フクヤマ『歴史の終わり』

はじめに

 1992年に出版された本書は、世界各国で話題を呼び、賛否両論の激しい議論を巻き起こすことになった。

 「歴史の終わり」とは何か。それは、東西冷戦を終えた今、リベラル民主主義が世界中に普遍化していくことである。人類は、リベラル民主主義以上の政治体制を持ち得ない。

 フクヤマのこの主張は、ソ連崩壊後の世界のゆくえを見守っていた多くの人たちに、きわめて多大な思考の材料を提供した。


 「歴史の終わり」という概念を、フクヤマはカントヘーゲルの思想から継承提起した。

 フランス革命ナポレオンの登場を目撃したヘーゲルは、自由を求めて争い合ってきた人類が、ついに、自らが自由を得るためには他者の自由もまた承認するほかに道はないのだという、「自由の相互承認」の社会原理を手にしたと考えた。そして、この社会原理があまねく世界に受け入れられた時、自由を求めて争い合ってきた人類の歴史は終わるのだ、と。(ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』のページ等参照)

 フクヤマは、このヘーゲルの洞察を現代的に継承した。

 ヘーゲル以降、人類は、全体主義共産主義等による、凄惨な殺戮の歴史を経験してきた。しかしフクヤマは言う。ヘーゲルの洞察は間違っていたわけではない。むしろこれらの歴史を通して、ついに人類は、真の意味で「歴史の終わり」を目撃しようとしているのである、と。

 東西冷戦の終結によって、人類は、リベラル民主主義だけが、われわれにとっての最高の政治体制であることを知ったはずである。リベラル民主主義の普遍化こそが「歴史の終わり」を意味するのである。

 もっとも、この「歴史の終わり」という言葉は、きわめて誤解を招きやすいものである。実際、この一見いかにも目的論的な歴史観には、その後おびただしい批判が浴びせられることになった。

 歴史はある目的に向かって直線的に「進化」するようなものではない、とか、リベラル民主主義以外にも、人類には多様な社会のあり方があるのであって、これを尊重しなければならないのだ、とかいった批判である。

 確かに、フクヤマの歴史観には目的論的な「匂い」が少しある。歴史には目的があり、人類はそこへ向かって歩んでいるのだという、決定論の「匂い」が少しある。

 しかしそれは、決して検証することのできないものである。歴史が目的を持ち、人類はそこへ向かうよう決定されているのかどうか、私たちは決して知り得ない。

 しかしそれでもなお、私の考えでは、フクヤマの考えにはかなりの妥当性がある。

 「歴史の終わり」という言葉を、私たちは、自由を求めて争い合ってきた人類が、リベラル民主主義の普及によって、今やその争いの歴史に終わりを告げようとしているのだ、という、そのような意味の言葉として提示されたのだということを理解しておく必要がある。

 もっとも私の考えでは、リベラル民主主義の普遍化によって歴史は終わる、と言うよりも、もしも私たちが自由を求める闘争を終わらせたいと思うのだとするならば、そのための最大の条件は、リベラル民主主義をできるだけ普遍化していくことである、と言った方が、より説得的であったろうと思う。

 このブログにも何度も書いているように、私の考えでは、力強い哲学は、決定論的な書き方も要請論的な書き方もしない。もしも私たちがこのことを欲するのであれば、そのための「条件」はこうである、という、広範な検証に開かれた条件解明・提示型の書き方をする。

 それはともかく、私もまた、フクヤマの言うように、リベラル民主主義をできるだけ普遍化していくこと――私の言い方だと、「自由の相互承認」の社会原理を普遍化していくこと、となるが――こそが、人類の凄惨な命の奪い合いをできるだけ軽減させることのできる最大の条件だと考えている。
 
 その理由については、拙著『自由はいかに可能か—社会構想のための哲学』(NHKブックス、2014年)などに詳論しているのでご参照いただければ幸いだ。


 さて、しかし本書におけるフクヤマの議論は、ただに、リベラル民主主義の勝利と普遍化を主張することだけにあるわけではない。

 本書の後半で検討されるのは、リベラル民主主義は、本当にわれわれ人間の本性に沿った社会のあり方と言えるのだろうか、という問いである。

 ヘーゲルが丹念に論じたこと、それは、人間の自由への欲望は、何よりも他者からの「承認」を求めるという仕方で展開する、ということにあった。

 フクヤマは、これを「気概」とか「優越願望」とかいった言葉で描き直す。

 人間にはこの「優越願望」が本性的に備わっているのであり、そうである以上、万人が「対等」だとするリベラル民主主義は、実は内部から崩壊せざるを得ないのではないか。フクヤマはそう問うわけだ。

 しかしフクヤマは言う。われわれは、それでもなおリベラル民主主義を捨て去ることはできない。むしろわれわれは、この「優越願望」に、政治や経済やスポーツといった、何らかのはけ口を用意してやる必要があるのだと。

 この点、私は大筋では納得しているが、少し修正が必要ではないかとも考えている。

 まず、私の考えでは、フクヤマは人間の「承認欲望」を、あまりに「優越願望」と結びつけすぎている。

 実はヘーゲルは、人間の「承認欲望」、あるいは「承認関係」の最高形態を、「事そのもの」という概念で描き出している(『精神現象学』のページ参照)。私なりにかなりパラフレーズして言うと、それは、私にとってほんとうの「事そのもの」が、他者にとってもほんとうの「事そのもの」であると承認された時、私たちはそこに最高の自由の感度を見出すことができる、ということになる。

 人は、できることなら、これこそが私にとってほんとうの仕事だ、ほんとうの生き方だ、ほんとうの音楽だ、ほんとうの学問だ、といった、ほんとうの「事そのもの」を生きたいと欲している。そして、もしもそのような「事そのもの」が、他者にとっても「事そのもの」だと承認された時、私たちは、そこに最高の自由の感度を見出すだろう。ヘーゲルはそう言うわけだ。

 これはきわめてすぐれた洞察だと私は思う。ヘーゲルの「事そのもの」論は、いわば、われわれ人間が欲する「自由」や「承認」の、その普遍的で本質的なあり方を洞察したものである

 この洞察に比べれば、フクヤマの言う「優越願望」は、人間が欲する「承認」の普遍的本質とは言えず、あくまでも、一部の人にとっての、承認欲望の一つの満たし方にすぎない、と私は思う。

 それゆえ私たちは、フクヤマとは異なり、リベラル民主主義は人間の「優越願望」を満たしうるか、と問うのではなく、「事そのもの」ゲームの最大条件たりうるか、と問う必要がある。私はそう思う。

 そして私は、まさにリベラル民主主義(自由の相互承認の原理)こそが、「事そのもの」ゲームの最大の条件である、と言いたいと思う。
 
 市民各人の自由が、まず相互に承認されているということ。生き方の多様性への自由が、まず承認されているということ。このことこそが、すべての人たちが、自らにとってのほんとうの「事そのもの」を探究できる、最大の条件であるに違いないからだ。

 フクヤマの議論に私は大筋では納得しているが、哲学的にはもう少し原理的につめるべき箇所が多くある。私はそう思う。

 評が長くなったが、以下、本書の内容を紹介していくことにしよう。



1.リベラル民主主義の普遍化

 ソ連崩壊の理由、それは、経済的な困難だけでなく、共産主義による思想統制に、多くの人が我慢ならなかった点にある。

「全体主義のもっとも根本的な失敗は、思想をコントロールしそこなったことにあるのだ。旧ソビエト市民は、いまにしてわかることだが、自立の精神をずっと失わずにいたのである。」

 全体主義的統制に、人は屈することができない。ソ連崩壊が顕著に物語っていること、それは、われわれはもはや、リベラル民主主義のほかに、最善の政治形態を持ち得ないということである。

「リベラルな民主主義だけが、世界のこのような地域でも広く正統性を享受できる唯一の首尾一貫したイデオロギーなのである。この地域にいま暮らす人々の生きているあいだは、民主主義への移行は無理だとしても、次の世代にはそれが実現できるかもしれない。西欧におけるリベラルな民主主義への移行は長くつらい道のりではあったが、それでも最後にはどの国も民主主義への旅をまっとうすることができたのである。

人類史の過程では、これまで君主政治や貴族政治、神権政治、そして今世紀のファシズムや共産主義独裁など各種の政権が登場してきたけれども、二十世紀の終わりまで無傷で生きながらえた政府形態はリベラルな民主主義のほかにはなかった。


2.「歴史の終わり」という概念

 「歴史の終わり」という概念は、哲学史上カントヘーゲルに由来するものだが、その背景には、言うまでもなくキリスト教がある。そうフクヤマは言う。

「キリスト教は、神の人類創造とともにはじまり神の最後の救済とともに終わる有限な歴史という考え方を持ち込んだ。」

 この歴史観について、フクヤマは肯定するのでも否定するのでもない書き方をしている。しかし「歴史の終わり」という概念については、彼は明確に、これを継承すると述べている。

 それは、カントやヘーゲルが言う、人間的「自由」の実現である。そしてそれは、リベラル民主主義の普遍化によって可能になるのだと。

 そしてフクヤマは言う。20世紀は悲観主義の時代であった。2つの世界大戦に、全体主義による大虐殺、そして、核兵器の登場。未来を悲観せざるを得ないこうした事件を前にして、思想界もまた、悲観主義を助長する方向へと思索を進めた。

 しかしフクヤマは、未来を楽観する。そして、悲観主義的思想を次のように批判する。

「たしかに、期待が裏切られたうぶな楽観主義者が愚か者に映る一方で、悲観主義者の場合は、自分の誤りが明らかにされても、なおその周囲に深遠さや真摯さといった雰囲気がただよいつづける。だから、楽観論よりは悲観論の道を選ぶほうが安全なのだ。」


3.「自由」への欲望

 なぜ、世界はリベラル民主主義へと歩を進めるのだろうか。フクヤマは言う。それは、ヘーゲルが言うように、私たちが「自由」への欲望を本質的にもっているからだ。

 この自由への欲望は、端的には「承認欲望」として現れる。ヘーゲルを継承しながら、フクヤマはそのように言う。

人々は、いつの時代も経済面を度外視して、民主的権利を獲得するために命や生活を捧げて戦ってきた。このような民主主義者なしに民主主義はあり得ない。」

「ヘーゲルにとって人類史の原動力とは、近代自然科学ではなく、また近代自然科学の発展をうながした無限に膨らみつづける欲望の体系でもなく、むしろ完全に経済とは無関係な要因、すなわち承認を求める闘争(他者から認められようとする人間の努力)にあった。(*注:邦訳では「承認」ではなく「認知」と訳されているが、ヘーゲル『精神現象学』では「承認」と訳されており、また現代の政治哲学でも「承認を求める闘争」という言い方が一般的になっているので、ここでは訳語を「承認」で統一する。)


4.優越願望

 ここでフクヤマは、他者からの「承認」という仕方で自由を求める人間、というヘーゲルの思想を継承することで、それまで支配的だったアングロ−サクソン的な「自由」の概念を編み変えることを提起する。

 それは端的には、ホッブズロックに由来する自由概念である。

「ホッブズの定義によれば、何かの行動を物理的に抑制されていない人間は『自由』だと見なされる。」

 しかしフクヤマは言う。

「反対にヘーゲルは、人間についてのまったく異なった理解から出発する。人間はみずからの物理的・動物的な性質によって決定されるものではない。しかも人間のまさに人間たるゆえんは、そうした動物的な性質を征服し否定するみずからの能力のなかにあるというのだ。」

人間的な自由とは、人がみずからの自然的・動物的存在を乗り越え、自分の手で新しい自己を創造できたときにはじめて出現する。この自己創造プロセスを象徴するような出発点が、純粋な威信を求める死闘なのだ。」


 「自由」とは、単なる抑圧からの解放を意味するのではない。それは、自らのより積極的な自己創造によってこそ可能になるものなのだ。

 フクヤマは、これを「気概」「優越願望」という言葉として描き直す。人間が「自由」になるためには、この「気概」や「優越願望」が満たされる必要があるというわけだ。

 しかしフクヤマは言う。リベラル民主主義社会は、こうした「気概」や「優越願望」を、中々容易には満たしてくれないような社会である、と。

「『優越願望』にとって代わったものは二つある。第一には、魂のなかの欲望の部分が、生活の徹底した経済化という形をとって開花したのだ。」

「『優越願望』にとって代わったものの第二は、強い浸透力をもつ「対等願望」、すなわち他人と対等な存在として認められたいという欲望である。」

 現代社会では、すべてが経済効率ではかられる。経済を無視した「気概」は、単なる向こう見ずである。

 そしてまた、現代社会では、すべての人間が「対等」であるとされる。人々は、優越願望を削ぎ落とされ、ただただ対等でありたいと欲するよう教育されている。


5.最後の人間と、優越願望のはけ口

 優越願望を削ぎ落とされたこのような人間を、フクヤマはニーチェにならって「最後の人間」と呼ぶ。そして言う。

長い目で見ればリベラルな民主主義は、過度の『優越願望』、あるいは過度の『対等願望』――平等に認められたいという熱烈な欲望――によって内側から覆される恐れがある。」

 したがって、民主主義の長期にわたる健全性と安定度は、『優越願望』が市民の役に立つような形での良質かつ多数のはけ口をもつているかどうかにかかっている。」


 ではそれには、どのようなものがありうるだろうか。

 経済ゲーム、政治ゲーム、スポーツといったものが、その代表として挙げられるだろう。そしてまたフクヤマは、コジェーヴが江戸時代の日本にみた、貴族主義的芸術にもまた可能性を見出そうとする。

「コジェーブによれば、日本は『十六世紀における太閤秀吉の出現のあと数百年にわたって』国の内外ともに平和な状態を経験したが、それはヘーゲルが仮定した歴史の終末と酷似しているという。そこでは上流階級も下層階級も互いに争うことなく、過酷な労働の必要もなかった。だが日本人は、若い動物のごとく本能的に性愛や遊戯を追い求める代わりに――換言すれば「最後の人間」の社会に移行する代わりに――能楽や茶道、華道など永遠に満たされることのない形式的な芸術を考案し、それによって、人が人間のままでとどまっていられることを証明した、というわけだ。」
「茶道は、純粋な貴族崇拝という形をとった『優越願望』の活躍の舞台である。茶道や華道ではさまざまな流派が互いに競い合い、それぞれが師匠と弟子と伝統、そして出来ばえのよしあしの規範をもっている。」


6.同じゴールを目指す幌馬車隊

 本書の最後を、フクヤマは次のように締め括っている。



「人類は、さまざまな美しい花を咲かせる無数の芽というより、むしろ一本の道をひと続きになって走る幌馬車の長い隊列に似てくるだろう。きびきびと敏速な足どりで町に立ち寄る馬車もあれば、砂漠に戻って野宿したり、山越えの最後の峠で溝にはまったりする馬車もある。馬車の何台かはインディアンに襲われ、火をかけられて道端に置き去りにされてしまうだろう。戦いで気が動転し、右も左もわからなくなって一時とんでもない方角に向かう御者もいれば、旅に飽き、道のどこかまで引き返して定住地を探そうとする人々もいるはずだ。主街道とは別のルートヘ入り込んでしまったあとで、最後の山々を越えるにはみんなと同じ道を通るべきだったと気づく一行もある。だが、幌馬車隊の大半は町をめざしてのんびりと旅を続け、大部分は最後にはそこに到着するだろう。」

 人類は、やがてリベラル民主主義の普遍化に辿り着くだろう。

 フクヤマのこの予言を、私は、決定論的な言い方としてではなく、それこそがおそらく人類にとって最も「望ましい」未来のあり方なのだという、哲学的な理念提示として捉え直したいと思う。


(苫野一徳)



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