ノディングズ『ケアリング』


はじめに
photo: nel noddings - used with permission
 アメリカの教育哲学会会長やデューイ学会会長も務めたノディングズ。彼女が主唱した「ケアリング」の倫理は、教育内外の世界で非常に大きな反響を呼んだ。

 それまでの男性原理的な倫理学を、女性の観点から編み直すこと。その洞察力は、中々のものだと私は思う。

 ただし、その記述の仕方は実にまわりくどい。と言うよりは、核心をつかずにだらだらとおしゃべりを続けるという感じ。

 「原理」「普遍性」といった概念を拒絶するノディングズは、それゆえに、何か「核心をつく」ようなことを言いそうになると、いやいやこれは決して「原理」ではなくて・・・という感じでするりと身をかわす。

 それはそれで、真摯な姿であるとは思う。そして、かなりの理もある。

 現代倫理学は、確かに、「これこそが倫理の原理だ!」と言うような、あまりに勇ましすぎる議論を展開したがる傾向がある。それに対してノディングズは、いやいや、女性は何でも一般化しようとはせず、その時々の具体的な状況によって倫理を判断するのですよ、と言う。そしてその根底には、「ケア」の心があるのですよ、と。

 まったくその通りだ、と思う。

 しかしノディングズの理論は、あくまでオルタナティヴの提起にとどまっている。私はそう思う。それはとても説得的なオルタナティヴだ。しかしそれは、彼女が男性的原理と呼ぶものと対立が起こった時、問題を力強く解決できる理路ではない。結局、男性VS女性の、信念対立を解くことができずにいる。

 たとえば「国家」の倫理を考えるとき、「ケア」の心を基盤にしましょう、などと、悠長なことは中々言っていられないことがある。ノディングズはこれに、有効な考えをあまり提示し得ていない。原理で考える者に対して、彼女はこう言うだけなのだ。「すると、私たちは口論になるだろう。」(pp. 90-01)

 「原理」が必要なときもある。特にマクロな社会構想では必要だ。ノディングズの理論は、その辺りを射程におさめていない。私はそこに、倫理学としての物足りなさを感じる。(この点を極めたのは、やはりヘーゲルだと私は思う。)

 とは言うものの、ノディングズの洞察力に、私は大きな敬意を表したい。彼女自身現象学的と呼ぶその本質観取の力に、敬意を表したい。


1.ケアリングの本質:専心没頭と動機の転移

「ケアされるひとのために行いに関与すること,ふさわしい期間を通してかれの実相(reality)に関心を持ち続けること,そして,この期間を越えて関与の仕方を絶えず更新することは,内面から見た,ケアリングの本質的な諸要素である。〔中略〕わたしは,専心没頭と動機の転移(motivational displacement)からはじめたいと思う。」

 人が誰かを「ケア」していると思うとき、そこにある最も本質的なものは何だろうか。
 そう問うと、「専心没頭」「動機の転移」という構造が取り出せる。ノディングズはまずそのように言う。

 なるほど、確かにそうだ、と思う。私たちはケアする人に対して、誠心誠意、そしてまるで自分のことであるかのように、心を向ける。



2.抽象化の危険性

「命令文は,『わたしはなにかをしなければならない』から『なにかがなされなければならない』に変化する.こうした変化は,非合理的,主観的なものから,合理的,客観的なものへの移行である.」

 この指摘は非常に重要だと私は思う。道徳的・倫理的義務と呼ばれるものは、一般に、「汝〜をなせ」と命令文の形態をとる。カント以来の道徳哲学の常道だ。

 しかしノディングズは、それは違うと主張する。道徳的・倫理的義務とは、あくまでも「私は〜をしたい/しなければならない」という具体的個人的状況から出てくるものであって、抽象的一般的な命令形式を取るわけではない。

 だからこそ、彼女は次のように言う。

「危険なのは,本質的には非合理で,うちに構築的な専心没頭と動機づけによる転移を必要とするケアリングが,次第に,あるいは唐突に,抽象的な問題解決に変容するかもしれないことである.」

 ケアリングとは、あくまでも個人的状況から出てくる倫理的態度であって、「ケアをせよ」という一般的命令ではない。本書を通してずっと流れ続ける、ノディングズの重要な主張だ。


3.ケアする人とケアされる人の関係

「ケアリングには、ケアするひととケアされるひとという2人の関係者が含まれるのである。ケアリングが両者により満たされるとき、ケアリングは完結する。」

 ケアリングとは、ケアする人の一方的な心性や行為だけでは成り立たない。それは単なるおせっかいになるだろう。ケアリングが成立しているためには、ケアされる人からの応答が必要なのだ。

 ノディングズはそのように言う。これもまた、まっとうなことだ。



4.ケアリングの倫理が涵養されるとは?

「わたしは,『生きた徳」としての道徳性が,ただひとつではなく,2つの感情を必要とすることを示唆したい.第1のものは,自然なケアリングの心情である.〔中略〕母親が自分の子どものためにケアする努力をすれば,それはたいてい,倫理的ではなく,自然的だとみなされる。」
「第2の心情は,第1の心情を思い起こすことに反応して生じる。」

 ケアとは、まず自然な感情として表れ出てくるものである。これをまず重視しよう。そうノディングズは言う。そしてこの感情を思い出し、ケアしたい、されたいという思いを養っていこう。

 そうすると、次のようなことが可能になる。

「『わたしはしなければならない』は義務を果たす命令ではなく,『わたしはしたい』を伴う命令である.〔中略〕この「ねばならない」はまだ,道徳的もしくは倫理的な『すべきである』ではない.それは欲求から生まれた『ねばならない』である.」

 ケアリングは抽象的命令なのではない。「私はしたい」から表れ出る心情が基礎なのだ。



5.ケアリング的責務が可能になる条件

 しかしわれわれは、どういう時に、「私はしたい」と「しなければならない」とが直接的に結びつくのだろう。ノディングズは次のように言う。

「わたしたちは,なにが自分の責務を統制するのかを明確に述べるよう努めるべきである.今まで展開してきたことに基づいて,2つの基準があるように思われる.すなわち,現存の関係の存在あるいは潜在能力と,関係のうちでの成長のための力動的潜在能力とである.」

 現在の関係の親密度や切迫性、そして将来の関係の親密度や切迫性、そういったものを基準にして、私たちは「私はしたい」と「しなければならない」とを結びつける。

 なるほど、と思う。


6.ケアリングの理想を高めるには?

 またノディングズは、「ケアリング的倫理を実践したい」という理想を高めるための条件は何か、とも問うている。その大きな条件の1つが、私の言葉で言うと「関係の喜び」「関わりあいの喜び」だ。

「喜びは、自己とか、喜びの誘因となる対象とかに関連してはいる。しかし、喜びは、もっぱら、自己や対象を越えたところに、すなわち、関係、あるいは、かかわりあいの認識のうちに求められる。」

 たとえば、高級車を手に入れた、という喜びがある。それは対象に対する喜びだ。
 しかしもっと深い喜びもある。それが、再び私の言葉で言えば、「関係を味わうことの喜び」だ。

 こうした喜びがドライバとなって、人はさらにケアリングへとかかわっていく。

 以上みてきたようなノディングズの洞察を、私はあえて、とても「原理的」だと言いたいと思う。


(苫野一徳)



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