことだ。それを孟子は、井戸に落ちそうになっている子どもの例を挙げて次のように言う。

「たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ちこみそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハタとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうと〔の一念から〕とっさにすることで、もちろんこれ(助けたこと)を縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。してみれば、あわれみの心がないものは、人間ではない。」
 

3.孟子の人柄

 以上のように、思想としてはかなり立派なことを言っている孟子なのだが、先述したように、私には、彼の態度がその思想にどうもそぐわないように思えてならない。

 たとえば、弟子に次のような疑問を呈されたというエピソードがある。

「先生は〔失礼ですが、一介の処土なのに〕うしろには何十台という車をつらね、何百人というたくさんの従者を引きつれて、時間侯の国々をつぎからつぎへと禄を食んで渡り歩かれるのは、余りに分に過ぎた奢りではありますまいか。」

 これに対して孟子は言う。もし道を教える君子が衣食に不自由せねばならないのだとしたら、それは「仁義の大道を行なう君子を、どうみても軽んじることになる」ではないか、と。


 言っていることは至極もっともだが、その言い方に、何となく自己弁護的なものを感じてしまう。孔子であれば、そのような言い方はしなかっただろう。

 あるいは、孟子にとって墨子は論敵だったが、この墨子について、彼は次のようにさえ言っている。

「私だけにかぎらず、誰でも言論をもって、楊朱・墨子の邪説を排撃するものはすべて聖人の仲間なのである。」

 多くの弟子から疑義を呈されているところをみても、孟子が人々からの尊敬を集める人格者であったとはとても思えない。

 また、先述したように、私の考えでは孟子は孔子の思想を教条化してしまった面があるが、それはたとえば、親孝行についての彼の言葉に見ることができる。

「親不孝におよそ三つの種類がある。なかでも、妻をめとらず後つぎの子がなくて、祖先の祭をたやしてしまうのが、一番の不孝である。」

 いかにも儒教道徳らしい一文だが、同じく孝行を説いた孔子には、これほどの教条主義的思想はなかったように私には思われる。


4.その他名言

 とは言え、『孟子』には、今読んでもはっとさせられるような名言もまた多い。最後にいくつか紹介しておこう。

「人を愛しても相手から親しまれない時には、〔人を怨まずに〕自分の仁愛の心が足りないからではないかと反省するがよい。」

「およそ至誠をつくして天下に感動させることのできないものはないし、また、至誠でなくうそいつわりで人をよく感動させることのできるものは決してないのである。」

「仁義礼智の四つの徳は、自分の心を外から鍍金して飾りたてたもの(いわゆる付け焼刃)ではなく、もともと自分の心に持っているものである。ただ、これを人々はボンヤリしていて自覚しないだけのことだ。」



(苫野一徳)



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