アーレント『責任と判断』

はじめに



 アーレント未刊行の遺稿集。

 アーレント思想の有名なキーワード、「悪の凡庸さ」

 それは、自ら判断責任を自覚することができず、そしてまた、善を意志することのできない、そのような凡庸さに宿る悪のことだ。

 ヒトラー独裁下のドイツにおいて行われた、数々の残虐な行為。悪を行ったのは、まさにごく普通の人々だった。

 最も醜悪な悪は、判断力と責任感覚と善への意志を欠いた、ごく普通の「凡庸さ」から生まれる。

 だからこそ、私たちはもう一度、個人の責任、判断力、意志の力を考え直し、これを再興しなければならないのではないか。

 アーレントの肉声が腹の底にまで響いてくるような、素晴らしい名著だと私は思う。


1.「独裁体制のもとでの個人の責任」

 ナチスにおけるヒトラー独裁のもとで、多くのユダヤ人が殺された。このことを、私たちはどう考えたらよいのだろうか。

 戦後、アーレントはこのことを自らの大きな思想課題とした。

 殺人を請け負ったのは、ヒトラーにとってはただの歯車に過ぎない人たちだった。彼らは自らの「判断」を放棄し、ただ命じられるがままに殺戮行為を行った。

「第三帝国では、決定を下し、実行する人間はただ一人で、この人が政治的に責任を負っていたのです。それがヒトラー自身でした。〔中略〕高官から末端の役人にいたるまで、公的な問題を処理していたほかのすべての人々は実際に〈歯車〉にすぎませんでした。だからといって、誰も個人的な責任を負わないということになるでしょうか。」    

 アーレントは言う。それでもなお、罪を犯した者は「個人」として責任を負うのだと。

 ナチスの犯罪を裁いたニュルンベルク裁判を踏まえて、アーレントは次のように言う。

判事たちが大きな努力を払って明らかにしたことは、法廷で裁かれるのはシステムではなく、大文字の歴史でも歴史的な傾向でもなく、何とか主義(たとえば反ユダヤ主義)でもなく、一人の人間なのだということでした。    

 法で裁かれるのは、あくまでも責任主体としての「個人」である。

 しかしまた同時に、

「システムの責任そのものがまったく問われないということも許されないことです。法的な観点からも道徳的な観点からも、情状という形でこのシステムの責任が問われるのです。 」   

 犯罪が行われたとすれば、その責任は常に個人にある。しかし個人を犯罪に駆り立てたシステムの責任もまた、もちろん問われる必要はある。

 これが、「個人の責任」を考える時の基本である。アーレントはそう主張するわけだ。


2.「道徳哲学のいくつかの問題」

 本書で最も「哲学的」な考察が繰り広げられるのが、この「道徳哲学のいくつかの問題」と題された講義録である。

 この講義において、アーレントはまず次のように言う。

「すべての倫理は、死すべき人間にとっては、生命が最高善ではないことを前提とするもの 」である、と。  

 つまり、

人間の生においては、個別の生命体の存続と繁殖よりも重要なものがつねに存在するのです。」


 アーレントは、倫理とはただ「生きる」ことにはないと言う。アリストテレスの言葉を借りれば、それは「よく生きる」ことにある、ということになるだろう。(アリストテレス『政治学』のページ参照)

 では、「よく生きる」とはいったいどういうことなのか。


①ごく普通の人々の責任

 アーレントは言う。

「ナチス体制は新しい価値体系を提唱し、こうした価値体系に基づいて考案された法的な体系を導入したのです。さらにドイツ社会のいかなる人も、まったく強制もされないのに、ナチス体制に同調して、自分の社会的な地位ではなく、それまでこうした社会的な地位に伴っていた道徳的な信念を、あたかも一晩のうちに葬り去ったのでした。    

 ナチス全体主義は、ナチスによって提示された、ある新しい価値体系の絶対化であった。そして人々は、言われるがままに、その価値体系へと同調してしまった。

 したがって、道徳性を崩壊させてしまったのは、ごく普通の人々だったのだ。

道徳性がたんなる習俗の集まりに崩壊してしまい、恣意的に変えることのできる慣例、習慣、約束ごとに堕してしまうのは、犯罪者の責任ではなく、ごく普通の人々の責任なのです。」


 さらにアーレントは言う。戦後、ドイツの人々は、わずかな期間の予告だけで、『歴史』がドイツの敗北を告げただけで、もとの道徳性にもどった」のだと。


ですからわたしたちは、『道徳的な』秩序の崩壊を、一回だけではなく、二回、目撃したのだと言わざるをえません。    

 ごく普通の人々が、社会における道徳的秩序を、いとも簡単に崩壊させた。

 このことの恐ろしさに、アーレントは思いを致す。

 だからこそ、われわれはもう一度、「個人の責任」を考え直す必要がある。責任主体としての「個」をいかに取り戻すことができるだろうかと、考え直す必要がある。

 アーレントはそう問うている。


②悪しきことを為すより為されるほうが望ましい


 続けてアーレントは言う。

 私は、他者とのかかわりを、自ら断とうと思えば断つことができる。

 しかし決して断つことのできないかかわりがある。それは「私」とのかかわりである。

 そこで言う。このことが、悪しきことを為すよりも、悪しきことを為されるほうが望ましいという主張の実際の根拠を示しています。悪しきことを行うと、わたしは自分のうちに悪しきことを行った者をかかえこんでしまい、この者と耐えられないほどの親しい間柄で一生を過ごすことを強いられるのです。この者を追いだすことは絶対にできないのですと。


 この文章は、アーレントらしいとても魅力的なくだりだと思う。しかしその一方で、残念ながらこれは論理的には破綻しているのではないかと私は思う。


 と言うのも、アーレントは、「悪を為せばあとあと罪悪感に苦しめられる。そんな自分との関係を、私は断つことができない」と言うのだが、私たちは逆に、「悪を為されたら、そのことの恨みを抱え込む。そんな自分との関係を、私は断つことができない」と言うことも可能であるからだ。

 要するに、「自らのとの関係を断つことができない」ことを根拠に、「悪をなされる」ことを「悪をなす」ことより優位なものとして論じることには、無理があるのだ。

 しかしアーレントはまた一方で、プラトンの言葉を借りながら、高貴な人は「悪をなす」ことより「悪をなされる」ことを選ぶと言っている(こうしたプラトンの考えが展開されている著作として、『ゴルギアス』のページなどを参照)。

 このことは、精神的態度としては十分に説得力がある。

 とすれば、アーレントを引き継いで私たちは、いかにしてこの「高貴さ」を手に入れることができるのか、と、その社会的・教育的条件を考えていくことが重要だろう。


③責任と記憶

 続けてアーレントは言う。

最大の悪者とは、自分のしたことについて思考しないために、自分のしたことを記憶していることのできない人、そして記憶していないために、何をすることも妨げられない人のことなのです。    

 責任ある個人とは、自らの行為をしっかりと記憶できている者のことである。そしてそのような個人のことを、われわれは「人格」と呼ぶ。
 
 それゆえアーレントは次のように言う。

「すると、人格とは〈考え深さ〉からそのままもたらされる結果だということになります。言い換えると、赦しを与えるということは、罪ではなく、人格を赦すということです。そして根を失った悪においては、赦すことのできる人格がもはや残されていないのです。    

 われわれが他者を「赦す」という時、それは、罪を赦すのではなく「人格」を赦すのだ。

 ところが、もしその人が、自らの罪を「記憶」することも「深く考える」こともできなかったとするなら、私たちは、「赦す」ことのできる人格を、もはや見出すことができなくなってしまうということになる。

 ナチスの裁判において前代未聞であったのは、まさに人々は、被告の中に、赦されるべき、あるいは裁かれるべき「人格」を見出すことが困難だった点にある。

「ナチスの犯罪者の裁判で困惑が生じたのは、これらの犯罪者たちがすべての人格的な性質を自主的に放棄していて、まるで罰する人も赦免すべき人も残されていないかのようだったからです。」    


④理性、欲望、意志

 さらにアーレントは言う。

 人間には理性があるが、人は時にこれを欲望に屈服させてしまう。

 しかし私たちには、この理性と欲望を調停する、さらに第三の能力が備わっている。

 それは「意志」だ。

意志は理性と欲望の調停者であり、この役目においては意志だけが自由なのです。〔中略〕完全にわたしだけに固有なものは意志なのです。


 この意志の力によって、われわれは善悪を判断し、善へとめがけることができる。

 ではそれは、どのようにすれば可能だろうか。


⑤誰と共に生活するか。そして、悪の凡庸さ

 アーレントは言う。善悪をしっかりと判断し、意志によって善をめがけられること。その条件は、「誰とともに生活したいか」という問いによっている、と。

「どのような人々と生活をともにしたいかは、実例を通じて、現実または虚構の人物、すでに亡き人物やいまなお生きている人物の手本を通じて、そして過去と現在の出来事の手本を通じて思考することで、選択するのです。」

 自らが手本にしたい人々を持つことで、われわれは善への意志を保つことができる。アーレントはそう主張する。

 とすると、恐ろしいのは、自分はどんな人とでも、〈ともに暮らす〉ことができるという人が現れること」である、とアーレントは言う。


「自分の手本を選択すること、ともに暮らしたい人を選択することができない場合、そもそも選択する意志がない場合、そして判断することで他者とかかわることができないか、かかわる意志がない場合には、真の躓きの石(スカンダロン)が生まれます。」

 自分の中に、善への意志を育みたいと思えるような手本がないということ、そうした人々は、容易に悪へと走ることができる。そうアーレントは言う。

「そこに恐怖があります。そして同時にそこに悪の凡庸さがあるのです。


 悪の凡庸さ、それは、自ら判断し責任をもって善を意志することのできない、そのような凡庸さに宿る悪のことなのだ。

(苫野一徳)

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