アーレント『過去と未来の間』


はじめに


ハンナ・アーレントちゃん 哲学界一の美人】 ハンナ・アーレントちゃん応援スレPart1 【恋人は ...
 「政治思想への8試論」というサブタイトルをもつ本書は、失墜した過去の伝統権威を、もう一度、いわばより健全に、またより本質的な形で見直そうとする試みだ。

 以下では、本書の中から、特に中心的な論文と思われる「権威とは何か」「自由について」「教育の危機」の3論文を取り上げ紹介したい。


1.「権威とは何か」

① 現代における「権威」の喪失

 この論考では、今や失われてしまった政治的「権威」の意義についてが論じられている。

 アーレントは言う。権威の喪失は、今や政治だけでなく教育においてさえ浸透してしまっている。

 教育とは、本来、未成熟な子どもを、大人が権威をもって世界へと導き入れるものであるはずだ。しかし現代の教育は、子どもの世界を絶対化し、彼らを大人の世界へ導き入れるという責任を放棄してしまっている。そうアーレントは主張する。

「大人と子供、教師と生徒の関係を律してきたこの前政治的権威さえもはや確保できなくなった事実は、権威主義的関係を表わす旧くからの由緒ある比喩やモデルがその真実味を失ったことを意味する。」

 この点については、後に紹介するアーレントの論考「教育の危機」でより詳細に論じられている。


② 権威主義、暴政、全体主義

 さて、アーレントはここで、政治的権威の意味を明らかにするために、権威主義的統治暴政=僭主制、そして全体主義の、3つの統治形態を比較する。

「まず権威主義的統治のイメージとして、わたしは伝統的政治思想において周知のピラミッド型を提案したい。」
 
 しかし同時に言う。権威主義的統治は、常に「法」に支配されているのだと。そして言う。

権威とは、人びとが自由を保持する服従を意味する。

 私なりに言い換えれば、権威とは、人々の自由を保障するための「法」を制定し保障する力を意味しているのである。

 それに対して、暴政=僭主制は、万人に対する一者の支配である。

「暴政=僭主は万人に対立する一者として支配する統治者であり、抑圧される『万人』はすべて平等、すなわち等しく無力である。

 そして全体主義は、内部からの人民の統一的支配である。

「全体主義の支配と組織にぴったりするイメージは、玉葱の構造であろう。指導者はこの玉葱構造のいわばがらんどうの中心に位置する。そして権威主義的ヒエラルキーにおけるがごとく政治体を統合する場合であれ、また暴君のように被治者を抑圧する場合であれ、ともかく指導者は自らが為すことすべてを外部からでも上からでもなく、内部から行なうのである。

 人はあまりにしばしば、これら暴政=僭主制と全体主義を、権威主義的統治と混同してきた。アーレントはそう主張する。

 それは暴力と権威の混同である。しかしそれは誤った考えだ。先に言ったように、権威とは人々の自由を保障するものなのだ。


③ 人は権威なき政治を生きられるか?

 この後、プラトンアリストテレスマキャヴェッリなどの、権威をめぐる政治思想についての大変興味深い考察が続けられるが、ここでは割愛しよう。

 本稿の最後に、アーレントは次のように言っている。

「われわれは権威なしに、あるいは権威に伴う意識、つまり権威の源泉は権力ならびに権力の座にある人びとを超越しているという意識を抱くこともなく、政治の領域を生きねばならない」

 文脈から察するに、アーレント自身は何らかの形で権威の復興を主張したいようである。


2.「自由とは何か」


 続けて、アーレントの秀逸な「自由」論が収められた論文を紹介しよう。

 アーレントは言う。「自由」とは、本来政治的概念である。しかしそれが「哲学」のせいで、いつしか「内的自由」の観念と混同されるようになってしまった、と。

 「内的自由」とは、自然の因果律に対立するものとしての「自由」概念である。

 われわれが一切を自然の法則に従って生きねばならないのだとするならば、それは全てが必然性の歯車の中に巻き込まれているということであって、われわれに自由などないのではないか。

 伝統的に、哲学はそのように問うてきた。

 そこで哲学は、何とかして、この自然の法則に対する人間の「内的自由」の領域を確保しようと考えてきた。

 このブログでも、アウグスティヌスからカントに至るまで、「自由」はそのような問題設定において考察されてきたことを紹介してきた。(アウグスティヌス『告白』『神の国』、カント『純粋理性批判』『実践理性批判』のページ等参照)

 しかしこれは、実は答えの出ない問いである。われわれは自然の法則にとらわれているか、それともそこから絶対的に自由たりうるか、これは問いの立て方を誤っている。

 こうした問題を克服し、秀逸な「自由」論を展開したのは、私の考えではまず誰をおいてもヘーゲルである(ヘーゲル『法の哲学』のページ参照)。またミルなどもかなり原理的だ(ミル『自由論』のページなど参照)。

 本稿におけるアーレントの洞察もまた、わたしの考えではきわめて秀逸なものだ。

 アーレントは言う。

「政治的なものの目的あるいは存在理由は、至芸としての自由が現われうる空間を樹立し、それを存続させることであろう。

 『革命について』などにおいても、アーレントが繰り返し主張していたことだ。

 ではここでいう「自由」とは何か。アーレントは言う。

自由は欲すると為しうるとが一致する場合に初めて生まれるのである。


 至言だろうと思う。

 「我欲する」と「我為しうる」とが一致する時、ここに私たちは「自由」の感度を得ることができる。

 さて、しかしわれわれの生においては、「我欲する」がいつでも「我為しうる」と一致するというわけにはいかない。

 われわれは、何よりもまず、他者たちとともに生活しているからだ。

 そこで政治とは、この他者たちと共に生活するという条件の中において、われわれがなお「自由」を獲得しうるにはどうすればいいかを追求するものということになる。

自由は、たんなる解放に加えて、同じ状態にいる他者と共にあることを必要とし、さらに、他者と出会うための共通の公的空間、いいかえれば、自由人誰もが言葉と行ないによって立ち現われうる政治的に組織された世界を必要とした。

 このことを最も自覚していたのは、古代ギリシアの人々だった。

 しかしそれが、近代以降、ルソーらによって誤った「自由」概念が広まり政治は一気に暴政へと突っ走ってきた。そうアーレントは主張する。

 ちなみに、『革命について』のページにも書いたが、アーレントのルソー批判を私はかなり不当なものと考えている。また、われわれは再び古代の政治的自由の伝統を取り戻すべきだ、というのが本稿におけるアーレントの最後の主張なのだが、この点についても私はやや批判的だ。

 ルソー、ヘーゲルにおける近代政治哲学の頂点は、私の考えでは古代のそれより問題圏をかなり進めたものに鍛え上げられている。ここで詳細を論じる余裕はないので、この点については、ルソー『社会契約論』、ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』などのページを参照していただきたい。


3.「教育の危機」

 アーレントの教育論についても紹介しておこう。

 現在、教育は荒廃している。その理由は、一言でいえば教育が「権威」を失ったからである。そうアーレントは言う。

 はっきりとは言われていないが、これは、当時のアメリカにおけるいわゆる「児童中心主義」を掲げた「進歩主義教育運動」への批判であろう。実際アーレントは、この教育運動の中心人物であったデューイを、その名こそ挙げていないが、「プラグマティズム」を批判するという仕方で、間接的に批判しているようにみえる。

 教育の本質を、アーレントは次のように述べている。

子供がまだ世界を知らないならば、かれは徐々に世界に導かれねばならない。子供が新参であるならば、この新しいものが現にある世界に照らしてその真価を発揮できるように配慮されねばならない。



「教育において、世界へのこの責任は権威の形式をとる。〔中略〕教師の資格は、世界を知り、それを他人に教えることができる点にあるのに対し、教師の権威はかれがその世界への責任を負う点に基づく。子供と相対する場合、教師は大人の住民全体の代表者であるかのごとく、子供に事細かに指示し、語るのである。これがわれわれの世界だ、と。

権威を見捨てたのは、大人であった。これが意味するのはほかでもない、大人は子供を世界のうちに導き入れながら、その世界への責任を負うのを拒絶している、ということである。

 教育とは、大人が責任をもって子供を世界へと導くということを本質的営みとするものである。にもかかわらず、近年の進歩主義教育は、子供の世界を絶対化することでこの責任を放棄している。そうアーレントは言うわけだ。

 私の考えでは、この批判はデューイ以降のいわゆる素朴なデューイ主義者に対する批判としてであれば、一定の妥当性がある。

 しかしもしデューイ批判として捉えるならば、それはかなり的をはずしたものである。まさに、大人が子どもたちを責任をもって世界に導くためにこそ、デューイは、それが単なる教え込みにとどまるのではなく、子どもたち自らの探究を主軸に据えた、民主主義社会の担い手を育みうる教育を提唱したのだ(デューイ『民主主義と教育』のページ等参照)。

 デューイ的思想とアーレント的思想の対立は、現代教育においてもなお深刻に続いているものである。この対立については、拙著『どのような教育が「よい」教育か』(講談社、2011年)でこれを解消する理路を提示したので、ご興味のある方にお手にとっていただければ幸いだ。
 

(苫野一徳)


Copyright(C) 2012 TOMANO Ittoku  All rights reserved.