大乗仏典『金剛般若経』

はじめに

 大小さまざまな経典群からなる『般若経』は、すべての大乗経典の基礎をなす経典だ。

 「般若」は「知恵」の意味。『般若経』は、知恵によって彼岸に到達することを説いたものである。

 その根本思想は、「空」。有名な「色即是空」「空即是色」である。

 形あるものもまた、実は「空」(=非存在)である。したがって、我執などせんないものなのである。

 『般若経』では、こうして、我執を捨て去ることの重要性が繰り返し説かれる。

 大乗仏教以前の、仏教の各学派、あるいはインド哲学の思想は、すべて「有」の思想だった。何がしかの、真実在の思想がそこにはあった。

 しかし『般若経』は、そうした一切の「有」を否定する。この世は「有」ではない、「空」なのである。

 このことを悟ることなくして、我執を捨て去ることはできない。

 『般若経』における「空」へのこだわりは、その表現の隅々にまで行き渡り、実に徹底している。

 しかし、なぜ一切は「空」であるのか、といった問いについて、『般若経』は論理的に説くことをしない。ただただ、一切が「空」であることが説かれるのみである。(その理由が論理的・哲学的に考察されるのは、「第二の仏陀」とも呼ばれる大乗仏教の体系者、ナーガールジュナ(龍樹)『中論』以降においてである。)

 今回ご紹介する『金剛般若経』は、『般若経』の中でも比較的短い経典だ。なぜか「空」という言葉は一度も出てこないが、その思想の真髄が表現された、大乗仏典古典中の古典である。


1.我執なき菩薩

 『金剛般若経』は、仏陀と、仏陀の弟子の長老スブーティとの対話から成っている。

 まずスブーティが問う。

「世尊よ、良家の男子にせよ、女子にせよ、すでに菩薩の道(菩薩乗)にはいった者は、どのように生活し、どのように実践し、どのように心を保つべきでしょうか」

 これに対して仏陀は言う。

「菩薩に衆生という観念(想)があるなら、彼は菩薩とよばれることがありえない」
わたくしという観念が生じるなら、あるいは衆生という観念、命あるものという観念、個我という観念が生じるなら、彼は菩薩とよばれることがありえない」

 仏教の修行者は、我執なきものでなければならないし、また、そうあるからこそ菩薩と呼ばれうる。そう仏陀は言うわけだ。


2.知恵の完成

 そのような我執なき菩薩(修行者)の道は、「知恵の完成」と呼ばれる。そう仏陀は言う。

 そしてここでも、仏陀の語りには「空」の思想が通底している。

「スブーティよ、この法門の名は『知恵の完成』(般若波羅密多)である。そのように、これを受持するがよい。それはなぜか。スブーティよ、如来によって説かれた『知恵の完成』は、すなわち完成ではないと、如来は説かれるからである。だから、『知恵の完成』と言われる」


3.大乗仏教の「論理」について

 このように、完成ではないからこそ完成である、とか、菩薩は菩薩でないから菩薩である、とかいった論理が、大乗仏典には頻繁に出てくる。

 一切が「空」である以上、「◯◯は〜〜である」という命題の立て方が躊躇われるからだろう。

 否定に否定を重ね続けることで命題を表現しようとするその論理は、この後モークシャーカラ・グプタの大乗論『認識と論理』で徹底的に洗練されることになる。

 しかしそれは、グプタ自身言うように、結局のところたいていは帰謬論に陥ることになる。それで構わない、むしろそれこそが真の論理である、というのが大乗仏教の基本的な構えのように思われるが、私はこの点については批判的だ(詳細は『認識と論理』のページ参照)

 「空」の思想を徹底するなら、言葉の用い方もまた、常に「非」といい続けることになるだろう。それはそれで、我執からの解脱を説く宗教思想としては妥当だろうし、また実際、この思想によって多くの人が救われ続けてきたことも事実だろう。そして個人的にも、この思想にはかなりの親和感がある。

 しかし哲学的には、こうした帰謬法の論理は、カントフッサールを通して批判的に乗り越えられたものだと私は考えている。

 一切に「非」を言い続けるためには、ある意味では強靭な精神力と思考力が必要だ。

 しかし、「非」の論理を超えて、積極的に共通了解可能な論理を紡ごうとするそのような哲学的思考は、さらになお強靭であると私は思う。とりわけフッサール現象学には、帰謬論を原理的に封じ込めた、極めて徹底的に考え抜かれた思考法がある。(詳細はフッサールのページを参照)

 私は仏教思想が好きで、『般若経』に代表される「経」には特に心打たれるが、これが「論」となり哲学となった時には、哲学徒として、どこまでその論が鍛え抜かれているかに関心を持つ。

 仏教学者の方からすれば、私が浅薄な知識で仏教を論ずるなど片腹痛いことだろうと思う。その点実際汗顔の至りだ。

 しかしそれが哲学的議論としての「論」となれば、その理路のエッセンスなら掴めるし、それを私の知る限りの哲学的思考と比較することもできる。

 そしてその観点から言えば、大乗仏教の「論理」は、哲学的に、いま一歩原理性に欠けているように私には思われる。

 その詳細については、先述したように、大乗論『認識と論理』のページを参照していただきたい。

 


(苫野一徳)




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