黒崎勲『教育の政治経済学(増補版)』



はじめに

 一言で言うと、本書は学校選択制のための理論書だ。教育への市場原理導入を、理論的に基礎づけたものと言っていい。

 と言っても、それはただやみくもに、ナイーブに教育の市場化・民営化を推進しようとするものではなく、格差防止と平等担保のため十分に市場を規制した上で、学校選択制を、各学校や教職員に対して、自ら教育をよりよくしようというインセンティブを与える、そのような方法として提案するものだ。

 要するに、官僚主義画一主義とそれゆえの公立学校離れいう根本的問題を抱える現在の公立学校を、生き生きと蘇らせるためのアイデアなのだ。

 故黒崎氏は、教育学界最大の知性の一人であったと思う。明確な問題意識を持ち、その問題を解明するため、政治学、経済学、哲学、社会学等、あらゆる学問的知見を自家薬籠中のものとし、常に生産的な研究を重ねてきた。黒崎氏のそうした研究態度に、私は深い敬意と共感を覚えている。

 黒崎氏のアイデアには、教育学者の間で無数の批判が繰り広げられることになった。しかし私は、少なくとも論理的には、黒崎氏を十二分に論駁できる知性は、教育学界においてそれほど多くはなかったのではないかと思う。

 私自身は、本書等を十分吟味した結果、義務教育段階における大々的な学校選択制にはさしあたり反対の立場である。

 理由は簡明だ。目的公立学校の活性化なのであれば、この目的を達成するための、もっと穏やかで効果的な方法は他にある。上意下達の軽減、それに伴う現場の裁量権の増大、教員のチームワーク活性化の諸アイデア、地域の人たちの支援、行政の支援、等々。学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合といった、学びのあり方の変革も重要だ(この点については、拙著『教育の力』〔講談社現代新書〕を参照されたい)。

 学校選択制は、現状においてはまだリスクが高すぎる。実際今の日本において、選択制が格差を広げたことは、もはや隠しようのない事実として共通認識され始めているように思われる。

 義務教育段階における大々的な学校選択制の導入は、やはりリスクが高すぎるのだ。教育学は、もっと穏やかで効果的な学校活性化の方法を、さらに真剣に解明すべく研究を進めていく必要があると私は思う。

(ただし、私は学校選択制それ自体を全面的に否定はしない。選択制が「一般福祉」を促進しうる形で構想できれば、それはむしろ望ましい方法ですらある。この点については、拙著『どのような教育が「よい」教育か』〔講談社選書メチエ〕を参照していただければ幸いだ。)


1.根本問題=公立学校離れ

 黒崎氏が提唱する教育理論の根底には、次のような問題意識がある。

「公立学校が私立学校と競合し、公立学校離れ、私学ブームとさえ呼ばれる事態を生じていることは、教育政策がもはや教育のあり方を決定し得ないという事実を端的に表すものである。」

 上意下達の官僚主義的教育行政、画一的なカリキュラム、親や子どものニーズに答えられない公立学校。黒崎氏は、まずこの問題が現実に存在しているところに注意を促す。

 この問題を解決するために、黒崎氏は公教育への市場原理の導入、より端的には学校選択制の導入を提案する。


2.市場原理の導入

 とは言っても、これを単なるむき出しの資本主義と同一視してはならない、と黒崎氏は言う。むしろ市場原理の導入とは、資本主義市場の「規制」である。黒崎氏は次の重要な区別を主張する。

「教育における市場原理の導入と一括される学校選択の理念について、単純な市場原理にもとづく学校選択と『抑制と均衡』の原理にもとづく学校選択とに識別することが必要である。」

「前者の考え方は、教育制度にいわゆる市場原理を導入すれば、自由な競争によって学校は自ずと改革されるという信念に立っている。しかし、これは、あまりに単純な議論であり、起こりうる弊害についての慎重な考察に欠けている。公立高校においては現に『学校が選ばれる』制度になっているが、実際には、学校は序列化され、生徒が学校に選別されているのであり、その弊害は様々に語られているところである。」

「これに対して、後者の学校選択の意義の提唱は、公立学校制度の伝統的規範に縛られて公立学校の改革を妨げている教育行政の官僚化を打破し、個々の学校の改革の努力を導きだすためには、学校選択制度が必要であると説くものである。〔中略〕学校を教育行政の官僚主義からも、専門家の専門職主義による閉鎖性からも解放させ、教職員教育行政当局、親、子ども、地域コミュニティの市民といったさまざまな関係者の力と働きを再結合する場として学校を再構築することを目指しているのである。」

 要するに、教育への市場原理主義の導入とは、学校間の競争や序列化を煽るものではなく、あくまでも各学校がよりよい教育をめざすことのできる、インセンティブとして捉えられる必要があるというわけだ。



3.具体的プラン=日本版チャータースクール

 そこで黒崎氏が提案するのが、日本版チャータースクールのアイデアである。
 学校選択制と言っても、黒崎氏が推進するのは通学区域の弾力化ではない。

 通学区域の弾力化が、「すべての家庭に選択を強要し、子どもの教育の失敗をすべて自己責任として受容することを求める」ものであるのに対して、チャータースクールは、「新しい革新的な教育のあり方を希望するものが自らのリスク負担において参加するものであり、用意の整わない、また、選択を欲しない家庭に選択の名で自己責任を強要することもないのである。」

 黒崎氏は言う。

「日本版チャータースクールとして運動がすすみつつあるチャータースクールのモデルは、抑制と均衡の原理による学校選択の理念の一つの具体化である。ここでは教職員の自由な活動を保障しながら、これを正統化するものとして学校選択の機能が期待されている。」

 黒崎氏はさらに具体的に、ミニスクールというアイデアも出している。それは次のようなものだ。

「公立学校に働く教育専門家のなかから実験的で独創的な教育のビジョンの発議を求め、適切な教育プランであると教育委員会が判断したものについて、これをミニスクールとして実施することを認める。発案者がミニスクールのリーダーとなり、教職員を募ってチームをつくる。ミニスクールへの就学は家庭の自由な選択であり、子どもと親とは、その地域にあるこれまでのタイプの公立学校へ就学するか、選択可能なミニスクールのなかのいずれかへ就学するかの自由な機会を保障される。」

 要するに黒崎氏は、学校選択制という制度を触媒に、各学校や教職員に、自ら学校をよりよくしていこうというインセンティブを与えたいと考えているわけだ。それが、公立学校を再び魅力的なものとしてよみがえらせる、最大のアイデアだというわけだ。


4.黒崎ー藤田論争

 ここで、教育学界においては有名な、黒崎ー藤田論争というものが勃発することになる。

 教育社会学者の藤田英典氏が、黒崎氏に対して、学校選択制は格差を拡大することになると厳しく批判したのである。

 これに対して、黒崎氏は本書で応答を試みている。ポイントは2つある。

 1つは、格差を許さないというのは黒崎氏も同じだが、しかし私立学校の横行などを考えれば、実は教育の市場化はすでに問題となっているのであって、それゆえむしろ公立学校に学校選択制度を導入することで、公立学校をより魅力的なものによみがえらせようと言っているのだ、というものだ。つまり、私立(金持ちが通う傾向がある)に負けない公立学校づくりのために、学校選択制をその動機にしようというわけだ。

 もう1つは、教育社会学者現状批判ばかりして代案を出さない、という、また少し違った観点からの応答だ。

「教育の機会の不平等を問題にし、学校の地域格差、階層化を批判することはもとより大切なことである。しかし、〔中略〕教育現象を分析する社会科学は、〔中略〕困難を抱える地域と生徒が学校で成功できない過程を描き出すことに終わり、これを克服する学校と教育者の力を過小評価するものであってはならないと思う。」

 それゆえに、黒崎氏は次のように言う。

「制度として教育問題を対象化し、制度の運営と改革を通して教育の営みに関わろうとするのが教育行政学の存在理由であるというのが筆者の立脚点である。」

 こうした現実改革のための学知を探究しようとする、黒崎氏の学者としての態度に、私も深く共鳴する。

 しかし冒頭で述べたように、私自身は、大々的な学校選択制には反対だ。リスクがあまりに高すぎるからだ。学校活性化のためには、もっと他に、穏やかかつ効果的な方法がたくさんある。教育学者は、そのような方法の解明構築に、今後もっと力を注いでいく必要がある。私はそう思う。

(苫野一徳)



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