ブルーナー『教育の過程』


はじめに

Jerome Bruner, detail from the cover photo gracing The Culture of Education ‘After John Dewey, What?’というセンセーショナルなタイトルの論文で、教育界で一躍有名になった心理学者ブルーナー。

 デューイが提唱した経験主義は、当時あまりに悠長な教育方法に過ぎると批判されていた。折しもアメリカは、スプートニクショックを経験し、科学技術でソ連に負けるのではないかと戦々恐々。何とかして、子どもたちの学力を効率的に、そして飛躍的に向上させる必要があった。

 有名なブルーナー仮説は、この必要に答えてくれるものと期待された。

「どの教科でも、知的性格をそのままにたもって、発達のどの段階のどの子どもにも効果的に教えることができる」

 本書は、各学問界の著名人が集まって、教育方法の改善を討議したウッズホール会議の報告書だ。もっとも、内容はかなりブルーナー独自の視点でまとめられているため、彼の教育観がよくうかがえる。

 デューイ研究者からはかなり評判の悪いブルーナーだが、私は本書を読んで、ブルーナーはずいぶんとバランス感覚に富んだ人だと感心した。

 教科を効率的に教えるハウツーをただ論じたのではない。学力の底上げをすることで民主主義をより十全にする、というパースペクティブにおいて、ブルーナーは自らの教育理論を練り上げたのだ。


1.教科の構造

 本書において最も重要なキーワード。それが「構造」だ。

 「構造」とは何か、ブルーナーはあまり具体的に詳論してはいないのだが、さしあたり、学習内容の最も重要なポイント、とでも理解しておけばいいだろう。数式なら数式が、なぜそのように数式化されるのか、という原理原則のことだと言っていい。

「簡単にいえば、構造を学習するということは、どのようにものごとが関連しているかを学習することである。」

 学習につまずくということは、この「構造」をうまく捉えられていない、ということを意味する。

 私たちも、子ども時代にそのような経験をしてきたのではないだろうか。

 なぜこれがこうなるんだ、と、その「構造」が分からずに頭を抱えたことがきっとあっただろう。

 「構造」さえちゃんとつかめれば、学習内容を十分に理解することができる。

 だからブルーナーは、「構造」の学習は、優秀な子をより優秀にするというよりは、落ちこぼれの子たちのためにこそ役に立つと主張する。

「教科の構造を強調するよい教育は、才能にめぐまれた生徒よりも、あまり有能でない生徒にとってこそ価値があるのではないだろうか。なぜなら、下手な教育をうけて、いともあっさりと軌道から放り出されてしまうのは前者ではなくて後者であるからである。」

 そして学習内容の構造が理解できれば、それはあらゆることに応用可能となる。「できる」楽しさを、子どもたちは知ることができる。

「重要な要素は、発見をうながす興奮の感覚であるように思われる。ここで発見というのは、以前には気づかれなかった諸関係のもつ規則正しさと、諸観念の間の類似性を発見するということであり、その結果、自分の能力に自信をもつにいたるのである。科学や数学の教育課程を研究してきたいろいろなひとびとは、生徒が独力で発見する力がつくように導いてゆく胸をわくわくさせる順序で教えることによって、学問の基本的構造を生徒に提示することが可能であると主張している。」

 これが、発見学習と呼ばれるブルーナーの提唱した方法だ。


2.レディネス

 次の重要キーワードが、レディネスである。

 ここでブルーナーは、先述した有名な仮説を提示する。

「どの教科でも、知的性格をそのままにたもって、発達のどの段階のどの子どもにも効果的に教えることができるという仮説からはじめることにしよう。」

 そしてブルーナーは、発達のどの段階の子どもにも、効果的に教科を教えるために、子どもたちの発達に先回りして準備させておこう、という。


 ちゃんと準備ができていれば、次第に複雑になっていく学習内容にも十分に対処できる。そうブルーナーは言うわけだ。



 要するにそれは、ちゃんと教科の「構造」を順次理解させていこう、ということになる。



「教科の構造感を多くもてばもつほど、内容がぎっしりとつまった、長いエピソードを疲労することなくやりとげられるといってもさしつかえないようである。」





3.直観的思考と分析的思考


 本書3つ目の重要キーワードが、直観である。

 直観とは、いわば瞬時に物事の連関や構造を見抜く力のことだ。

「分析的思考とは反対に、直観的思考は、入念で、輪廓のはっきりした段階を追って進まないのが特徴である。」

 しかしそれは、単なる思いつきや手すりなき思考なのではない。さまざまな知識領域に精通してはじめて、こちらの考えとあちらの考えが瞬時に結びつく、といった直観がやってくるのだ。そしてこの直観は、たえず分析的に検証される必要がある。

「直観的思考をするには、それに関連している知識領域とその知識の構造に精通していることが必要であるが、そうすることによって、思考しているひとは段階をとびこえ近道をしながら自在に進むことができるのである。だがそれには、演緯的であろうと帰納的であろうと、もっと分析的な手段によって結論をあとでふたたび照合する必要がある。」

 ではこの直観はどうすれば鍛えられるのだろうか。そのことの解明は、今後の大きな研究課題だとブルーナーは言う。

「よい直観力をもつひとがその根底にもっている発見の補助となる力(heuristic)とはなんであるかは、いまのところ知られていないが、とくに研究に値することである。」


4.動機づけ

 本書最後のキーワードが、動機づけだ。

 学習は決して苦行であってはならない。「勉強したい」と、子どもたちに思わせなければならない。

 それはどうすれば可能か。

「多分学童たちは学習に対するさまざまのまじりあった動機をいつももっているであろう。親や教師を喜ばせなければならないとか、同級生を相手にしなければならないとか、自分自身がやり通したという感じなどをもちたいという動機がある。それと同時に、興味が発展し世界が開ける。学業は成長してゆく子どもの活気ある生活の一部にすぎない。それはそれぞれの子どもたちにとって異なった意味をもっている。」
「そしてこのこみいった状況のなかに、子どもが興味を感ずる学校の教科の微妙な魅力が存在している。」

 ブルーナーは、バランス感覚にすぐれた人だろうと私は思う。
 
 ラディカルな経験主義者とでも言うべき教育関係者は、賞罰などに頼ったいわゆる外発的動機づけを批判する。学習の動機は、すべて内発的でなければならないと主張する。

 しかし学習の動機とは、そんなに単純なものではない。さまざまな動機があるのであって、それらを全部総合的に考え合わせるほうが賢い。ブルーナーは、当然だがそのことをよく知っていた。

 学習の動機づけに関して、ブルーナーは基本的には次のように考えた。

「学習のための動機づけは、あらゆるひとを観覧者にしてしまう時代にあってなお受動的にしないようにしなければならないし、またできるだけ学習することそれ自体に対する興味の喚起にもとづくのでなければならない。そしてまたそれらの動機づけの表現は幅広く、多様でなければならない。成績第一主義と新しい形の競争主義の危険信号がすでに出されている。」

 「できる」「わかる」の楽しさを基礎にすること。そして、過度の競争主義を避けること。このことが、推奨されるべき動機づけだというわけだ。

(苫野一徳)



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