レーヴィット『ヘーゲルからハイデガーへ』



はじめに

Löwith 本書の原文タイトルは、Aufsätze und Vorträge 1930-1970、つまり、『論文・講演集(1930〜1970年)』であ
る。邦訳タイトルは、レーヴィットの主著の1つである、『ヘーゲルからニーチェへ』からつけられている。

 このページでは、その中から特に重要と思われる2つの論文、「キルケゴールとニーチェ」「哲学的な世界史だって?」を取り上げ紹介したい。

 本書において、レーヴィットは、ニーチェを高く評価しつつも、その英雄主義を批判し、ヘーゲルとハイデガーに対してもまた、その大仰な歴史主義を批判している。

 以前私は、レーヴィットの著作『共同存在の現象学』を、現象学の創始者フッサールの核心を捉えられていないとして、また、その現象学的記述の仕方も、その思想の妥当性はともかくとして、ハイデガーレヴィナスら現象学的記述の「名手」には遠く及ばないとして、批判的に紹介・解説したことがある(『共同存在の現象学』のページ参照)。

 しかしさすがは著名な思想史家、幅広い哲学史の知識を縦横無尽に駆使した本書における論評は、相当に読ませるものだ。

 しかしそれでもなお、私としては、ないものねだりではあるけれど、ヘーゲルやハイデガー批判を踏まえた上で、いかにその先へ進むことができるかを、示してほしかったと思う。

 というのも、私の考えでは、以下でも少し触れるように、ヘーゲルもニーチェもハイデガーも、批判するのは簡単だが、そうした問題を補って余りある、今日なお極めて原理的な、深い人間および社会に対する洞察を展開した哲学者だったからだ(詳細はそれぞれの哲学者のページを参照されたい)。

 それらを掬い上げ、さらに乗り越え展開していくこと。

 そこに、現代哲学者の1つの大きな仕事があると私は思う。


1.キルケゴールとニーチェ

 キルケゴールニーチェも、ニヒリズムについて深く考え、そしてこれを乗り越える道を提示した思想家である。

 しかしその方法は、著しく異なっている。レーヴィットは言う。

キルケゴールにとって人間的実存のニヒリズムは、一人立ちした人間が反抗的に、かつ絶望しながらも、いまだ信仰への飛躍をあえてせず、神を失いながらももとの自分のままでいるということにもとづいている。逆にニーチェにとってのニヒリズムは、近代のキリスト教以後の人間があいかわらず神をやっかい払いしてもいなければ、キリスト教的・道徳的な伝統という宿命的な圏域からいまだに脱出してもいないことにもとづく。

 現代、われわれはもはや、「神は死んだ」ことを知ってしまった。世界に意味など一切ないのだというわれわれのニヒリズムの根源は、そこにある。

 キルケゴールは、そのような現代において、ニヒリズムとはまさに、そこから信仰への「決死の飛躍」をしないことによってもたらされているものだと主張する。

 対してニーチェは、むしろ、われわれが今なお神を徹底的に無化していないことを問題視する。

 われわれは、「真理」などないことを徹底的に知るべきなのだ。そこから初めて、われわれは、真理とはむしろ、「作り出されるべきあるもの」であることを知ることができるようになる。それこそが、ニヒリズムを克服する道であるのだと(『権力への意志』などのページ参照)。

 レーヴィットは、キルケゴールに対するニーチェの思想のこの点を高く評価する。

 しかしレーヴィットは言う。結局ニーチェも、このニヒリズム克服の思想において「力への意志」を持ち出した時、思想の海において難破してしまったのである、と。

「しかしニーチェの手腕も、この力への意志においては難破してしまう。というのも、この力への意志は、たしかに世俗的だとは言われるが、この実際の典型をナポレオンやビスマルクやR・ワーグナーといった人間のうちにもっているからである。」

 真理があるのではない、それは常に、われわれの「力への意志」に基づいて解釈されているのだ。

 それが、ニーチェの思想の核心である。

 しかしニーチェは、この「力への意志」を、いわば世俗的な英雄崇拝に象徴させてしまった。

 レーヴィットはこの点を批判する。結局彼は、いわばエクストリームに過ぎる思想家であったのだ、と。

「ニーチェはあの中庸を得た精神の持ち主たち、つまり、いかなる種類にせよ極端な教義をいっさい必要とせず、したがって人間についても『その価値を大幅に割り引いて』考えることのできるような精神の持ち主たちには属してはいなかった。ニーチェはこうした知識をもってはいたが、それを具体化しはしなかった。」


2.哲学的な世界史だって?

 この論文の目的は、ヘーゲルハイデガーの歴史哲学の親近性を明らかにし、これを批判することにある。

 まずレーヴィットは次のように言う。

ヘーゲルにとって哲学的思考と哲学的知の歴史こそは『世界史の核心』でさえあり、それはハイデガーにおいて、『存在』という語の理解が世界生起の歩みを規定するとされるのに似ている。」

 ヘーゲル哲学の基本型は、神のごとき絶対精神が存在し、われわれ人間はこの絶対精神の本質(自由)を分有しており、そして歴史を通して、この絶対精神を実現していくという点にある。

 しかしレーヴィットは、この考えを批判して次のように言う。

「われわれにしてみれば、歴史の主体でもあれば実体でもある精神などといったものは、もはや永遠に現前するような形而上学的な基盤ではなく、せいぜい一つの問題であるにすぎない。」

 ちなみに、私もまた、ヘーゲルのこのいかにも形而上学的な「物語」は、今日まともに受け止める必要はないと考えている。多くの現代思想家たちが、ヘーゲルの哲学体系をナンセンスだとして棄却してきたのは、いわば当然のことであったとも思う。

 しかし同時に、ヘーゲルの哲学には、今日なお、他の誰もが到達し得ていないような極めて原理的な人間と社会についての洞察がある。

 しかしこの点については、ヘーゲル『精神現象学』や『法の哲学』のページに譲ることにして、以下では再びレーヴィットの論考を追っていくことにしよう。

 レーヴィットは言う。ヘーゲルの壮大な形而上学体系には、3つの前提があった、と。

こうした思想の歩みにとっては以下の三つの前提が重要でもあれば、問題的でもある。つまり、一、超人的で神的な世界精神が世界史と哲学史の歩みを規定しているという前提、二、われわれの外なる自然の領域はわれわれの内なる精神の領域に従属するという前提、三、意欲の世界はある内的必然性にしたがうのであって、偶然にゆだねられているのではないという前提、がそれである。

 要するにヘーゲルは、①「世界精神」(絶対精神)なる絶対的なものの存在を前提し、②自然すらその精神の法則に従属し、そして③一切は偶然ではなく必然的に進行する、と考えたのである。

 こうしてレーヴィットは、次のように言う。

「それは思想ではなく、むしろ哲学的なものに翻訳された摂理信仰にすぎない。

 実に手厳しい批判だが、しかし同時に、これは今日にまで至るヘーゲル批判の王道でもあった。

 さまざまなところで書いてきたので詳細には繰り返さないが、私は、こうした激越なヘーゲル批判がこれまであまりに横行してきたために、ヘーゲルは(その超難解な叙述のためもあって)今やほとんど読まれることもなくなり、そしてそのために、彼の哲学の最も重要な本質は、今日十分に理解されなくなってしまっていると考えている。

 ヘーゲルといえば、長らく「近代哲学者の完成者」として哲学史に屹立してきた一方で、現代では、ナンセンスな有神論的形而上学の樹立者であり、プロイセンの御用学者的国家主義者だったと、ほとんど読まれることもなく批判されている。

 しかしそれは、あまりに表面的な批判である。ヘーゲル哲学――特に彼の人間洞察社会洞察――の原理性とその射程は、一般に思われているよりはるかに深く広い。

 しかしこのこともまた、今は措くことにしよう。(ちなみに、近年密かなヘーゲル再評価の気運が盛り上がり始めている。このブログでも、そうした著作等についてはしばしば紹介しているのでご参照いただきたい。)

 さて、続いてハイデガーである。

 レーヴィットは言う。ハイデガーもまた、ヘーゲルを批判しつつも、実はヘーゲルと同じ歴史絶対主義者であったのだ、と。

「(後期ハイデガーにおける)『この世界時代の人間』、『世界瞬間』、『世界宿命』、『世界の困窮』、『技術によってつくりだされた世界の夜』などの大仰な言葉は、ある絶対的な存在史的歴史主義を表している。

 後期ハイデガーの1つのキータームは、「非隠蔽性としての真理」である。

 西洋哲学は、長い間、認識対象としての「真理」を探究してきた。そうハイデガーは言う。つまり、主観と客観の一致としての真理である。

 しかしハイデガーはそうした真理観を批判し、真理とは存在の覆われなさである、と言うのだ(詳細はハイデガー『形而上学入門』などを参照)。

 ハイデガーのページ等で何度も書いてきたが、私の考えでは、いかにハイデガーがこれは形而上学ではないなどと言ったところで、結局のところ、言葉を神秘的に物語っただけのどこまでも「形而上学」である。つまり、われわれには知り得ない「存在」「真理」を措定し、これを前提に思考を進める形而上学である。

 レーヴィットもこの点を批判する。そして何より、ヘーゲルもハイデガーも、先のニーチェ同様、現実の英雄たちに、この「世界精神」や「存在の運命」を託してみたところに問題があった。そうレーヴィットは言う。

ヘーゲルがフランス革命の事件に世界理性の自立するにいたった意志を認め、ナポレオンに世界史の世界精神を認めたときに、あるいはハイデガーがヒトラーと国民社会主義に「ドイツ的現存在」の存在の運命を認めたときに、彼らはある偶然的な出来事を、『哲学的な世界史』や本質的な『存在の運命』と混同してしまった。」
 
 よく知られているように、レーヴィットはハイデガーの弟子だった。しかしハイデガーがナチスに加担するにいたって、ユダヤ人だったレーヴィットは、ハイデガーと完全に袂を分かつ。

 ニーチェ批判にせよ、ヘーゲル、ハイデガー批判にせよ、その批判の中心に、一種の歴史主義やそれに基づく英雄崇拝への嫌悪があることは確かだろう。そしてその批判は、十分妥当だと私は思う。

 しかし同時に、また別の観点からみれば、ヘーゲルもニーチェもハイデガーも、哲学史に燦然と輝く、極めて原理的な洞察を展開した哲学者である(それぞれの哲学者たちのページ参照)。

 批判すべきところは批判した上で、なお他の追随を許さない原理的な彼らの哲学を、私たちは継承発展させていく必要があるだろうと思う。


(苫野一徳)

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