東浩紀『一般意志2.0』

はじめに

 来るべき新しい民主主義社会のあり方を構想した本書。そのアイデアには、人をわくわくさせてくれるような大きな魅力がある。

 「熟議」には限界がある。これだけ情報化と人々の多様化が進んだ時代において、「話せば合意できる」はもはやほとんど現実性を持たないからだ。

 だから私たちの来るべき政治は、代議士(選良)たちの熟議だけに政策決定を委ねるのではなく、ネット上に集積された人々の「集合的無意識」を可視化して、これを大きな参照枠とするべきである。

 われわれの行動パターンや交流関係、欲求の数々などは、今日すべてネット上のデータベースに集積されている(されうる)。これをうまく可視化して、すべての人が一体何を望んでいるのか、無意識レベルまで明らかにすることができれば、それは政策審議における極めて重要な参照ファクターにならざるを得なくなるはずである。

 熟議と集合的無意識のデータベースとの相補関係。ここに、来るべき民主主義社会の姿がある。

 東氏が描く近未来社会像は、十分に可能だと思えるし、また妥当性も、あるいは必然性さえもあるように思う。


 さて、しかし私は、本書には決定的な問題が2つあると考えている。本書の内容を紹介する前に、まずこの問題点について論じておきたい。

 東氏が描くヴィジョン自体には、私も大いに賛同するし、その慧眼には感服する。しかし、このヴィジョンを成功させるためにも、本書の問題点についてはしっかり論じておく必要がある。


 1つめの問題は、ルソーの「一般意志」を実在するモノとして解釈し、これを現代においては集合的無意識のデータベースであるとして描き直した点にある。

 集合的無意識のデータベースを政治に活用せよという主張自体は、きわめて妥当だし慧眼だと思う。しかしこれを「一般意志2.0」として描き出すことには、ルソーの思想の最も画期的な点を誤解させてしまう大きな問題がある。

 というのも、ルソーの「一般意志」は、東氏が言うような、「モノ」としてどこかに実在し、さらに算出することが可能な「みんなの均らされた望み」のことなどではなく、政治権力(政府、法)の「正当性」の原理として提示されたものだからである。

 これは決定的に重要な点である。本書には、この「正当性」の原理としての一般意志という、最も重要な視点が欠けているようにみえる。

 詳細はルソー『社会契約論』のページを参照していただきたいが、ルソーが提唱した「一般意志」には、従来から無数の解釈があり、また絶大な称賛と激しい批判が繰り広げられてきた。

 しかし私は、彼の「一般意志」のポイントは、見誤ることなく、政治権力の「正当性」の原理として提示されたものとして解釈できると考えている。(詳細は、拙著『どのような教育が「よい」教育か』〔講談社、2011年〕や、『知識ゼロからの哲学入門』〔幻冬舎、2009年〕のルソーのページなどに書きました。)

 というのも、ルソーは『社会契約論』冒頭において、次のように言っているからだ。

人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。〔中略〕どうしてこの変化が生じたのか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる。

 ルソーの時代は、フランス絶対王政の時代である。人々はまさに鎖につながれていた。

 人が皆で生きていくためには、確かに社会が必要だ。その意味で、私たちは自らの自由のために、自らを社会のルールに何らかの形で従わせる必要がある。つまり、何らかの形で鎖(ルール)につながれることは仕方がない。

 しかし、そのルール(鎖)が、絶対君主の定めたルール(鎖)であっていいのだろうか。

 ルソー以前、権力の正当性は、神の定めたにある(王権神授説)とか、最強者にあるとか言われていた。

 しかしルソーは言う。それらはいずれも「正当」な権力とは言えない。王や最強者といえども、もしも人々が共謀して決死の戦いを挑めば、打ち倒すことができるだろう。その意味で、社会権力を支えているのは、社会を構成する人々全員の合意がそこにあるからなのだ。

 とすれば、政治権力はどのようものであればしっかりとした合意を得られるもの、つまり「正当」なものといえるだろうか。

 それは、ある一部の人々の利益(意志)のみを代表しているのではなく、すべての人の利益(意志)を代表し得ている時のみである。すなわち、「一般意志」を代表している時のみである。

 これがルソー「一般意志」概念の決定的に重要な意味であって、それは先に引用した『社会契約論』冒頭の言葉からして、決して見誤ることのできない解釈だと私は思う。

 以上のように、「一般意志」の概念は、どこまでも権力の「正当性」の基準としての理念である。「一般意志」を絶対的に見出し代表することは非現実的だろう。しかしわれわれは、この基準からしか、権力の正当性を判断することができないのである。

 この「一般意志」の考えこそ、現代民主主義の最も画期的かつ最も重要な視座である。



 さて、しかし東氏は本書で、一般意志は単なる「理念」ではなく、ルソー自身、これを数理的に算出可能な実在する「モノ」と考えていたと言っている。

 それはとても興味深い解釈だ。確かにルソーには、そのような考えがあったかも知れない。

 東氏は、その解釈の根拠として、ルソーの次のような一般意志についての説明を引く。

全体意志は特殊意志の単純な和にすぎない。しかし一般意志は、その単純な和から『相殺しあう』ものを除いたうえで残る、『差異の和somme des différences』として定義される。」


 これをもって、ルソーが一般意志を算出可能な実在物と考えたとする東氏の解釈は、確かに面白いし、ルソー自身にもそうした思いが少しはあったかも知れないと確かに思わされもする。 

 しかし私は、ルソーのこの表現は、一般意志を分かりやすくイメージするために述べられた比喩だと考えた方がより正確だと思う。

 というのも、一般意志は実在するかとか算出可能かとかいった問題は、「一般意志」の概念における枝葉に過ぎず、その最も本質的な点は、それが権力の正当性の基準理念として提示されたという点にこそあるからだ。このことを、私は繰り返し主張したい。

 実際、東氏が引用した部分においても、ルソーは次のように言っている。

全体意志と一般意志のあいだには、時にはかなり相違があるものである。後者は、共通の利益だけをこころがける。前者は、私の利益をこころがける。」

 一般意志は、「共通の利益」をめがけるものである。それは、全ての人の意志を何でもかんでも認める(全体意志)のではなく、「共通の利益」をこそめがけるものでなければならないのだ。

 したがってここにおけるルソーの記述の重点は、どうすればそのような「共通の利益」(一般意志)に近づける制度を作れるか、という点にあるのであって、「一般意志」は算出可能な実在物である、ということを主張する点にはない。

 以上のように、一般意志とは権力の正当性の基準原理であって、ここにこそ、ルソー社会思想の最大の意義がある。

 それゆえ私たちは、東氏が言うように、一般意志は実在するモノであり、現代においてそれは「集合的無意識」なのだと、一般意志を僭称するわけにはいかないのである。

 「このネット上に集積された集合的無意識が一般意志だからお前もこれに従えなんて言われても、自分はそんなこと望んでないんだけど……」という状態は、必ず生じる。

 その時われわれは、「いやこれが一般意志なのだからお前もこれに従え」ということに、決して「正当性」を見出すことはできないだろう。

 もちろん東氏は、こうしたいわば集合的無意識の専制主義を認めない。

 東氏が主張するのは、熟議と集合的無意識のデータベースとの相補関係である。東氏は言う。

「二一世紀の国家は、熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議の論理により抑え込む国家となるべきではないか。

 このことはきわめて妥当だ。だからこそ、私は東氏のヴィジョンそれ自体には大いに賛同する。

 しかし「一般意志」の概念は、あくまでも権力の「正当性」の理念なのである。私は、ルソーのこの思想の極めて画期的な点を、決して見落としてはならないと思う。

 集合的無意識のデータベースとしての「一般意志2.0」という言葉は、このルソーの決定的に重要な洞察を、見落とさせ誤解させる言葉だと私は思う。むしろ私たちは、「集合的無意識のデータベース」は、一般意志そのものではなく、一般意志をできるだけ吸い上げ、政府(権力)の正当性を担保するための1つの重要なツールである、という言うべきなのである。一般意志という言葉を使う以上、ここから権力の「正当性」という最も重要な概念を、見落としてはならなかっただろうと私は思う。



 私が考える本書のもう1つの問題は、理性への(過度の)不信にある。

 確かに、理性批判は現代思想の「常識」だ。実際、「理性的」と言われたはずの人間が、どれだけ野蛮で非合理的なことをしでかすことができるか、私たちは十分に知り抜いてきた。

 東氏もまた、そうした理性に頼った熟議の理想は、もはや現実的ではないと主張する。

 そこで、理性を重視し熟議的な民主主義の重要性を説いたアーレントハーバーマスを批判し、熟議より動物性を重視したローティを評価して次のように言う。

「ローティの思想と一般意志2.0の構想に共通するのは、人間の動物性こそを、社会の、公共性の、そして連帯の基礎に据える世界観である。」


 東氏は、ローティの思想のポイントを、目の前で苦しんでいるひとがいたら人間は自然と心が動いてしまう、その事実こそが大事なのだ」と言う。つまり、「理性ではなく感情こそが社会を作る」のだと。

 そして本書の最後に次のように言う。

「人類はこれから、否応なしに、人間的な理性の力だけではなく、動物的な憐れみの力をも利用して社会設計をすることを迫られる。」

 確かに、理性への過信は問題だろう。しかし私の考えでは、「人間の動物性をこそ、社会の、公共性の、そして連帯の基礎に据える」というのは、さらに問題である。

 東氏が批判したアーレントは、まさにこの「動物的な憐れみ」こそが、フランス革命期におけるテロリズムを生んだと言っている。貧しい人たちへの憐れみが、王や貴族や金持ちたちの虐殺へと人々を突き動かした。非理性的な動物性が、虐殺を生んだのだ(『革命について』のページ参照)。

 ナチスによるユダヤ人虐殺も同様だ。自らの責任を判断できなくなった非理性的な人びとが、ヒトラーに命じられるがままにユダヤ人を虐殺していった(アーレント『責任と判断』のページ等参照)。

 動物性を「基礎に据える」というのは、その意味においてとても危険なことだ。アーレントはだからこそ、人々の間の暴力を縮減し、すべての人ができるだけ自由で対等な存在になれるために、どこまでも「理性」的に考えなければならないと言ったのだ。

 われわれは、「理性」を手放すことは決してできないのだ。

 したがって重要なことは、「動物性を基礎に据える」などと言うことではなく、理性のもろさを知りつつもなお、いかにして「理性」的に社会を構想していけるかと考えることだろう。

 東氏は、無意識のデータベース(つまり理性ではなく動物性の集積体)を、理性的な熟議の補完物とせよと主張している。

 繰り返すが、その主張はとても妥当だと私は思う。

 だからこそ、私は、「動物性を基礎に据える」などとは言わないで、非理性的な集合的無意識もまた、どこまでも、意識的で理性的な熟慮、熟議のための一つの材料としようと言うべきだったのではないかと思う。


 以上、評が長くなったが、続いて本書の内容を紹介していくことにしたい。


1.一般意志=実在する均らされたみんなの望み

 一般意志とは何か。東氏は本書で、これを「『均されたみんなの望み』ぐらいに理解してみたらどうだろうか」と提案している。

 そして言う。この「均らされたみんなの望み」(一般意志)は、実在するのだと。ルソー自身、これは実在すると考えていたのだと。

「ルソーは、現実の統治機構とは別に一般意志はあると、たとえばいまの日本で言えば、永田町や霞ヶ関や政党や官庁やそのほかもろもろの巨大組織とは別に、「日本の一般意志」なるものはどこかに確実に存在し、国家はつねにそれを意識していなくてはいけないと述べた。」

 どこかに実在する一般意志をうまくくみ上げ、政府はそれに従って運営されなければならない。東氏は、ルソーは一般意志をそのようなものとして提示したと主張する。


2.一般意志2.0=ネット社会において可視化可能な集合的無意識のデータベース

 さて、このように一般意志は実在するはずのものなのだが、ルソーの時代にはこれをちゃんと抽出することは不可能だった。

 しかし現代、私たちはこれを技術的に抽出することが可能になった。そう東氏は主張する。

 一般意志は、インターネット上にデータベースとして蓄積されている。

数千万、数億、数十億というデータの量は、もはや個々人の思いを超えた無意識の欲望のパターンの抽出を可能にする。

 そして言う。

「一般意志とはデータベースのことだ」

 つまり今日、われわれの行動はすべてデータベースに蓄積されている。何を購入したか、どのようなツイートをしたか、どのようなメールを送ったか、どのような人と交流があるか。

 これらデータベースは、一人一人の行動パターンや欲求を、無意識レベルまで表現しているはずである。つまりそこでは人々の意志はモノ(データ)に変えられている。」

 もちろんプライバシーについてはしっかりルールを設定する必要があるが、このように全ての人の行動や欲求を無意識レベルにまで表現しうるデータベースが蓄積されていくであろう来るべき総記録社会において、われわれは、まさにここにこそ「一般意志」が実在していると考えるべきである。

 したがって、一般意志とは集合的無意識のことである。それも、この技術社会においては可視化することが可能な、集合的無意識のことである。そう東氏は言う。


3.政府2.0=一般意志2.0に忠実な政府

 したがって来るべき政府もまた、このデータベースとしての一般意志2.0に忠実なものでなければならない。

来るべき政府2.0は、市民の明示的な意志表示(それはルソーの言葉では「全体意志」に相当する)ではなく、それよりもむしろ、情報環境に刻まれた行為と欲望の集積、人々の集合的無意識=一般意志にこそ忠実でなければならないことになるだろう。」


 その具体策を、東氏は次のように構想している。

「あらゆる熟議を人民の無意識に曝すべし。ひとことで言えば、それが本書が掲げる未来の政治への綱領である。

 たとえば、国会議事堂に大きなスクリーンが用意され、議事の中継映像に対する国民の反応がリアルタイムで集約され、直感的な把握が可能なグラフィックに変換されて表示される。舞台俳優が観客の反応を無視して演技を進められないように、もはや議員はスクリーンを無視して議論を進めることはできない。すぐれた演説には拍手が湧くだろうし、退屈な答弁には野次が飛ぶだろう〔中略〕。それは直接民主主義ではない。議論に参加するのは、あくまでも民意を付託された議員だけである。しかし、視聴者の反応がそこまで可視化された状況で、私利私欲や党利党略で動くのはなかなか勇気がいるはずだ。そこでは、議員は、熟議とデータベースのあいだを綱渡りして結論を導かなければならない。」

 より具体的なイメージとして、東氏は「ニコニコ生放送」を挙げている。

「以上の提案は、言ってみれば――より進化したサービスを前提としているのでいろいろ細部は違うのだが――、政府内のすべての会議を「ニコニコ生放送」で公開しろ、と呼びかけているようなものである。」


4.熟議の限界=集合的無意識との補完を

 さて、以上のような集合的無意識のデータベースとしての一般意志という概念を出し、政府はこれに忠実であるべきだとする東氏のアイデアの根底には、近年特に取り沙汰されている、熟議民主主義への疑義がある。東氏は言う。

「二一世紀は、情報の流通量が飛躍的に増加し、人々があまりにもたやすく繋がるようになってしまったため、逆にあらゆるひとが『議論の落としどころを探れない他者』につねに悩まされるようになった、そのような時代である。」

 つまり、熟議熟議と言っても、(政治の現場で)熟議で決着がつくことなど、今やほとんどなくなってしまっているのである。

 かつては、多くの人の意見を集約し、それを代議士たる「選良」が熟議を通して決着をつけていくことができたかも知れない。しかし東氏は言う。

「いま『選良』と呼ばれる人々は、現実には特定の『業界』の専門家でしかない。彼らはその業界を離れれば、平凡な消費者、無見識な大衆の一員にすぎない。」

 すべてを見渡し理解できる「選良」など、もはや存在しないのだ。そう東氏は言うわけだ。

 それゆえ、熟議熟議などと熟議の理想を追うよりも、われわれは、データベースに蓄積された集合的無意識を可視化し、これを参照して政治を動かしていくべきだと言えるのではないか。そう東氏は主張する。


 さて、ここで大切なのは、東氏が、だからと言って、すべてを人々の集合的無意識にのみ従わせよと言っているわけではないという点だ。

 集合的無意識としての一般意志は、あくまでも、熟議を補い助けるものとして、つまり熟議と相補関係にあるものとして提示されている。

つまりは二一世紀の国家は、熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議の論理により抑え込む国家となるべきではないか。

 この点はとても重要だと私は思う。そして冒頭でも述べたように、この点について私は大いに賛同するし、その可能性にわくわくもする。

 しかし冒頭でも述べたように、ルソーの「一般意志」は、実在物ではなく権力の「正当性」の原理として考えられるべきものである。この極めて重要なルソーの洞察についてだけは、私は繰り返し主張し続けたいと思う。


(苫野一徳)

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