ディルタイ『教育学論集』


はじめに



 哲学の目的は、人間精神の陶冶にこそある、とディルタイは言う。

「すべての真の哲学の成果と目標とは、最広義の教育学、つまり人間形成の学である」

 本書には、そんなディルタイの教育学的考察がまとめられている。

 と言っても、ディルタイ自身は、これをしっかりとした体系に仕上げることはなかった。

 ディルタイの哲学は、体系的に考え抜かれた哲学というより、随所に洞察が光る、断片的思考として展開されている印象がある。

 それはディルタイ自身の性向のゆえでもあっただろうが、もっと言えば、彼が時代の過渡期に活躍した思想家であったからだろう。

 一切は「科学」で解明でき分析できると考えられるようになりつつあった19世紀当時の学問状況において、思想界からは、徐々に、そうした素朴科学主義に対する疑問の念が沸き上がってくるようにもなった。

 われわれは、「人間精神」それ自体を、単なる自然的物体として科学的に理解することなどできないのではないか。

 ディルタイは、そのような問題意識を、最も早い時期にもって思索を重ねた思想家の1人だった。

 しかしそれゆえに、残念ながら、その思索はまだ断片的で、十分深められたものとは言えないように私は思う。

 「科学」的思考に収まり切らない、「人間」を洞察する学的方法、より正確に言えば、科学的思考さえも底で支える、最も原理的な思考の方法は、私の考えでは、この後のフッサール現象学によって考え抜かれることになる。(フッサールも、ディルタイは問題意識はよかったが方法的には不徹底であったと言っている。『イデーンⅠ』のページなど参照。)

 実際本書においても、ディルタイの思索は十分底に届いていないように私には思われる。

 以下ではそのことも含めて本書を紹介していきたいが、しかしそうは言っても、教育の絶対的究極目的を相対化し、「普遍妥当的教育学」の不可能性を論じたディルタイの洞察は、デューイに先駆ける、今なお教育学にとってきわめて重要な功績と言うべきだろう。


1.教育学の目的と方法

「教育学は、その目的に関する知識を倫理学から受け取らねばならないし、また教育がこの目的を実現しようと努力する際には、個々の事象と手段とに関する知識を心理学から受け取らなければならない。」

 教育学の目的は倫理学にあり、その方法は心理学にある。

 ヘルバルト以来の、ドイツ教育学の伝統をディルタイもまた踏襲する。(ヘルバルト『一般教育学』のページ参照)

 しかしここで、ディルタイは次のように言う。

「しかし倫理学はこの生の目的を普遍妥当的に規定することは不可能である。これはすでに道徳の歴史から認められうることである。」

 時代を超えて普遍的に妥当する道徳などはない。

 それゆえ教育学の目的もまた、何らかの絶対的なものでありうるはずがない。

 そうディルタイは言うわけだ。

 こうしてディルタイは、デューイに少し先駆けて、教育における絶対的究極目的の概念を相対化した。(デューイにおける教育の究極目的の相対化については、『民主主義と教育』のページなどを参照。)


2.心理学的教育方法

 以上のように、教育の究極目的などはあり得ないが、しかしその「方法」については、われわれは一定の法則性を見出すことができるはずだ。そうディルタイは言う。

 それは、いわば心理学的な規則である。

心的連関の内部で、特定の部分を完成するための歩みとその補助手段とを前もって指図する公式を、われわれは教育的規則と呼ぶのである。」

科学的洞察に基づく教育の手段は、科学の成長とともに絶えず成長する。」


 心的連関の法則性を科学的に見出すことで、われわれは、子どもの成長発達に応じたより意義深い教育的営みができるはずである。そうディルタイは言うわけだ。

 この論考より後、ディルタイは独自の「精神科学」を提唱することになる。それは、外部実在としての自然を扱う自然科学とは異なり、自然とはまた違った法則性をもつ、人間精神の科学的解明を旨とする学である。

 要するにディルタイは、人間独自の精神の法則を洞察し、これに基づいた教育方法を編み上げる必要があると考えたのである。


3.ディルタイ教育学の問題

 以上みてきたディルタイの考えは、確かに十分妥当であるように私は思う。

 しかし、人間精神を洞察するための方法論とはいったいどのようなものなのか、ディルタイの記述からは結局のところよく分からない。特に、それが自然科学とどのように違うのか、余りはっきりしていない。

 それゆえ本書の記述からは、ディルタイが対決したかったはずの科学絶対主義から、彼が十分脱却し得ているようには残念ながら思えない。

 そればかりか、ディルタイは、教育の究極目的を形而上学的に導出することができない以上、教育の個別目的は人間の心的法則から導出するほかないと言うのだが、その際、彼はその心的法則の洞察方法を、自然科学とは異なった本質を持つものとして十分提示することができなかった。

 それゆえ、彼の教育目的論は、ずいぶん中途半端というか、若干の危うささえ潜ませたものになってしまっているように私は思う。

 というのも、彼は次のように言っているからである。


形而上学的な諸原理からひとつの目的が導き出されるべきではないとすれば、規則的なものが自己に根拠づけられたものとして見いだされうるのは、心的生がひとつの目的論を自己のうちに含むときだけである。

われわれは、このような特性を自ら持っている行為を、合目的的なものと呼びたい。ところで、合目的性というこの特性は、被造物の有機的組織の諸機能や、外界の条件と彼の行為との間の因果関係によって、その被造物を洞察することから生み出されよう。

 教育の目的は、被造物の規則的な心的因果関係から見出される。

 これは、下手をすれば科学主義的な決定論的目的論へと至りかねない考えだ。

 われわれの心的法則は、このようなものである、したがって、教育の目的はこれに従い決定されるべきである。

 ディルタイはそう言うのだが、このような考えは、ディルタイより数十年遅く生まれたウェーバーによって、「存在」から「当為」を導出する考えであるとして厳しく戒められている。

 私たちは、「世界(や人間)はこうなっている」、したがってわれわれは「こうすべきである」などと、両者を直接的に結びつけるわけにはいかない。「科学」は「価値」や「当為」を導けるようなものではない、と、ウェーバーは強く主張するのである。

 その詳細な理由はウェーバー『客観性論文』のページを参照していただきたいが、ともあれ以上のようなわけで、ディルタイの教育思想は、その独自の精神科学の徹底した方法論(思考の方法)を鍛え上げることができなかったがゆえに、結局のところ科学主義的価値論へと巻き込まれてしまう危うさから逃れることができなかったように私には思われる。

 冒頭でも述べたように、教育の目的や価値を何らかの仕方で論じることができるとするなら、その最も原理的な方法は現象学にある。私はそう考えている。この点詳細については、拙著『どのような教育が「よい」教育か』(講談社、2011年)をお読みいただければ幸いです。


(苫野一徳)



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