ムフ、ローティ、デリダ他著『脱構築とプラグマティズム』

はじめに

 ローティプラグマティズムと、デリダ脱構築。両者は現実の民主政治に、どのように寄与しうるのか。

 本書は、ネオプラグマティズムと脱構築という、現代思想の二大巨頭が対峙したものとしてきわめて興味深い対論集である。

 しかし同時に、私の考えでは、現代思想(とりわけ脱構築をキーとするいわゆるポストモダン思想)がいかに虚しい議論を繰り広げてきたかを、十分に物語っている対論集でもある。

 ローティは言う。プラグマティズムは、「これこそが絶対の正義だ」とか「これこそが正しい政治制度である」とか言うことはない。

 ただただ、その時々の問題をプラグマティックに解決していくことのみに専心する。

 しかし脱構築は、ローティに言わせれば、この問題解決の方向性を放棄し、「確かなことは何もない」「このことは問題だ」とただ言い続けるだけである。

 このローティの指摘は、きわめて妥当なものだと私は思う。ローティのプラグマティズムにはなお不徹底なところがあると私は考えてはいるが(『自由と連帯の哲学』のページ等参照)、しかし脱構築の方法に比べれば、プラグマティズムははるかに有効だしまた原理的である(デリダのページ参照)。

 私が本書全体に感じる虚しさの理由は、一切を「ずらかし」(ヘーゲル『精神現象学』のページ参照)ていくデリダ流の脱構築主義者と、しかしそれだけでは現実社会に何の寄与もし得ないことから、一足飛びに再び何らかの超越的倫理を打ち出してしまったタイプの脱構築主義者(クリッチリー)と、そして、いずれの道も否定して、ただただプラグマティックな現実的解決の道を探ろうとするプラグマティスト(ローティ)の、噛み合わない議論にある。

 結局上記3つのいずれの道も、哲学として原理性に欠けているのだ(3つのうち軍配を上げられるのは、私の考えではプラグマティズムだが)

 私は、認識論は現象学が、社会哲学はヘーゲルが最強度の哲学を打ち出したと考えているが(いずれも現代的にもう一度編み直す必要はあるが)、現代思想はその到達点を十分理解せず、結局きわめて大きく退行することになってしまった。

脱構築もプラグマティズムも、私は現象学とヘーゲルによって止揚することが可能であると論じてきた。詳細は、拙著『どのような教育が「よい」教育か』〔講談社、2011年〕や、『なぜいま医療でメタ理論なのか』〔北大路書房、2009年〕所収の論文「現象学によるデューイ経験哲学のアポリアの克服」などを参照されたい。)

 ともあれ以下では、現代思想を代表する(政治)思想家たちの、スリリングな対論を追っていくことにしよう。


1.シャンタル・ムフ「脱構築およびプラグマティズムと民主政治」

最近の道徳哲学や政治哲学では、リベラルな制度の正統性の確保に必要な議論ばかりが強調されてきたが、それは問題の立て方を間違えていたのだ。本当の問題は、あらゆる合理的な人々や賢明な人々に受け入れられるような、自由民主主義の合理性ないし普遍性を正当化する議論をみいだすことではない。〔中略〕自由民主主義の原則への忠誠や支持を確保するために必要なのは、民主主義的なエートスを創り出すことである。」

 ロールズ以降、政治哲学の復権が果たされたと言われるが、そこで繰り広げられてきた議論は、いかにしてリベラルな制度を構想するかという点に集中していた。

 しかし本当に必要な問題は、制度をどう構想するかというよりも、むしろ民主主義的エートスをどう創り出すことができるかという点にある。

 そうムフは主張する。

 そして言う。この点においてローティは、ハーバーマスと同様、人々が最終的には民主的な「合意」を得られると想定していると。そしてそれは、民主的な社会における、人々の深刻な「対立」を軽視する結果に陥っているのだと。

 そこで彼女は、政治哲学における「脱構築」の重要性を指摘する。

今日『討議による民主主義(deliberative democracy)』として登場している多種多様な形態で『合意』が特権化されているところには、民主主義の本性についての重大な誤解が示されているとしか考えようがない。民主政治において危険にさらされているものを捉えるために、包括的な合意は確立できないことを示す脱構築のようなアプローチが基本的に重要なのはそのためである。」

 民主政治において、包括的な合意などあり得ない。そのことを、われわれはデリダの提唱した脱構築の考え方を受け入れて、十分に自覚しておく必要がある。

 そうムフは言うわけだ。


2.リチャード・ローティ「脱構築とプラグマティズムについての考察」

 以上のようにムフから批判されたローティは、この論文で、脱構築の方法そのものに疑義を唱える。

「プラグマティストたちは、『脱構築論者』から、デリダがXの可能性の条件であるYXの不可能性の条件でもあることを『証明』したと聞かされると、彼らにはそれは簡単に言える事柄を不必要な大げさな言い方をしているように思われる。」

 ローティからしてみれば、脱構築とは要するに、「これはこれである」ということを主張することは決してできないということを、ただひたすら言い続けるだけのものである。

 そうした脱構築の営みは、何ものにも巻き込まれたくないという私的目的を叶えるためには有効かも知れない。しかしそれは、公共的問題を考えるに当たっては、結局何の役にも立たないものである。

 ローティはそのように主張する。そして言う。

「急進思想やパトスは私的契機のためにとっておき、他の人々との問題の処理に当たっては、私は改良主義、プラグマティズムをとりたい。

 
3.サイモン・クリッチリー「脱構築とプラグマティズム――デリダは私的アイロニストか公的リベラルか」

 以上のローティの論考に対して、クリッチリーは、デリダは単なる私的問題にのみ応える思想家ではないことを主張する。

「私はローティの観点からみてもデリダは公的リベラルでありうること、そして脱構築が最も重要な倫理的、政治的影響を与えうることを示してみよう。」

 クリッチリーはまず、ローティが自らを指して言う、「リベラルなアイロニスト」の概念を取り上げる。

ローティにとってリベラルとは、残酷な行為こそあらゆるもののうちでも最悪だと信じている人である。」

 リベラルなアイロニストとは、

「社会正義に深い関心を寄せて残酷な行為を忌み嫌うが、正義に対する自分の関心には何らの形而上学的根拠もないことを認めている人物」

 のことである。

 要するに、残酷は避けるべきだと訴えはするが、それ以上積極的に、これこそが社会的正義であるということを、高らかに訴え絶対化しようとはしない者のことである。

 これは、ローティの「反基礎づけ主義」の帰結である。ローティ的プラグマティズムは、「これこそが絶対の正義」であるとは決して主張しない。『連帯と自由の哲学』などのページでもみたように、彼はただただ、その都度その都度「どうすればうまくいくか」を考えることのみを強調するのだ。

 しかし、とクリッチリーは言う。しかしそうは言っても、ローティは、「残酷は避けるべきだ」という一種の「基礎づけ」をしてしまっているではないか、と。

至る所に偶然性を認めアイロニーを主張するにもかかわらず、ローティは実際には、道徳的義務や政治的実践の基礎を、屈辱への人間的感覚についての基礎づけ主義的な主張や、他者の苦しみについての感受性に求めようとしているのではないだろうか。

 そして言う。いや、実はこれは「基礎づけ」なのではなく、むしろこれこそが脱構築的なのである、と。

 ここでクリッチリーは、レヴィナスを持ち出して次のように言う。

「レヴィナスの現象学的主張は、主体的経験の深部構造はつねにすでに責任の関係に組み込まれている、いやむしろ他者に対する責任の関係に組み込まれているということである。」

 要するにこういうことだ。

 われわれは、一切の正義の基礎づけを拒むべきである。なぜならそれは決定不可能なものであるから。となれば、われわれは一切が決定不可能であることを認めることで、倫理の基盤を手に入れることになる。それは、他者の決定不可能性をどこまでも受け入れること、すなわち他者に対する応答責任という倫理である。

 クリッチリーによれば、この決定不可能な他者への応答責任という倫理は、脱構築という方法の倫理的帰結である。

要するに、ここでのデリダの主張は、脱構築は正義であり、正義は決定不可能なものの「経験」であるということ、すなわち、私の解釈によれば、正義にかなうということは、人が最終的に決定することのできない、自分の認識能力を超えた何ものかである特定の他者に対する無限の責任を認めることである。

 となれば、脱構築は単なる私的なものではなく、公的問題に答えうるものだということになる。


4.リチャード・ローティ「サイモン・クリッチリーへの応答」

 以上のクリッチリーの論文に対して、ローティは次のように批判的に答える。

「目標に『記述不可能』とか『経験不可能』とか『不可知』とか『無限に隔たっている』といったラベルを貼って、何をなすべきかの捉え難さをドラマ化するのは、いい加減なごまかしのように思われる。」
 
 これは極めてまっとうな批判であると私は思う。

 正義とは決定不可能なものである、他者は理解不可能なものである、それゆえ私たちの倫理は、他者をどこまでも「迎え入れる」(レヴィナス)ものでなければならない。

 これは、確かに倫理的態度としてはとても立派なものである。

 しかし、レヴィナスの『全体性と無限』のページでも書いたが、私の考えでは、これは新たな「超越項」の設定という背理に完全に陥っている。

 他者は理解不可能だから、徹頭徹尾受け入れ尊重しなければならない、というのは、論理の飛躍である。論理的には、理解不可能だから敬して遠ざけるべきである、という理屈だって成り立ってしまう。何も、どこまでも自分を虚しくして他者を尊重する必要があるわけではない。

 (クリッチリーの理解する)脱構築は、その一切を相対化する方法のゆえに倫理を語れなくなってしまった挙げ句、再び何らかの「超越項」を置くという、背理・退行に陥ってしまったのである。

 それは結局、証明はできないがとにかく他者を絶対的に迎え入れることこそが倫理的命題であるというお題目であり、根拠薄弱な要請である。

 繰り返すが、この思想は確かに倫理的態度としては立派なものである。しかしそれはあくまで単なるお題目・要請に過ぎないのであって、それが倫理的命題であることの論証ができていないだけでなく、この倫理を可能にするための、現実的条件も明らかにされていない。(レヴィナスの倫理思想に対する批判は、『全体性と無限』のページを参照されたい)

 ともあれ、ローティも同じように、クリッチリーの考えを次のように批判している。

簡単に最後の切り札を出すのは憚られるが、クリッチリーの態度は私には――お察しの通り――形而上学的だと思われる。」
 

5.ジャック・デリダ「脱構築とプラグマティズムについての考察」


 こうして最後に、これまでの議論を受けてデリダが論じる。

 まず、ローティによって、デリダの脱構築は私的にすぎて公的な問題には対処し得ないと批判されたことに対して、デリダはそのような区別は不適切だと反論する。

「私にとって、私的なものは(個人的というのはやや混乱した概念だと思うので、個人的とは言いませんが)特異なものとか、秘められたものによって定義することはできないものです。」

 それでは、デリダの脱構築はどのように公的問題と結びつくのか。

 デリダはこれに、まじめに答えようとはしていない。デリダの論は何から何まで、私には「ずらかし」(ヘーゲル)であるように思える。

どういう場合にも、文学とは原則として何事でも発言できる権利であって、政治的であるとともに民主主義的であり哲学的でもある活動であって、哲学的なコンテクストでは抑圧されがちな問いを立てることができるのは、文学の大きな長所であります。

 要するに、文学的私的言語もまた、常に政治的領域に入り込むものだとデリダは言うわけだ。

 しかし、それがいったいどのように入り込むのかと言えば、デリダはこれに「ずらかし」の言い回しでしか答えない。

「脱構築的立場が示そうとしていることのすベては、慣習、制度、合意は安定化(長期にわることもあれば短期に終わることもある安定化)である以上、それは何か本質的に不安定で混沌としたものの安定化を意味しているということにほかなりません。したがって、安定性が自然のものではないからこそ安定化されることが必要になるのであり、安定化が必要になるのは不安定性があるからなのです。安定性が必要なのは混沌があるからです。

 安定の根底には不安定がある。

 デリダがその脱構築によって示そうとするのは、ただそれだけのことである。

 それは、このようなきわめてレトリカルな言い回しをせずとも、きわめて当たり前のことである。

 そのことをただ言い続けるだけが脱構築であるとするなら、それはいったい何の意味があると言うのか。

 本書でローティは、次のように言っている。

「クリッチリーのようなデリダ主義者と私のようなデューイ主義者との違いの一つは、デューイが『何が問題であるか』と問うことを要求するのに対して、デリダは物事を問いにさらしたがることである。」 

 これもまた、実にまっとうな言い分だと私は思う。

 デリダは、「それは確かではない」「それは問題だ」とただ言い続けるだけである。

 それに対してプラグマティズムは、それが問題であるとするなら、どのように解決できるだろうかと探ることを目指そうとする。

 デリダの脱構築が、公的問題にとって何の役にも立ち得ないといったローティの指摘は、きわめて妥当なものだと私は思う。


(苫野一徳)

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