プラトン『響宴』



はじめに


 とある宴の席で、ソクラテスとその仲間たちは、エロス神を讃え合うことにした。

 いったいエロス(恋)とは何なのか。スリリングな対話が交わされる。

 ソクラテス(プラトン)のエロス論は、今日なおきわめて優れた、人間についての深い洞察である。

 どこまでも美しい、哲学史上最高の名著だと私は思う。


1.ファイドロスのエロス論

 指名により、まずファイドロスが自らのエロス論について語り始める。

「相手のために死のうとまで決心する者はただ愛する者だけである」

 それゆえ彼は、次のように言う。

「エロスは神々のうちの最年長者であり、もっとも崇敬すべき者であり、また徳と幸福との獲得に当っては生前死後を通じて人類にとってもっとも権威ある指導者である」

 エロス(の神)こそが、人類にとって最もすぐれたものである。そうファイドロスは結論するわけだ。


2.パゥサニヤスのエロス論

 これに反論して、パゥサニヤスが言う。

 何でもかんでもエロスを賛美するというわけにはいかないはずだ。いいエロスもあれば、悪いエロスもあるのだから。

「悪しき者とは魂よりもさらに多く肉体を愛するかの卑俗なる愛者をいう。しかもその愛するのは永続する対象ではないから、彼自らもまた永続するはずがない。〔中略〕これに反して気高き性格を愛する者は生涯を通じて変ることがない、それは永続するものと融合しているからである。

 肉体へのエロスは卑俗で、精神へのエロスこそが気高いと言うわけだ。


3.エリュキシマコスのエロス論


 これに対して、今度はエリュキシマコスが反論を述べる。

「エロスは単に美しき少年に対する愛として人間の魂の内に存在するのみならず、また他の多くのものに対する愛として、かつ他の事物の内にもあるもので、一切の動物の体内にも、大地の産出する植物の内にも、否、いわばありとあらゆる物の内に存在する、これはわれわれの専門の医学から得られた認識である、と。」

 単に美しき少年の精神に対するエロスだけが尊いのではない。エロスとは、そもそも万物に対する愛である時に価値がある、そうエリュキシマコスは言うのである。(よく知られていることだが、古代ギリシャでは少年愛が一般的なことだった。)


4.アリストファネスのエロス論

 続いてアリストファネスが、少し趣向を変えて次のようなエロス論を述べる。

 有名なアンドロギュノス(両性具有)の寓話である。

 この寓話は、よくプラトンの説として持ち出されることがある。しかし実はプラトン(ソクラテス)は、この後この話を受けて、これを批判しながら自らのエロス論を述べていくことになる。よく間違われることなので、注意が必要だ。

 アンドロギュノスの寓話とは、次のようなものである。

 太古において、人は2人で1つだった。背中合わせに結び合わされ、球状の身体を持ち、性には3つあった。すなわち、男男男女女女である。

 ところが彼らは、あまりに傲慢だった。そこで怒った神々は、人間を真っ二つに切り離すことにした。それが今の人間の姿である。

 切り離された人間たちは、こうして過去の失われた半身を求めてさまようことになった。

 男男だった者は同じ男を、男女だった者は異性を、そして、女女だった者は同じ女を。

 こうしてアリストファネスは次のように言う。

「それだからこそ全きものに対する憧憬と追求とはエロスと呼ばれているのである。」

「われわれが愛の目標に到達し、そうしてあらゆる人が昔ながらの本性(原形)に還元しつつ自分のものなる愛人を獲得するとき、ただその時にのみ人類は幸福になることができる、と。」


5.アガトンのエロス論

 この美しい物語の後を引き継いだのは、アガトンである。

 彼は次のように主張する。

 エロスは激しい情欲であるからこそ、自ら自制に富んでいるものでなければならない。それは快楽の支配者なのである。

 そして言う。

この神は巧妙なる詩人である。他をもまた詩人にするほどである。まことに何人といえども、一たびエロスが触れさえすれば、『たといかつてはムーサ神に無縁であった者も』きっと詩人になるのである。この事は、エロスが総じてあらゆる芸術的創作において優れたる創造者であることの証左とするに足ると思う。

 まさに、恋は人を詩人にする。そしてそれは、確かにある程度の自制が備わっていなければ不可能なことでもあるだろう。盲目で爆発的にすぎるエロスは、かえって芸術としての品位を損なうであろうから。


6.ソクラテスのエロス論

 こうして響宴の参加者たちが皆それぞれのエロス論を述べ終わった後、ようやくソクラテスが口を開くことになる。

 まず彼は、次のように言う。

「欲求する者はその欠いているものを欲求するか、または欠いていぬ場合には、欲求することもない」

 したがって、エロスとは、実はそれ自体においてであるわけでもであるわけでもないのだ。そうソクラテスは言う。むしろそれは、美や善を求めることなのである。

 ここからソクラテスは、ディオティマという婦人から聞いた話だと言って、自らのエロス論を語っていく。

 エロス、それは究極的には、善きものを求めることである。そうソクラテスは言う。

「幸福な者が幸福なのは、善きものの所有に因るのです。また幸福になりたい人はいったい何のためにそうなりたいのかとさらに尋ねる必要ももはやありません」

 この幸福という善きものを求めることこそが、エロスの本質である。だからそれは、アンドロギュノスの寓話にあるように、単に半身を求めるということではない。それは善きものでなければならないのだ。

私の説では、エロスの追求するのは半身でもなければ全体でもない、友よ、それが少くとも同時にちょうど一種の善きものでないかぎりは。」

 そしてその善きものとは、必ずしも美しいものであるというわけではない、とソクラテスは言う。エロスは、ただ美しいものを超えて、不滅で普遍的な善をこそ求めるものなのである、と。

 そこでソクラテス(ディオティマ)は、その不滅の善を知るに至るまでの階梯について次のように言う。とても美しいくだりなので、長くなるがそのまま引用したい。


「まず最初に一つの美しい肉体を愛し、またその中に美しい思想を産みつけなければなりません、次にはしかし彼は、いずれか一つの肉体の美はいずれか一つの他の肉体の実に対して姉妹関係を持っていること、また、姿の上の美を追求すべき時が来た場合、あらゆる肉体の美が同一不二であることを看取せぬのは愚の骨頂であることを彼は悟らねばならぬのです。が、またこの事を悟った以上は、その愛をあらゆる美しい肉体に及ぼし、そうしてある一人に対するあまり熱烈な情熱をばむしろ見下すべきもの、取るに足らぬものと見て、これを冷ますようにせねばなりません。その次には彼は心霊上の美をば肉体上の美よりも価値の高いものと考えるようになることが必要です。またその結果彼は、心霊さえ立派であれば、たといあまり愛矯のない人でも、満足してこれを愛し、これがために心配し、青年を向上させるような言説を産み出しまた探し求めるようになるでしょう。こういう風にして彼はまた職業活動や制度のうちにも美を看取しまたこれらすべての美は互いに親類として結びついていることと、ひいてまた肉体上の美にはきわめて僅かの価値しかないことを認めるように余儀なくされねばなりません。そうして職業活動の次には、その指導者は学問的認識の方へ彼を導かねばならぬのです、それは彼がこれからは認識上の美をも看取することができ、またすでに観た沢山の美を顧みて、奴隷のように、一人の少年とか一人の人間とかまたは一つの職業活動とかに愛着して、ある個体の美に隷従し、その結果、みじめな狭量な人となるようなことがもはやなくなるためなのです

さて傾序を追うて正しい仕方でさまざまの美しいものを観つつ、愛の道についてここまで教導を受けて来た者は、今やようやく愛の道の極致に近づくとき、突如として一種驚嘆すべき性質の美を観得するでしょう。それこそ、ソクラテス、今までのあらゆる労苦も皆そのためであったところの彼のものなのであります。まず第一に、それは常住に在るもの、生ずることもなく、滅することもなく、増すこともなく、減ずることもなく、次には、一方から見れば美しく、他方から見れば醜いというようなものでもなく、時としては美しく時としては醜いということもなく、またこれと較べれば美しく彼と較べれば醜いというのでもなく、またある者には美しく見え他の者には醜く見えるというように、ここで美しくそこで醜いというようなものでもない。」


「それはすなわち地上の個々の美しきものから出発して、かの最高美を目指して絶えずいよいよ高く昇り行くこと、ちょうど梯子の階段を昇るようにし、一つの美しき肉体から二つのへ、二つのからあらゆる美しき肉体へ、美しき肉体から美しき職業活動へ、次には美しき職業活動から美しき学問へと進み、さらにそれらの学問から出発してついにはかの美そのものの学問に外ならぬ学問に到達して、結局美の本質を認識するまでになることを意味する。」

生がここまで到達してこそ、親愛なソクラテスよ、美そのものを観るに至ってこそ、人生は生甲斐があるのです、いやしくもどこかで生甲斐があるものならば。一度でもそれを観たならば、貴方はもうそれを黄金や綺羅の類とも、また美しい少年や青年の類とも思いはしないでしょう

 私たちは、まずある1人の美に魅せられる。そのことで、彼/彼女は、美の何たるかを知る。そうして美一般へとエロスを向けるようになる。すると、美とは必ずしも肉体だけでなく、人柄や魂の美もあることに気がつくようになる。

 そして彼/彼女は、ついに美そのものを知るのである。善きものとしての美それ自体の本質を。

 エロスは、美=善それ自体を求めるという、人間の本性である。そしてそこに、人の幸福の本質がある。

 美=善それ自体を求めるということ。ここに人間が人間であることの本質がある。そしてそのエロスを叶えるところにこそ、人間の至上の幸福がある。

 ソクラテス(プラトン)の洞察は、今もなお私たちの心を強く打つ。


(苫野一徳)

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