ベック『世界リスク社会論』

はじめに

 9.11の後と前の、2つの講演をもとに編まれた本書。

 予見も制御もきわめて困難になってしまった、世界大化したリスクを抱える現代社会。ベックはこれを、世界リスク社会と名づける。

 福島の原発事故を経験した私たちにとって、それはあまりにリアリティのある言葉である。

 ベックは言う。今日、科学技術の統制は一国内の問題である。しかしそこで起こる問題は、一国内を超えてグローバル化する。

 まさに私たちは、原発事故が、国内にとどまらずいかに世界的に大きな影響を与えるかを目の当たりにした。

 しかもこのリスクは、従来のような保障可能性を超え出るような甚大なものである。

 原発事故による天文学的な損害賠償金は、もはや保険によって対処可能な次元のものではない。

 世界リスク社会、それはまさに、きわめて制御困難な、世界大のリスクを抱える社会なのである。

 しかしベックは言う。

 この世界リスク社会の危機を十分に認識することで、私たちは、このことを次の世界社会のための大きなチャンスに変えていくことができるし、また変えていかなければならないのだと。

 それは、グローバルな協調体制法整備への道である。

 いかにして各国が国際的な協調体制を構築しうるか。これは、現代社会最大の課題の1つなのである。

 今や若干「一般論」になってきた感もあるが――それはむしろ喜ばしいことだが――私もまた、ベックのこの主張には大いに賛同する。


1.世界リスク社会とは

 本書を、ベックは印象的なエピソードから書き起こす。

 アメリカの議会が、ある科学委員会に、1万年後の人類に放射性廃棄物の最終処理場を伝える方法を開発するよう要請した。

 「現在」の人類がいなくなっても、その場所が危険だということを伝えるにはどうすればいいか。

 委員会の出した答え、それは、そのようなメッセージを伝える方法はおそらくない、ということだった。

 ベックは言う。

「核エネルギーについての過去の決定、そして遺伝子工学や人体遺伝学やナノテクノロジーやコンピューター科学の利用に関する現在の決定によって、わたしたちは、予見できず、制御不可能な、それどころかコミュニケーションを取ることが不可能な結果をもたらし、そのことによって地球上の生命を危険にさらしているのです。

 ここに、世界大になった、そればかりか、未来の人類や地球さえも巻き込んだ、世界リスク社会の姿がある。

 世界的なリスクには、具体的にどのようなものがありうるか。ベックは次の3つを挙げている。

世第一に生態系の危機、第二に世界的な金融危機、第三に同時多発テロ以降の国境を超えたテロネットワークによるテロの危険性のことです。」

 1つめの生態系の破壊とは、言うまでもなく、科学技術の進歩によるグローバルな問題である。

 2つめの世界的な金融危機について、ベックは、グローバルなリスクが蔓延する世界において、政治と国家を経済に取り替えるという新自由主義のスローガンは、急速にその信憑性を失いつつあります」と言っている。


 新自由主義は、国家をできるだけ小さなものにして、規制緩和を推し進め、世界経済を徹底的に自由化しようとしてきた。

 ところが、何の統制もない放埒な経済活動は、世界的金融危機のリスクを高めるだけでなく、テロの前にも無防備であることが分かってしまった。

 グローバル化したテロの問題に、経済的利益最優先の一企業が対応することなど、不可能であるからだ。

 その問題は、たとえば9.11に見ることができる。このテロを防ぐことができなかった1つの要因は、アメリカの航空会社民営化にあった。ベックはそう指摘する。

「アメリカがテロ攻撃の目標であるということは、はじめからわかっていました。にもかかわらず、アメリカでは航空機の安全は民営化され、非常にフレキシプルなパート労働者による『奇跡的な就業の創出』によって実現されました。しかし、彼らの賃金は、ファストフード店の従業貞以下、時給約6ドルというものなのです。」

 しかしベックは、新自由主義に代えて、国家主義的な保護主義をとるべきだとは主張しない。重要なことは、経済一辺倒になるのではなく、いかに国家間の協調を法制化しうるかということなのだ。


2.世界リスク社会をチャンスにできるか

 そこでベックは言う。われわれはこの危機を、むしろチャンスとして捉え直すべきである、と。

 それは具体的には、次の3つの可能性として描かれる。すなわち、1.国際的な法基盤の構築、2.対話による政治の重要性の認識、3.コスモポリタン的複数国家の協力構造への意識の高まりである。
 
 要するに、この世界大化した危機の時代において、各国は、国際的な協調関係の構築へと向けて、建設的な努力へと向かうだろうし、また向かわせなければならないと言うわけだ。

「確実に言えるのは、世界リスク社会というようにわたしたちが認識した苦境において、『世界市民社会』(カント)が、その輪郭を得るようになるということです。

 したがって今後の国家は、逆説的に、自国の利益のためにも、脱/超国家化しなければならないことになる。

「諸国家は、自国の利益のために、脱国家化しなくてはいけないし、超国家化しなくてはいけません。つまり、グローバル化された世界において自分のナショナルな問題を解決するために、自己決定権をある程度、放棄しなくてはいけないのです。

 いかにして各国が国際的な協調体制を構築しうるか。これは、現代社会最大の課題の1つなのである。


3.保障可能性の限界

 以上が本書の核だが、2つめの講演において、ベックは2つの興味深い、そして重要な概念を提示しているので、その点についても触れておくことにしたい。

 1つは、「保障可能性の限界」という概念、2つは、「サブ政治」という概念である。

 保障可能性の限界とは、世界リスク社会においては、その被害があまりに甚大であるため、もはや保険が機能しなくなるという問題である。

 ベックは、とりわけチェルノブイリ原発事故によって、この思いを強くした。

 私たちにとってもまた、この問題はまったく人ごとではない。冒頭でも述べたように、福島原発事故を経験した私たちにとって、この保障可能性の限界の問題は、きわめてリアリティのある問題である。

 福島の原発事故の損害賠償を徹底しようとするならば、天文学的な金額になると言われている。それはもはや、保険によって対処できるような次元のものではない。

 さらにまた、ベックは次のようにも言っている。

 科学技術の管理は、いまだ一国内の問題である。しかしそのことによって起こる被害は、グローバルな問題である。

「一方で、科学的、技術的、経済的推進の決定がいまだに国民国家と経営体の枠でなされているのに対し、他方では、その脅威にさらされた結果、わたしたちはみんな世界リスク社会の成員になってしまっているのです。

 保険の無効化と、国内問題の世界への影響、こうした問題が、私たちに世界リスク社会の問題をまざまざと見せつける。


4.サブ政治

 2つめの重要概念は、「サブ政治」である。

 ベックは言う。以上のような世界リスク社会の問題に対処するため、われわれは新しい政治概念を必要とするのだと。

 それこそが、ベックが「サブ政治」と呼ぶものである。

 それは、NGOに象徴される下からの政治の概念である。

「『サブ政治』という概念は、国民国家の政治システムである代議制度の彼方にある政治を志向しています。その概念は、社会におけるすべての分野を動かす傾向にある政治の(最終的にグローバルな)自己組織化の兆しに注目します。サブ政治は、『直接的な』政治を意味しています。つまり、代議制的な意思決定の制度(政党、議会)を通り越し、政治的決定にその都度個人が参加することなのです。」

 グローバル社会におけるサブ政治は、グローバル化した諸問題に中々対処し得なくなった国内政治、国際政治に、下からの政治力学を持ち込むことで対処しようとする。

 ベックは次のような例を挙げている。

 1995年、グリーンピースは、石油多国籍企業シェルを、採掘ボーリング島を解体したものを大西洋に沈めずに、陸地で廃棄するよう導くことに成功した。

 国際的ルールの欠如ゆえに起こる環境破壊問題に、グリーンピースは、グローバルな市民活動を通して対処したのである。

 そしてベックは言う。

 こうした動きをみてみれば、グローバル化は民主主義の衰退をもたらすとか、伝統的価値の崩壊によって個人のモラル低下をもたらすとかいったグローバリゼーション批判が、実に浅薄なものであることが分かるはずである、と。

 私たちは、世界リスク社会を認識することで、共にこの問題に立ち向かおうとしているのである。

「危険というものを意識化することによって、世界リスク社会は自己批判的になります。〔中略〕政治的なものがこれまでとは違った形で新たに生まれ、噴出します。しかも、公的な権限やヒエラルヒーを超えたところでそうなります。


 鋭い現実認識に基づいたベックのこの見方には、私も同意する。


(苫野一徳)




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