プラトン『メノン』




はじめに


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 ソクラテスと若き青年メノンとの、「徳」をめぐる対話篇。

 議論の内容に十分納得できるかどうかを別にすれば、中高生でもそれなりに読める作品だろうと思う。

 内容に納得できるかどうかを別にすれば、というのは、本書で展開される「徳」についての議論は、きわめて本質的な洞察に満ちてはいるものの、時に論理に矛盾があったり飛躍があったりするようにも思われるからだ。

 しかし、「徳は教えられるか?」というメノンの質問に対して、いやいや、そもそも「徳とは何か」に答えなければ、そんなことは分からないよ、という、ソクラテスのどこまでも物事の本質を見抜こうとする姿勢は、相変わらず見事だ。

 結局、その答えは十分に示されないまま本書は終わる。

 しかし、ソクラテス独自の考え方の筋道に十分触れられる、中期少し前のプラトンの生き生きした筆致が光る名著だと思う。



1.徳とは何か?

 本書冒頭、まずメノンが、「徳は教えうるか?」とソクラテスに問う。しかしソクラテスは言う。教えるもなにも、私は徳それ自体がそもそも何であるかということさえ、知らないのだよと。

 そこでメノンは答える。いやいや、それは簡単なことですよ、と。

メノン「男の徳とは何かとおたずねなら、それを言うのはわけないこと、つまり、国事を処理する能力をもち、かつ処理するにあたって、よく友を利して敵を害し、しかも自分は何ひとつそういう目にあわぬように気をつけるだけの能力をもつこと、これが男の徳というものです。さらに、女の徳はと言われるなら、女は所帯をよく保ち夫に服従することによって、家そのものをよく斉えるべきであるというふうに、なんなく説明できます。」

 ところがこれに対してソクラテスは言う。いや、それは諸々の徳のことであって、そもそも徳とは何なのかということには答えられていないんだよ、と。私は、徳が徳であるゆえん、なぜこれこそが徳であると言えるのか、その本質が知りたいのだと。

とえその数が多く、いろいろの種類のものがあるとしても、それらの徳はすべて、ある一つの同じ相本質的特性)をもっているはずであって、それがあるからこそ、いずれも徳であるということになるのだ。


 それでは、とメノンは答える。

徳とは、美しい物を欲求してこれを獲得する能力があることだと、こう申しましょう。

 なるほど、しかしもっと言ってみよう、とソクラテスは言う。美しいものは善きものだから、徳とは善き物を獲得することだと言ってもいいね、と。そして続ける。

ところで君は、メノン、そのいうところの『獲得』に、正しくかつ敬虔にという一項をつけ加えるつもりはないかね?

 となれば、徳とは、善きものを、正義にかなった仕方で獲得することだ、と、そう言えることになりそうだ。そうソクラテスは言う。


2.想起説

 しかしそうは言っても、その善きものだとか徳だとかって、結局分からないものですね〜とメノンは言う。分からないものを分かろうとするなんて、土台無理な話なんじゃないでしょうか?と。

 そこでソクラテスは言う。私は、分からないものを探求することに意味はないなどと言うべきではないと思う、と。というのも、は、かつて生まれる前に、実は天界において一切を知っていたのであるから、と。

魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまって(47いないようなものは、何ひとつとしてないのである。
それはつまり、探求するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほかならないからだ。


 ただしソクラテスは、この天界の話を、人々を説得するためのレトリックだと十分理解していたようである。彼は次のように言っている。

「ぼくは、ほかのいろいろの点については、この説のためにそれほど確信をもって断言しようとは思わない。ただしかし、ひとが何かを知らない場合に、それを探求しなければならないと思うほうが、知らないものは発見することもできなければ、探求すべきでもないと思うよりも、われわれはよりすぐれた者になり、より勇気づけられて、なまけごころが少なくなるだろうということ、この点については、もしぼくにできるなら、言葉のうえでも実際のうえでも、大いに強硬に主張したいのだ。

 ひねくれた精神をもって知恵の探求をあきらめてしまうのではなく、どこまでも知恵を求めようじゃないか。そんなソクラテス(プラトン)の意気込みが伝わってくる一節だ。


3.徳は教えられるか?

 そこでソクラテスとメノンは、最初にメノンによって投げかけられた質問へと舞い戻る。すなわち、「徳は教えられるか否か?」

 ソクラテスは言う。もし教えられるとすれば、徳は「知識」でなければならないと。

 これに、まずソクラテスはこう答える。「徳」が有益なものであるとするなら、そこには必ず「知性」が伴っていなければならない。したがって「徳」とは「知識」であると。

 さらに、徳とは生まれつきのものではなく学ばれたものである。その証拠に、もし生まれつき徳のある人というのが存在したら、人々は、きっとそんな子どもたちを悪影響から隔離して成長した折り、彼らに国を導いてもらおうとしたであろうから、と。

 さて、ところが対話を続けるにしたがって、ソクラテスは徐々に考えを変え始める。

 というのも、どうも「徳」は、どれだけ有徳な人でも、それほどうまくは教えられていないようであるからだ。

 ということは、「徳」は教えられうるわけでも、「知識」であるわけでもないのではないか。

 ソクラテスはこうして続ける。

行為の正しさということに観点をおくなら、正しい思わくは、導き手として『知』に何ら劣るものではないことになる。そしてこの点こそ、われわれがさっき、徳とはいかなるものかを考察するにあたって、見のがしていたことなのだ。」
 
 ここで、「思わく」という言葉が登場する。つまり、はっきりした「知」でなく、何となくの「思わく」であっても、その結果正しい行為につながるということが起こりうる。ソクラテスはそう言うわけだ。

 しかしもちろん、「思わく」より「知」の方がすぐれているに違いない。

ダイダロスの作品を所有していても、それが縛りつけられていないならば、ちょうどすぐに逃亡する召使と同じことで、あまりたいした値うちはない。じっとしていないのだからね。しかし、縛りつけられている場合は、たいした値うちものだ。なにしろ、たいへん立派な作品だから。〔中略〕正しい思わくというものも、やはり、われわれの中にとどまっているあいだは価値があり、あらゆるよいことを成就させてくれる。だがそれは、長い間じっとしていようとはせず、人間の魂の中から逃げ出してしまうものであるから、それほどたいした価値があるとは言えない――ひとがそうした思わくを原因(根拠の思考によって縛りつけてしまわないうちはね。」

 しかしいずれにせよ、徳は、時に「思わく」によっても可能になるがゆえに、完全な「知識」ではないらしい。となれば、それはほとんど神がかりなものではないか。そうソクラテスは主張する。

「徳とは、生まれつきのものでもなければ、教えられることのできるものでもなく、むしろ、徳のそなわるような人々がいるとすれば、それは知性とは無関係に、神の恵みによってそなわるものだということになるだろう

 ではその徳の本質とは何なのか、もっと考える必要があるが、そろそろ私は行かねばならないのだよとソクラテスは言い残し、「徳」の本質についての探求は、最後まで続けられることなく本書は終わる。


(苫野一徳)


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