ジンメル『社会的分化論』


はじめに

 社会学者としてのみならず、「生の哲学」者としても知られるジンメル。それまでのあまりに合理主義的な哲学に対して、人間的な「生」を基軸に哲学を探究した。

 そんなジンメルは、そうは言ってもやはり社会学者としての方が有名だ。

 本書は、彼が32歳の時に書いた社会学的処女作。

 難解で知られるジンメルだが、その本質的な理由は、彼が自らのあらゆる問題関心を、あまり整理することなく雑多に織り交ぜて描き上げている点にあるようにわたしには思われる。

 本書のテーマは社会の分化(集団帰属的だった人々が、自由で個別的な存在になっていくこと)にあるが、その主眼は、社会が分化していくプロセスを描くことにあるのか、分化の構造を明らかにするところにあるのか、はたまた、社会が分化していくことが人間にとって持つ「意味」を明らかにするところにあるのか、いまいち焦点が定まらないように思える。

 幾重ものテーマが行ったり来たり縦横に交錯するので、論旨を追うのは中々に難しい。

 しかしそれでもなお、本書はどこをとっても、人間の豊かな生のあり方の洞察に満ち満ちている。

 私の考えでは、本書におけるジンメルの洞察は一言でいえば次の点にある。

 集団的強制からかなりの程度「自由」になり個別化した私たちは、しかしそれゆえ、孤独に苦しんでしまうことがある。その問題を克服するためには、どうすればいいか。

 自由な交わりが可能な、交錯する多様な社会圏を構想すること。そこに可能性の条件がある。

 現代社会を生きる私たちを思えば、それは深く納得のいく考えだ。

 「ここにしか居場所がない」も、「どこにも居場所がない」も、どちらも私たちをひどく苦しめる。

 だからこそ、自らの関心に応じて、さまざまな社会圏を自由に行き来できること。そのような「交錯する社会圏」を創造すること。それが、私たちをより豊かに活かす社会分化のあり方に違いない。

 ちなみに、ジンメルの思想の全容は、菅野仁さんの『ジンメル・つながりの哲学』(NHKブックス)にとても分かりやすく描かれている。ご参照いただければ幸いだ。


1.社会学の認識論

 ジンメルが生まれたのは、1858年。社会学はその草創期にあった。

 それゆえ当時(正確には今もそうだと言えるが)、社会学は確固とした方法論をもっていなかった。そのため社会学の領域では、様々な人が様々なことを言い、いわば社会の見方をめぐって「信念対立」が繰り広げられていた。

 その問題の本質を、ジンメルは次のように言う。

「(社会学の)対象は非常に多くの作用を含んでいるため、研究者の観察や傾向に応じて、ある作用が典型的であり、内的に必然的であると考えられたり、また別の作用がそうであると考えられたりする。」

「その根本的な原因はなにかといえば、社会学においても、その対象が非常に複雑な性質をもっているために、その対象をもっとも基本的な、単純な部分に分解して、その部分の原初的な力および関係を見いだすということができないからである。
 
 要するに、社会学においてさまざまな対立や知見の相違が見られてしまう理由は、社会がきわめて複雑なものであるゆえに、それぞれの研究者の観点によって、何を本質的なものと見なすかが著しく変わってしまうという点にあるわけだ。

 それゆえジンメルは言う。これらのうち、どれが絶対に正しい社会認識かなどと問うてはならない、と。

 だからジンメルは、本書の内容もまた、絶対的な社会的認識ではなくあくまでも一つの見方である、と本書冒頭で強調する。


2.社会とは何か

 ジンメルは続いて、まず彼の有名な「相互作用」としての社会観を披露する。

「けっきょく社会の概念は次のように規定されるであろう。すなわち、個々人の相互作用が、たんに彼らの主観的態度や行為のなかに存在しているというだけではなく、さらに個々の成員からはある程度まで独立した、ある客観的な構成物がつくりだされるというような場合に、われわれは真に社会といえる存在がそこに存在している、といえるのである。」

 ジンメルは社会を、われわれの存在とは無関係な一個の「モノ」としてではなく、個々人の「相互作用」から成る出来事として考えた。この相互作用が一種の「実体」として認識される時、われわれはそれを「社会」と呼ぶのだと。

「つまり、個々の成員の脱退や加入とは関係なく一定の形式をもつ団結が生じているとき、独自の利害をもちながら個々の成員からは独立している共同的な所有物が存在しているとき、個々の成員の参与によっては増減しないで、いわば実体的となっている知識や倫理的生活内容が存在し、しかもそれがこれから参与しようとおもう人々のためにも準備されているとき、また他人とある空間的な共存を行なっていこうとする人が必ず従い、また従わなければならない法律、慣習、交際の形式が完成しているとき――これらすべての場合には、社会が存在しているといえるのである。この場合には、相互作用が凝集して、一つの実体となっているのである。


3.集団的責任を課す社会(近代以前)

 こうしていよいよ、ジンメルは本書の主題にとりかかる。

 それは社会の分化の本質を探るものである。

 昔々、社会はきわめて同質的な集団だった。それがやがて分化し、人々は「自由」になった。

 そのことの意味本質を解明することが、本書の課題である。

 ジンメルはまず次のように言う。

「未開時代においては、個人が罪を犯した場合でも、一族、部族といった社会圏全体が罰せられるべきだとする慣向があった。政治的に統一されている集団において、支配権力が集団の成員の犯した罪を罰する場合は、それは三世代、四世代にまでもおよび、その罪にかんしては責任のない家族員にまで、さまざまな刑罰が加えられるのである。」

 それゆえ、次のように言うことができる。

「ある個人が全面的に依存できる集団が小さければ小さいほど、したがってまた、集団の外で生きていける可能性が少なければ少ないほど、個人はそれだけ強く集団と融合せざるをえない」

 要するに、連帯責任や集団的責任といった考えが通用するのは、個人が社会に対して依存する度合いが強い社会においてなのである。


4.「個性」の主題化(近代以降)


 しかし、集団はずっと閉じた状態でいることは中々できない。他の集団との接触等を通じて、コミュニティは次第に拡大していくことになる。

 そしてジンメルは言う。コミュニティの拡大を通して、個々人がコミュニティに結びつく度合いが少なくなっていけばいくほど、個人に「個性」というものが現れてくるのである、と。

 ジンメルはこの「個人主義」の進展を高く評価する。

 なぜなら、ここに至ってようやく、人々は自らの自由を謳歌することができると共に、他者の尊重もまた自覚することができるようになるからだ。

個人主義は、倫理的な関係では、しばしば利己主義になって現われるのであるが、そのかわりそれは、利己主義にたいする平衡錘の役割も演ずるのである。


 私なりに言うと、次のようになる。

 個人主義は、確かに利己主義と表裏一体ではあるだろう。しかし私たちは、「私は私」という意識が自覚されて初めて、「他者も他者、尊重しよう」と思えるようになるのだ。

 その意味で、個人主義の進展は、人々を集団的責任に結びつけていた力学からの解放であり、また相互尊重の思想の芽生えをもたらしたという意味で、高く評価されるべき側面を持っている。

 ジンメルにはおそらくそのような感度がある。


5.交錯する社会圏

 しかし、ジンメルは個人主義を手放しで礼讃するわけではない。

 と言うのも、社会の拘束力が低下し、私たちが自由を手に入れれば入れるほど、私たちは「孤独」に投げ入れられてしまうからである。

 冒頭でも述べた通り、これはまさに、私たち現代人が直面している問題だと言っていいだろう。

 「自由」であるからこそ、何をすればいいのか分からず途方に暮れる。イエから解放され、地域から解放され、そして習俗から解放されたからこそ、どこに帰属することもできず孤独に苦しむ。

 これは現代人特有の苦悩のあり方である。

 この問題を、私たちはどうすれば緩和することができるだろうか。

 ジンメルはこれに、「交錯する社会圏」という答えを与えた。

 人々が、自らの関心に応じて様々な社会圏で生きられるということ。そこに、私たち現代人の孤独を緩和する道がある。

 たとえば、「『学者共和国』、つまり、国籍や個人的・特殊的関心や社会的地位などにかんしては、ありとあらゆる多様な諸集団に属している人々が、知識一般のようなもっとも一般的な目標のもとに集まっている、あのなかば観念的、なかば現実的な結合」がある。


 国や地域に縛られず、ただ自らの関心において交流し合うことのできる圏域。ジンメルはここに、社会の重要なあり方を見出している。

個人が所属する異なった圏の数は、文化の程度をはかる尺度の一つである。


6.自己限定と、多様な欲望の調和を
 
 さらにジンメルは言う。

 こうした「交錯する社会圏」を基盤に、個々人は、自らを「一面に自己限定」すると共に、「多様な欲望の調和」をはかる必要がある、と。

 実は、「一面的自己限定」も「多様な欲望の調和」も、ジンメルを受けての私の言葉である。

 ジンメルは、これをより豊かな生のための条件というより、個人の「力の節約」のために重要だという言い方をしている。しかし私としては、この2つを、より豊かな生の条件として描き直してみたいと思う。

 私たちは、この分化した社会において、その一面に自らを限定する必要がどうしてもある。あれもやりたい、これもやりたい、というわけにはどうしてもいかないからだ。

 しかし、自己限定だけではやはり疲れる。豊かに生きられているという感じがしない。

 それというのも、私たちには「多様な欲望」が存在するからだ。

 趣味の世界に生きたい、燃えるような恋をしたい、心ゆくまで遊んでみたい、人の役に立つ仕事がしたい……etc.

 できることなら、これら多様な欲望を、私たちはどれも十全に満たしたいと思う。

 それは中々難しいことだ。だから私たちは、これら諸欲望をうまく調和させる必要がある。ではその条件は何だろうか。

 その1つは、先述した「交錯する社会圏」の創造にある。

 「多様な欲望」に見合った「多様な社会圏/コミュニティ」があることが、私たちの多様な欲望を満たしたり調和したりするための条件になる。

 もう1つは、「時間」をかけるということにある。

 ジンメルは言う。

相反する諸傾向が同時にわれわれの意識を占有しようとする場合には、数えきれないほどの力の摩擦と抑制と浪費が起こるであろう。だから、自然の合目的性は、それらの傾向を別々の時期に配分することによって分化させるのである。」
 
 多様な欲望を、一息に叶えようなどとは思わない方がいい。それはかえって、それができないことへの欲求不満をためさせるだけである。

 重要なことは、自分の多様な欲望を見つめながら、それを一つ一つ、時間をかけて達成していこうとすることだ。
 
 そして最後にジンメルは言う。

 分化した社会は、個人に一面的になることを求める。社会の分肢になることを求める。

 しかし個人としては、自らの多様な欲望をより十全に叶えたいと思う。

 つまり、社会は一面的個人を求め、個人は多面的生を求めるわけだ。

 それゆえ社会構想は、常に、この両者のバランスをどうとるかという点に焦点化されることになるだろう。そうジンメルは言う。

「この限界をたえずますます拡大し、社会的および個人的課題を、この両者にとって同じ程度の分化が必要とされるというように形成していくのが、つねに文化の課題である。」



(苫野一徳)

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