ボルノー『人間学的に見た教育学』


はじめに

 ハイデガーの弟子でもあったボルノーは、その現象学的解釈学的手法を駆使しつつ、教育学を改めて最も深いところから基礎づけなおそうと試みた。

 私の考えでは、その手腕はとても見事なものだ。

 第2次大戦後、厭世的でペシミスティックな世界観が人々を襲っていた時代に、ボルノーはそれでも人間は「希望」を抱ける存在であることを訴え続けた。

 その情熱と説得力は、一時代を画すにふさわしいものだったと私は思う。

 ただ、本書からは優れた哲学的思考の裏に、どうしても、われわれには「希望」が必要なんだ、という、ある「精神的態度」が透けて見える。個人的にはこの「精神的態度」はとても好きだ。しかしこれは、同じ精神性を共有しない人にとっては、単なるアジテーションにすら聞こえてしまうものかも知れない。

 ほんとうに優れた哲学というのは、われわれには「希望」が必要なんだ、と訴えるのではなく、われわれの生にとって「希望」が必要であるとするならば、その「希望を抱ける条件は何か、と問い、それを解明するものであるはずだ。

 もっともボルノーの著作を、そのようなものとして読むことは十分に可能だ。だから上の批判は、ちょっと彼に対して不公平かも知れない。

 ともあれいずれにせよ、私はボルノーから大きな影響を受けている。特に教育における「信頼」についての考察は、何度読んでも大きな感動を覚える。


1.哲学的人間学とは何か

 ボルノーは、教育学を改めて哲学的人間学の立場から考え直した。哲学的人間学勃興の背景には、2つの世界大戦を経験した人間が、実は人間とはずっと言われてきたような「理性的動物」なんかではなく、もっともっと暗いところを持った存在なのではないか、と、考えられるようになったことがある。人間を、改めてもっと深いところから考えようとするのが、この人間学の基本的態度だ。

「さまざまな学問が数十年間に、人間についての多くの新しい、多様な、不安に満ちた知識を明らかにしたので、多くの伝来の人間についてのイメージがあやしくなった。そして何を拠り所にすべきかが分からなくなった。〔中略〕包括的な新しい思考が必要になったのである。」



2.人間学の方法=人間学的還元

 人間学は、次のような方法に基づいてすすめられる。


a)人間学的還元

「文化的な行為をあらゆる人間衝動の作用として眺めて、その要求を相対化するのではなく、ばらばらに見える対象性をその根源の人間に還元することである。」
 つまり、まずは文化的行為の一切を人間のある衝動・要求の相の下に捉えよう、というわけだ。これは現象学的にいえば、一切は「欲望・関心相関的」であるということになるだろう。

b)オルガノンの原理

 そして上の人間学的還元は、次の方法をおのずから生む。

「人間がどのようにして内面的な必然性からこれらの形成物を自分から生み出したのかを理解するために、われわれはどのようにして人間をその本質においてとらえねばならないのか、問うことを意味する。」

 つまり、われわれが形成した文化を考察することで、このような文化を形成した人間のそもそもの本質は何か、を、考えることができるようになるわけだ。

 私の言葉でいえば、この問いは、「欲望・関心」存在である人間の、その人間的欲望の本質は何か、というものになる。

c)個々の現象の人間学的な解釈

 以上からすれば、あらゆる現象は人間学的に解釈することができるようになる。つまり、一切が人間にとってどう現象しているか、を、解釈するという営為が可能になる。

「この第三の方法を私は、もっと明確な言葉がないために、人間の生命の個々の現象を人間学的に解釈する原理(Prinzip der anthropologischen Interpretation der Einzelphänomene des menschlichen Lebens)と短く呼ぶのである。」

 以上は、要するに私の考えでは、フッサールやハイデガーの項でも述べた、現象学的記述、あるいは実存論的記述の方法と変わりはない。


3.人間学的教育学

 以上のような方法からすれば、教育もまた、当然人間学的に解釈することができるようになる。

「すなわち、哲学的・人間学的な問題設定を教育学にも役立つようにする試みである。ここで大切なのは特定の教育学の補助科学(または異なった補助科学の積分)でもなく、また教育学に付け加えられる部分的な学問でもなく、教育学全体を(いまは哲学的に理解された)人間学的な視点から新たに照らしだすことである。」

 つまり、教育は人間にとってどのようなものとして現象しているのか、それを考究しようというわけだ。それは、教育学の補助科学(たとえば教育心理学や教育社会学など)に先立って、教育の本質を明らかにしようとする試みだといえる。


4.教育的な雰囲気

 そうしてボルノーがまずとりかかるのは、教育的な雰囲気とはどのようなものであるか、というものだ。私の考えでは、これは現象学的本質観取の実に見事な例だ。教育的な雰囲気については、ボルノー自身がいうように、それまでまったく手のつけられたことのない領域だった。しかし確かに、われわれはそれがいったいどういうものか、十分に知っておく必要があるはずだ。

 まずボルノーが重視するのは、幼児時代において庇護されるという「信頼」の感覚だ。

「『健全な世界』もいずれは必然的に壊れねばならないとしても、子供が自分の成長の第一歩をそのような保護の雰囲気のなかで踏みだすことができることは、なお重大であることには変わりはないし——きわめて大切なことである。と言うのも、敵対的な世界の脅威に後で対決することのできる力は、ここでしか育たないからである。」

 そしてボルノーはいう。人間の成長は、この信頼が破壊され、そしてまたそれを取り戻すように起こるのだと。では教育学的にいって、そこで重要なことは何か。

 それは教師の立場からみれば、教師の信頼であり、忍耐である。

 このボルノーの考えは、あたりまえのようであるがなかなか含蓄深い。

 子どもは、信頼されることなくただ禁止ばかりされていたり矯正ばかりされていたりすると、結局は大人を信頼することもなくなって、むしろ大人の目から隠れたところで、自分の欲望を短絡的に叶えようとするようになるものだ。

 それに対して、人間というのは、信頼されてしまうと、どうしてもそれを裏切りにくい。それに応えたい、と、思ってしまうものだ。

 だから教育において、この「信頼」というのが重要なのだ。ボルノーのいう「信頼」は、決して空虚な言葉ではない。

 しかしこの信頼は、たえず裏切られることになる。子どもには失敗がつきものだからだ。だからこそ、教師には、それでも信頼し続けるという「忍耐」が求められることになる。ボルノーの言葉は、実に生き生きしている。


5.出会い

 さて、ボルノーが次に重視するのは、「出会い」だ。これもまた、人間学の勃興によって初めて教育学の議論の俎上に上がるようになった。

 それまでの教育学は、多面的な教養人の育成を目的としていた。そこにおいて大切なことは、

「人間の精神が生み出した富のすべてを知り、受け入れることである。教養は必然的に、できるだけの多面性と円熟性を目ざしている。」

 それに対して、「出会い」の概念は、人間におけるもっと偶然的なものを考慮にいれている。 

「出会いはむしろ人間に、いくつもの可能性のなかから選ぶこと、決断すること、一つに賛成して他に反対することを強いる。」

「この出会いは、予測されることも予期することもできず、任意の瞬間に現われる。先生は授業の技術によって、任意にこの出会いを導入することはできない。彼はその用意をすることができるにすぎない。」

 教育においてもっと偶然的で決断的な要素を考慮に入れること。ボルノーはそのような教育学を、おそらく初めて自覚的に提唱した人だ。

 とはいえ、彼は教養の価値をおとしめているわけでは少しもない。教育において教養が重要であることに変わりはない。

「教養と出会いのあいだには相互依存の関係が生まれる。広い教養がなければ、個々の出会いは偶然にしかすぎない。」

 それまでは、教養を教養のために獲得することが重要だった。しかしこれからは、教養を人間的「出会い」にとって大切なものとして考える必要がある、そうボルノーはいうわけだ。


6.危機と世界への信頼

 さて、20世紀は「危機」の世紀だった。だから20世紀の思想には、ペシミスティックなものが多い。しかしボルノーは、人間にとっては「希望」こそが重要なのだといっている。「危機」すら、新たな出発のための「はじまり」なのだ。

「この未来への信頼にみちた関係、底なしの淵へ没落するのではなくどうにかしてまた救い上げられるという確信を、人は希望と呼ぶ。希望はそれゆえに、世界への信頼関係の時間的な見方なのである。これがあらゆる『不安』とあらゆる『挫折』とを越えた、われわれの生活の究極の土台であり、そこでのみ意味豊かな計画と行動が可能となる、あらかじめ開かれた地平線なのである。」

 この「希望の哲学」の宣言が、私はとても好きだ。しかしボルノーには、希望こそ、希望こそ、という、どこか感情的な構えが見え隠れしている。私はむしろ、人間が不安と挫折を乗り越え、意味豊かな生を望むのであれば、われわれは「希望」を必要とするのであり、その第一の条件は「信頼」だ、と、端的にいったほうがよかったと思う。そして実際、彼はこの「希望」の条件を、以下で解明していくのだ。

 ボルノーは、希望の条件である「信頼」を可能にするものとして、空間的・時間的な考察を始める。

 われわれは、「信頼感」を得るためには、まず空間的に「親密な領域」(たとえば家)を必要とする。そしてそれを改変できること、さらにはこの領域から離れたより大きな世界に「住まう」ことができること、これが、空間的な「信頼」の条件になる。

 時間的にいえば、そこにおける「信頼感」の最大の条件は、未来に開かれていること、ということになる。

 ボルノーは、こうした空間的・時間的な要素こそ、教育的な環境が配慮しなければならないものだといっている。

 教育を考える際、こうした人間学的な考察は、以上のように実に具体的な成果を生むわけだ。

 ボルノー以降、こうした教育の人間学的考察を続けている思想家はいるだろうか。私はあまり知らない。しかしこの方法は、教育の根本を考える、最も重要な方法であり続けるに違いない。

(苫野一徳)



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