リオタール『こどもたちに語るポストモダン』




はじめに

 1979年、『ポストモダンの条件』によって、「ポストモダン」「大きな物語の終焉」といった言葉を流行させた、リオタール。本書は、その続編とでもいうべき著作である。

 「こどもたちに語る」と言っても、子ども向けの分かりやすい本という意味では全くない。若干羊頭狗肉の感を免れない気もするが、自らの思想を「親」として現れた、若い思想家たちへの言葉という意味らしい。1980年代半ば、世界各地からリオタールが「こどもたち」に書き送った手紙を編纂したものである。主著『ポストモダンの条件』に対する、若干の修正も含まれている。

 ただ私としては、本ブログでも随所に書いていることだけれど、いわゆる「ポストモダン思想」の賞味期限は、今やもうほとんど切れてしまったと考えている。

 全体主義やマルクス主義など、あらゆる暴力的「主義」を味わい尽くした20世紀、思想家たちは、とにもかくにも、一切の「主義」を相対化し、これらへ抵抗することに力を注いだ。

 その問題意識は、きわめて真摯であり妥当なものだ。

 しかしこの思想は、結局のところ、ただに「否」を言い続けるだけの、きわめて非生産的な思想になった。

 では、われわれはどのような人間的生や社会を「よい」といいうるのか、そして、そのような生や社会を可能にする「条件」は何なのか。

 哲学が問うべきはそのような問いであると私は思うが、「ポストモダン思想」は、そうした問い自体を相対化しようとやっきになってきた。

 もちろん、絶対に「よい」生き方や社会などはあり得ない。しかし、それでもなおわれわれは、何らかの形で「共通了解」を得られる、建設的な哲学を探究していく必要があるのではないか。

 そろそろ、ただ「否」を突きつけ続けるだけの思想から、再び、「よりよい」人間的生や社会のあり方の探究へと、建設的な哲学を始め直す必要がある。

 そしてそのような哲学的探究は、すでにもう始まっている。


1.リアリズムの幻想を打ち破るアヴァンギャルド

 アヴァンギャルド芸術は、従来のアーティストや批評家たちから、激しく拒絶されている。それはなぜか。リオタールは言う。

「芸術的実験を中断するようにというさまざまなかたちの呼びかけの中には、秩序への召喚の声、統合性・同一性・安全性・通俗性(Öffentlichkeit[公開]つまり「公衆に出会う」という意味で)への欲望がある。」

 あらゆる秩序を打ち壊すアヴァンギャルド芸術に、従来の人々は不安をかきたてられているのだ。

 そうして従来のアーティストたちは、公衆にただおもねるだけの作品を作り続ける。

「われわれはレゲエを聞き、西部劇を観、お昼にはマクドナルド、夜には地元の料理を食べ、東京ではパリの香水をつけ、香港ではレトロなファッションに身をつつみ、知識はテレビのクイズ番組の材料でしかない。折衷的な作品にとって、公衆を見つけるのは簡単だ。キッチュになることで、芸術は、愛好家の〈趣味〉を支配している混乱におもねる。」

 こうしたアーティストたちに求められているのは、ただただ、公衆にとって分かりやすく馴染み深い、人々を安心させられるような作品を作ることである。

「それらの探求に対して勧められているのは、次のような作品を提供しなさい、ということだ。まず、受け手である公衆の眼に見えているさまざまな主題に関係のある作品。そして、その公衆が、何が問題となっているのかを認識し、そこで何が意味されているのかを理解し、理由を十分に知りつつそれらに対して承認を与えあるいは拒絶することができ、ついにはできることならかれらが受け入れる作品から何らかのなぐさめを引きだすことさえできるように、そのように作られた(〈良くできた〉)作品を。」

 アヴァンギャルドは、そうした分かりやすさをことごとく覆す。そうリオタールは言う。

 芸術は、本来名づけ得ないもの、「提示しえないもの」の崇高さの表現である。それを、通俗的な芸術家たちは分かりやすい表現形式に貶めている。

 そこで、アヴァンギャルドに象徴されるポストモダンは、こうした「提示しえないもの」を、そのままに引き出す「何か」として定義づけられることになる。

「ポストモダンとは、モダンの内部において、提示そのものの中から『提示しえないもの』をひきだすような何かのことだろう。不可能なものへのノスタルジアを共有させてくれる趣味のコンセンサスの上にたって良い形式からもたらされるなぐさめを、拒絶するもの。新しいさまざまな提示を、それを楽しむためにではなく、『提示しえないもの』がそこに存在するのだとより強く感じさせるために、たずね求めるもの。」


2.抵抗としてのポストモダン

 以上見たような、モダン的表現への反逆であるポストモダンは、より大きな文脈からいえば、「普遍性」という近代的理念への反逆である。リオタールは言う。


「近代の計画(普遍性の実現という計画)は、見捨てられ忘れられたのではなく、破壊され、〈清算され〉たのだ」


 ここには、19〜20世紀における、近代が行き着いた全体主義への批判が込められている。

一九世紀および二世紀は、われわれに嫌というほどのテロルを与えてきた。全体と一に対する、概念と知覚可能なものとの和解に対する、透明で伝達可能な経験に対する、ノスタルジアの代価を、われわれはすでに十分に支払ってきた。弛緩と鎮静への要請がひろがる中で、テロルを再開し、リアリティの支配という幻想を達成しようという欲望がつぶやくのを、われわれは耳にしているところだ。」

 そこでリオタールは次のように言う。

「それに対する答えはこれだ。全体性に対する戦争だ、提示しえないものをしめしてやろう、さまざまな抗争を活性化しよう、名前の名誉を救出しよう。

 こうしたリオタールに代表されるポストモダン思想は、全体主義的近代への大きな批判として、70年代以降大きな影響力を奮ってきた。

 しかし冒頭でも述べたように、彼らは結局、「抗争」「反逆」「抵抗」「否」の言葉を紡ぎ続けただけだった。

 ポストモダン思想は、その歴史的な役割を終えた。私はそう思う。これからの哲学は、この思想を乗り越えつつ、積極的で建設的な、共通了解可能な哲学を構築していく必要がある。


(苫野一徳)



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