ディドロ『ラモーの甥』

はじめに

 18世紀フランスの思想家・文学者ディドロの対話小説。

 本作の主人公は、実在した大作曲家ラモーの、やはり実在した甥である。

 叔父とは違って、残念ながら彼には才能がなかった。

 しかしプライドだけは高いラモーの甥は、才能ある人々を恨み、自らは悪徳者を任ずるが、かと言って大悪人になれるほどの才もない。

 本作は、そんなラモーの甥と、人生のバランス感覚に優れた哲学者である「私」との、一風変わった思想的対話小説である。

 19世紀ドイツの哲学者ヘーゲルは、『精神現象学』において、主人公ラモーの甥に「自由」をめがける人間の分裂した精神模様を見出している。

 人は皆、自由になりたいと欲している。できるだけ、生きたいように生きたいと願う。

 しかし、才能の欠如や境遇の不運の前に、中々その思いは達成できない。

 そこで彼は、自らのちっぽけな「自己意識」を守るため、人に悪態をついたり偽悪的になってみせたりして、精一杯自我を世間に訴えようとする。

 しかしそれもまた、空しいことである。

 本書では、そんなラモーの甥の分裂した自己意識が、実に生き生きと描かれている。

 文学作品を切り貼りしながら紹介するのは気が引けるが、できるだけ全体的な雰囲気が伝わるよう、以下書いてみたい。


1.プライド高く才能乏しいラモーの甥

 本作冒頭、嫉妬深いラモーの甥は、哲学者の「私」に天才について次のように言う。

「彼らはただ一つのことにしか役に立たないんです。それから先は、ろくでなしなんだ。」

 だから彼は、天才の失態に心を躍らせる。

「わしは焼餅やきです。彼らの私生活についてなにか体面にでもかかわるようなことがあると知れば、わしは喜んで聞き耳を立てるんです。それで彼らとわしとの距離が縮まるというわけです。」    


 と言うのも、ラモーの甥は、わずかばかりの才智を見せてしまったがために、彼が仕えていたパトロンの元から追い出されたからである。

 彼はこう言われたのだった。

「下郎め、出てゆけ!もう二度と顔を出すな。こいつはどうやら常識や理性をもちたがっているぞ!出て行くんだ!われわれにはそんな性質なら余るほどあるんだ」    

 その時彼はどうしたか。

 彼はそう言ったパトロンの前に、ひれ伏したのだ。

 ラモーの甥は、その屈辱を忘れることができない。

「だが、それにしても牝猿の前にへいつくばりに出かけるなんて。平土間から口笛を吹かれて野次られどおしの大根役者の足下にお情けを願うなんて!このわしが、ラモーともあろうものが 」

   
2.大悪人にもなれないラモーの甥

 プライド高いラモーの甥は、こうして自らの恵まれない境遇を恨み、他人に対する憎悪を抱えて生きている。

 そこで彼は悪徳者を自任するのだが、かと言って大悪人になれるわけでもない。

 そして彼は、そのことを哲学者の「私」に指摘されると、あっさり認めてしまうほどに素朴な男でもある。

 ラモーの甥は言う。

「何か一芸に秀でることが大切だとしたら、そりゃとりわけ悪についてそうですな。ひとは、けちな掏摸には唾をひっかけますが、大罪人には一種の尊敬を感じないではいられないもんでさあ。」

 そこで「私」はこう返す。

「ところが、その貴重な性格の統一というものが君にはまだないね。君は時々自分の原理に動揺を来すようじゃないか。    」

 ラモーの甥はこれに、思わず「ごもっともです」と言う。

 プライド高く偽悪的なラモーの甥は、しかし結局どこまでも、滑稽でまた時に愛しくさえ思えるほどに、小さな男なのである。


3.革命前夜の精神?

 ヘーゲル研究者イポリットによって、「革命前夜の精神」を表した作品と評された本作には、次のような印象的な言葉がある。


ラモーの甥「全王国中で当り前の歩き方をしているのはたった一人だけですね。それは主権者でさあ。そのほかの者はみんなポーズをとって歩いてるんです。」
「主権者だって?しかし、それにはまだ文句をつける余地はないかね。〔中略〕国王もその愛妾の前や神の前ではポーズをとり、パントマイムのステップを踏むんだ。大臣も、自分の国王の前では、廷臣やおべっか使いや召使や乞食と同じ歩き方をするよ。」    

 人は、国王もまた自由な存在ではないことに気づき始めていた。

 革命前夜、ラモーの甥のような自己意識の塊と共に、本当の「自由」への意識もまた、芽生え始めていたのである。


4.節制か、欲望か

 本作の最後は、「私」とラモーの甥の、次のような問答で締めくくられる。

 哲学者は言う。人にこびへつらったり、軽薄な自己意識を満足させたりしなくてもいい生き方がただ一つだけある、それは哲学者という生き方だ、と。

 「私」からしてみれば、何ものにも捕われない哲学者だけが「自由」な存在である。

 しかしラモーの甥は次のように言う。

「しかし、わしには、よい寝床やよい料理が、冬には暖い着物が、夏には涼しい着物が、休息や金やそのほか沢山のものが入用なんでさ。そんなものを、わしは、苦労して手に入れるくらいなら、人のおなさけにすがるほうがましだと思うんです。」
 
 ラモーの甥は、誰にも従わず、へつらわず、自己節制によって自足しているだけの哲学者を自由だとは思わない。

 いや、彼はそのような生き方に、少しは憧れもするのかもしれない。しかしどうしても、彼はそのように生きることができないのだ。

 『ラモーの甥』には、こうして、自由に生きたい人間たちの分裂した精神が、生き生きと描かれている。


(苫野一徳)

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