セン『人間の安全保障』


はじめに

 センについての他のページでもしばしば書いていることだが、私の考えでは、センは、平等主義的な社会を作り出すための実践的なアイデアを深めることにかけては、その有効性といい現実への影響力といい、他に類を見ないほどにすぐれた経済学者だ。

 しかし他方で、哲学的な議論については、その思想のナイーヴさのゆえに、原理的な説得力はずいぶん劣る。

 一言でいって、それはいわゆるカント的道徳主義(もっともこの言い方は、若干カントに対して不当であるようにも思うのだが。慣例に倣って一応こう言っておく)。

 苦しんでいる人には手をさしのべなければならない、という、一種の教条的要請主義が、センの思想の底に潜んでいる。そしてその上で彼は、「人権」は人々が生まれもったものであるがゆえに、不可侵なのであると主張する。

 しかしここには2つの問題がある。

 1つは、「人権」が生まれもったものであるかどうか、私たちには決して知りえないという問題だ。

 このことを徹底的に論じたのはヘーゲルだが、私なりに言うと、「人権」とは、人類が共存するために、長い歴史をかけて築き上げてきた「ルール」である。それは生まれもったものでは決してない。たとえ生まれもったものだと主張することができたとしても、それは、「人権を生まれもったものとみなしましょう」という、ルール設定のゆえなのだ。

 したがって、人権をルールに先立って絶対化することはできない。そしてもし人権を生まれもったものと絶対化してしまったとしたら、われわれは、何がその内実であるかをめぐって、答えの出ない争いを続けてしまうことになる(実際政治哲学の領域ではそうした論争が続いている)。

 人権の本質は、そのルール性にある。それゆえわれわれは、どのような人権の内実であれば共通了解可能なルールとして設定することができるか、と考える必要があるのだ。

 2つめの問題は、カント的道徳主義の非現実性である。人は苦しんでいる人には手をさしのべなければならない、ということを、カントやセンは道徳的・倫理的命令として述べるのだが、これはかなり非現実的な要請である。

 重要なことは、もしも人が苦しんでいる人に手をさしのべたいと思う、あるいはさしのべようと思うのだとするならば、そのための条件は何で、それをどのように整えていくことができるか、と問うことである。

 センの言い方は、他者救済をカントに倣って「不完全義務」と呼び、倫理的態度としてこれを目指そうというものだ。それは倫理的態度としては立派だが、人々の倫理感覚に「義務」を説くだけでは、どうしても最後の最後で現実性を欠くと言わざるをえない。

 このブログでもしばしば言っているように、力強い哲学的思考は、「要請の思想」ではなく「条件解明型思考」なのである。

 われわれは、どのような条件において、人に手をさしのべたいと思うのか。単なる「命令」「要請」ではなく、そうした現実的条件をこそ、思想は考え抜いていく必要がある。私はそう思う。

 ともあれ、本書は今ではとても有名な、「人間の安全保障」についてセンの語ったエッセイ集である。

 こうした有効な概念を次々と出せるという点にこそ、センの実践的学者としての類まれなる力があると私は思う。


1.人間の安全保障

「〈人間の安全保障〉は、人間の「生存」と「生活」を(おそらくは早死や、避けられる疾病、読み書きの不自由による多大な不利益などから)守り、維持するものであると理解できます。

 あらゆる人の生存と生活を守ること。これが〈人間の安全保障〉という概念の最大のポイントである。ある意味あたりまえのことだが、このような「概念」にすることで、われわれはその重要性をあらためて自覚することができる。

 では、〈人間の安全保障〉を達成するための重要な要素はいったい何か。


2.潜在能力(ケイパビリティ)

 これを、センは彼のおなじみの概念、「潜在能力(ケイパビリティ)」にみる。

潜在能力とはすなわち、人間の生命活動を組み合わせて価値のあるものにする機会であり、人にできること、もしくは人がなれる状態を表わします。


 要するに、「ケイパビリティ」とは、生活の安全が保障され、より「自由」になれるための、それぞれの個々人にとって必要なもろもろのインフラや個人的能力の総称である。

 その最大の条件として、センは基礎教育の充実を挙げる。

「読み書きができない場合、人は自らの法的権利を理解し、それに訴える能力がかなりかぎられてしまいます。また教育を受けられないために、さらにほかの困窮状態におちいることもあります。実際、こうした状況は最下層の人びとには、繰り返し起こりがちです。自分たちに何をどのように要求する資格があるのか、読んで理解する能力がないために、彼らの権利は事実上、奪われます。」


3.人権

 本書で最も哲学的な議論がなされているのが、「人権を定義づける理論」というエッセイである。

 冒頭でも述べたように、私は、ここで展開されるセンの議論には大きな問題があると考えている。

 センは言う。今日「人権」を否定しようとする人たちに対して、われわれは人権を擁護し基礎づける理論を提示する必要がある、と。そしてまず次のように言う。

〈人権〉の宣言は本質的には倫理上の表明であって、何よりも、一般に考えられているような法的な主張ではないのです。

 人権は倫理的概念であって、法的概念ではない、とはどういうことか。

 センの言い方では、それは「生まれもったもの」であるがゆえに、必ず尊重しなければならないという倫理的要請を帯びた概念なのである、ということになる。

 そして、人権を単なる法的概念とみなしてきた、ベンサムら功利主義の思想家たちを批判する。

生まれもった『人間の権利』の考え方を否定するにあたって、ベンサムが『権利』という言葉を特別な意味で使うレトリックに依存していたのは容易にわかります。つまり、権利を法的にのみ解釈していたのです。しかし、〈人権〉が倫理的に重要な要求として考えられるのであれば、それ自体に法的または制度的な効力がないという事実を指摘することは、たとえそれが充分に明白なことであっても、〈人権〉の研究にとってはあまり意味がないのです。


 しかし、この論理は残念ながら破綻していると言わざるをえない。なぜ人権が「生まれもった」「倫理的」な概念であるかについて、センはまったく論証していないからだ。

 実際、論証など決してできないのだ。冒頭で述べたように、「人権」が「生まれもった」ものであるかどうか、われわれには決して知りえないのだから。

 繰り返すが、人権は、人類が共存するために長い歴史をかけて築き上げてきた「ルール」である。それゆえこれは、まず第一には、徹頭徹尾法的な概念なのである。

 以上の議論は、すでに、天賦人権論を唱えたロックを乗り越える形で、ルソーヘーゲルなどが十分に展開したものである(それぞれの哲学者のページ参照)。センの議論は、哲学的にはずいぶんと古くナイーヴだと私は思う。
 

 とは言うものの、センについての他のページでも書いたように、「ケイパビリティ・アプローチ」も「人間の安全保障」という考えも、世界をより自由で公正な社会にしていくための、実践的アイデアとしてはきわめて優れたものであると私は思う。そしてセンの最大の魅力は、やはりそうした、実践に資するアイデアの数々の提示にこそあるだろう。


(苫野一徳)


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