ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』




はじめに


 「リベラル・アイロニスト」たちからなる社会。

 ローティは本書で、そのような社会のあり方を描き出す。


 アイロニストとは何か。それは、自らの信念が絶対的なものではあり得ないことを知り抜いている人のことである。


 現代社会は、このアイロニストたちの連帯によってつくられる必要がある。


 何らかの社会的価値を絶対化することは、その価値を共有できない他者に、ひどい抑圧を加えてしまうことになるからだ。


 しかしリベラル・アイロニストは、単なるニヒリストや素朴な相対主義者であるわけではない。社会の連帯のために、リベラル・アイロニストは、人は「残酷であってはならない」という信念を抱き、これを共有するからだ。


 何らかの価値の絶対化と残酷さを避けつつ連帯する、リベラルな社会。ローティは本書で、そのような社会を提言する。


 その社会像は、基本的なイメージとしては十分妥当だろう。


 しかし哲学的には、このイメージはかなりナイーヴで、十分鍛え上げられたものとは言えないと私は思う。


 以下ではそのことについても論じつつ、本書を紹介していくことにしたい。



1.リベラル・アイロニストとは


「私は、自分にとって最も重要な信念や欲求の偶然性に直面する類の人物〔中略〕を、『アイロニスト』と名づけている。リベラル・アイロニストとは、このような基礎づけえない欲求の一つとして、人が受ける苦しみは減少してゆくであろうという、そして人間存在が他の人間存在を辱めることをやめるかもしれないという、自らの希望を挙げる者のことである。」


 アイロニストとは、自らの信念や欲求が、絶対的なものではないことを十分に知っている者のことである。


 しかしその上で、「リベラル・アイロニスト」は、人は「残酷であってはならない」という信念を、その「絶対的理由はなくとも」信じ続ける。


 本書の目的は、このようなリベラル・アイロニストたちからなるリベラルな社会のあり方を描き出すことにある。



2.偶然性


 そこで、ローティはまず、われわれの信念や欲求をはじめ、あらゆることがいかに「偶然的」であるかを論じる。


 われわれの使用している言語も、われわれ自身の存在も、そしてわれわれが生活しているこの共同体も、絶対的な必然性をもって今このようにあるわけではない。ローティはそのことを、繰り返し何度も強調する。


 とすれば、それは相対主義ではないか、との批判があるだろう。そうローティは言う。しかし彼は次のように言う。それは、実は批判になり得ない批判なのである、と。


「ちょうど神はいないと考える人にとって、不敬というものが存在しないのと同じように、『相対主義が陥る窮地』といったものなど存在しない。なぜなら、私たちが責任を負うような、そして私たちがその指針に背いてしまうような、より高度の見地など存在しないからである。」


 つまり相対主義は、何らかの絶対的なものがあるという立場からみた批判にすぎないのであって、そんなものがない以上、相対主義はいわばデフォルトであって批判の対象ではない。そうローティは言うわけだ。


 それゆえ彼は、次のようにさえ言う。


「こうした非難に対してまともに応じるべきではなく、むしろはぐらかすべきだ」



3.ローティ的アイロニー批判


 ここで少し、ローティ思想の根幹にあたるこの「アイロニー」の思想を、批判しておきたいと思う。


 以上にみたローティ的アイロニーは、哲学史を踏まえれば、最先端であるようにみえて実は歴史上繰り返し現れたものであり、そしてまた、原理的には乗り越えられてきたものであるからだ。



(1)ヘーゲル哲学の観点から


 まず、すでに19世紀には、ヘーゲルがきわめて本質的な「イロニー」批判を展開している。(『法の哲学』のページ参照)


 ヘーゲルの主張を噛み砕いて言うと、次のようになる。


 近代において、人々は「絶対に正しいことなどない」ということを十分知り抜いた。


 しかしこのことを知り抜いた人間は、やがて、「絶対に正しいことなどないということを、私は知っている」と言い出すことになる。


 つまり相対主義的「イロニー」は、その相対化をすること(相対化をしている自分)を、絶対化してしまうことと表裏一体なのである。


 これは、たとえば後にハーバーマスが、フーコーなど相対主義的思想家に対して浴びせかけた批判とも同型である。(『近代の哲学的ディスクルス』のページ参照)


 要するに、「イロニー」の精神は、一切を相対化している自分自身をもまた相対化せざるを得ないというパラドックスに陥ってしまうのである。そしてそこから抜け出すためには、今度は相対化をしている自分自身については絶対化せざるを得ないという、二重のパラドックスに陥ることになってしまうのだ。


 その証拠に、「イロニー」の精神は、結局のところ何らかの価値を打ち出さずにはいられない。


 ローティで言えば、それは「残酷であってはならない」という「価値」である。


 徹底したアイロニストであれば、この価値でさえ相対化せざるを得ないはずである。しかしローティは、この価値にだけは固執する。彼自ら、その理由を言うことはできないといいながら。


 そして彼は、一切の価値を相対化しながらも、この「残酷であってはならない」という価値だけは共有する、そんなリベラルな社会を作ろうと言うのである。


 このことについてもまた、早くもヘーゲルが、ローティに百数十年も先立って、『法の哲学』において次のように批判している。


こうした絶対的な得意さが、自分自身の孤独な礼拝にとどまらないで、なにか共同体(教団)といったものをつくることもありうる。そしてこの共同体の絆と実体はといえば、まあおたがいに良心的であり善い意図であるのを保証し合うことであり、この相互的な潔白をよろこぶことである。また、とりわけ、このように自分を知りかつ表明することのすばらしさと、このように愛護することのすばらしさとで元気づけることである。だがそのような共同体をつくることがどこまでできるか。

 
 「イロニー」の精神は、結局、自己矛盾的な何らかの価値を共有しようと努めなければならなくなる。しかしそんなもろい価値観を、われわれは本当に共有することなどできるだろうか。そしてその価値観に基づいて、社会を成立させることなどできるだろうか。

 以上が、ヘーゲルにおける「イロニー」批判の要諦である。


 ちなみに、ヘーゲルはこうした「イロニー」を批判しながら、相対主義的態度に陥ることなく、人々がしっかりと自ら確かめ可能な形で共有できる社会理念を打ち出している。


 それは「自由の相互承認」という理念なのだが、ここでは詳論しない。興味のある方には、ヘーゲルのページや、あるいは拙著『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス、2014)や『どのような教育が「よい」教育か』(講談社、2011)などを参照していただければ幸いだ。



(2)フッサールの観点から


 続いて、ローティのアイロニー思想を、フッサール現象学の観点からも批判しておきたい。


 と言っても、この点についてはこのブログのフッサールのページでさんざん書いてきたので、ほんの触れる程度おさらいしておくにとどめたい。


 フッサールは言う。何もかも相対化することなんて、本当にできるのか。いいや、できないはずである、と。


 たとえば、この目の前のパソコンについて考えてみよう。


 これが、本当に目の前に見える通りに実在しているかどうかは、確かに疑える(相対化できる)。本当は、見えているのとは全く違う色の可能性だってあるし、もしかしたら幻覚であるという可能性だって払拭し切れない。


 こうした「知覚物」でさえそうなのだから、「価値」についてはなおさらだろう。


 私たちは、絶対に正しい「価値」があるなどと言うことはできないはずである。


 その意味で、確かにわれわれは、一切は偶然的で不確かなもの(相対化可能なもの)であると言うことができそうである


 しかしよく考えてみよう。


 確かに、このパソコンそれ自体の存在は疑える。しかし、今私がここにパソコンがこのようなものとして「見えてしまった」ということそれ自体を、疑う(相対化する)ことなどできるだろうか。


 ……この料理は、本当は美味しくないのかも知れない。でも、「美味しい」と「思ってしまった」ことそれ自体を、私は相対化できるだろうか。


 この音楽を、私は美しいと思ってしまった。犬が聴いたら、別に美しくも何ともないかも知れない。でも、この「美しい」と「思ってしまった」ことそれ自体を、私は相対化できるだろうか。


 この人を、私は「いい人」だと思ってしまった。本当は極悪人かも知れない。でも、「いい人」だと「思ってしまった」ことそれ自体を、私は相対化できるだろうか。


 こうしてフッサールは、この私に現れた「現象」(確信)それ自体は相対化不可能であるとして、相対主義の論理を封じ込めたのである。


 つまり私たちは、何もかもが偶然的だとか相対的であるとか言って、「アイロニー」に陥る必要はない。私たちには、そうは言っても確かにこれは疑えないという何らかの「存在確信」や「価値確信」が、動かしがたく訪れてしまっているのだ。


 とすれば、われわれはローティのように、何もかもを相対化しておきながら、「残酷であってはならない」という価値だけを理由もなく特権化するといった、不整合なことをする必要はない。


 互いに動かしがたく訪れている何らかの「価値」を、絶対化するのでも相対化するのでもなく、相互の確信を問い合う形で、なお、「なるほどその価値であれば納得できる」という仕方で、共通了解をめがけ合うことができるはずなのだ。


 これが、現象学的な社会的価値の論じ合い方である。


 そして私は、この共通了解可能な社会的価値(理念)として、先に触れたヘーゲルの「自由の相互承認」の理念を、最も根本的なものとして再び提示することができると考えている。ローティの「残酷であってはならない」は、いわばその1つの系である。


 ともあれ、かなり省略しながら論じたが、以上の理路についても拙著『「自由」はいかに可能か』や『どのような教育が「よい」教育か』において綿密に論じているので、ご興味のある方にお読みいただければ幸いだ。


 いずれにせよ、私たちは、相対主義的でまた論理的にも不整合であらざるを得ないローティ的アイロニーを、社会構想の基軸にする必要はないし、またそうすべきではない。私はそう考えている。



4.連帯


 本書に戻ることにしよう。


 ローティは続いて、リベラル・アイロニストたちからなる社会の連帯のあり方について論じる。


 ローティは言う。


「連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないとしだいに考えてゆく能力、私たちとはかなり違った人びとを『われわれ』の範囲のなかに包含されるものと考えてゆく能力である。


 つまり連帯とは、


「他者の苦痛や辱めを察知する私たち自身の感性への疑い、現在の制度的な編成がそうした苦痛や辱めに適切に対応しえているかどうかへの疑いであり、それ以外の可能なオルタナティヴヘの関心である。」


 要するに、あなたは苦痛をこうむっているのかどうか」という問いかけを基軸に、人々は連帯するべきだとローティは言うのである。



 いわば、「憐れみ」を基軸とした社会連帯であると言っていい。(東浩紀も、『一般意志2.0』においてそのように言っている。『一般意志2.0』のページを参照。)

 しかし私の考えでは、この思想は、理想としては確かに美しいが、哲学的にはかなりナイーヴだ。ポイントは2つある。


 1つは、「憐れみ」は、容易に非理性的で暴力的な連帯に行き着くことが往々にしてあるという点。


 この点を洞察し批判したのは、アーレントだった(『革命について』のページ参照)。


 たとえばフランス革命は、人々が社会的弱者への憐れみを連帯の基礎としてしまったばかりに、彼らを苦しめる人々を次々に処刑していくというテロリズムへと至ってしまった。そうアーレントは主張する。


 憐れみを連帯の基軸にした時、人々は容易に弱者絶対主義へと走り、その苦しみの理由とされる人々に、暴力的な攻撃をしかけることになってしまうのだ。


 それゆえ「憐れみ」を基礎とした連帯は、連帯の基礎としてはきわめて弱いしまた危険でもある。


 もう1つのローティ批判のポイントは、ローティの思想が、「憐れみ」によって連帯せよという、一種の要請の思想になってしまっている点にある。


 このブログでも何度も論じてきたが、哲学史上きわめて優れた哲学を提示してきた哲学者たちは、「要請」の思想ではなく、「条件提示」の思想を展開してきた。


 要請の思想は、結局のところ要請・命令なのであって、そうである以上、「そんなのは嫌だ」と言われてしまえばおしまいであるからだ。


 つまりわれわれは、「憐れみによって連帯せよ」と要請するのではなく、「人々が互いに承認し合いながら共存できる、社会的連帯の〈条件〉は何か」と問い、それを明らかにする必要があるのだ。


 ローティの思想を、私はそのようなものとして編み変えていく必要があると考えている。


 その際、ローティが言うような、他者への憐れみや共感の力をいかに育むかという課題は、とても重要な課題として再提起されることになるだろう。私たちとはかなり違った人びとを『われわれ』の範囲のなかに包含されるものと考えてゆく能力」をいかに育むかといったローティの問題提起は、その意味でとても重要なものだと私は思う。



(苫野一徳)

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