トルストイ『国民教育論』



はじめに


Ilya Efimovich Repin (1844-1930) - Portrait of Leo Tolstoy (1887).jpg
 ロシアの大文豪トルストイが、実はその生涯の大半を教育の実践にも捧げていたということは、あまり知られていないことだろう。

 そしてその実践が、デューイなどいわゆる新教育・進歩主義教育運動の旗手が現れるより少し前に、その児童中心主義を先取りするようなものだったことは、なお知られていないことだ。

 トルストイは、自らヤスナヤ・ポリャーナ学校を創設し、当時激しい賛否両論を巻き起こした、きわめてラディカルな教育実践を行っていた。

 その教育方針は、一言でいってどこまでも「自由」

 子どもたちの自由を、どこまでも尊重する。

 子どもたちにとって何の役にも立たない古びれた知識を、ただ注入し続けるだけの国民教育。それは、子どもたちの精神をただ機械化してしまうだけだ。

 そうトルストイは訴えた。

 同じ時期、あるいはもう少し早い時期、世界に先駆けて公教育制度を確立したアメリカでも、そのような公教育を批判したエマソンらが登場していた。

 画一的な一斉教授を行う公教育の登場は、それまで教育を受けることができなかった大多数の子どもたちに、教育の機会を保障した。その意味では、社会改革史上とても重要な意味をもつものだ。

 しかしそのあまりに機械的な方法には、19世紀、エマソンやトルストイをはじめ、その後多くの批判者が現れることになる。20世紀における、児童中心主義を謳う新教育運動・進歩主義教育運動は、その一つの到達点だった。

 彼らの思想は、今読めば、それが対抗思想であるがゆえに、少しナイーブにすぎるところもあるかも知れない。

 しかし、真に人間らしい教育のあり方を目指した彼らの問題意識は、今もなお十分に生きている。

 トルストイの教育思想は、そうした新教育の登場に先駆ける、きわめて重要かつ先駆的なものだ。

 本書は、さすが大文豪の文章だけあって、読み物としても一級だ。彼の実践や、そこにおける子どもたちの姿が、とても生き生きと描かれている。読書感は、トルストイの小説を読んでいる時とほとんど変わらない。

 教育学の専門家でさえ、今日ほとんど読むことのなくなってしまった本書は、しかしこれからもずっと読み継がれていくべき「名著」だと私は思う。


1.国民教育批判

「国民は教育を欲しており、また各個人も無意識のうちに教育を渇望している。〔中略〕ところが実際にはその逆である。国民はたえず、教養のより高い階層の代表者としての社会あるいは政府が、国民を教育するために払う努力に対して反抗しており、そのためにこれらの努力は多くの場合失敗に終ってしまうのである。」

 人々は本来教育を欲しているはずなのに、国民教育は常に人々の不満と反抗の的である。

 それは一体なぜか。

 学校は人々に、上流階層にとってのみ意味を持つような、生活の役に立たない古くさい知識を、ただひたすら詰め込み続けているだけだからだ。

 トルストイはそのように主張する。

 そこで彼は、次のように言う。

一切の教育は、ただ生活によって呼び起される問題に対する解答でなければならない。」

 にもかかわらず、学校は子どもたちに、トルストイが言うところの「学校の精神」すなわち「機械化された精神」を注入することばかりに専心している。

「私が学校式の精神状態と名づけ、また不幸にしてわれわれすべてによく知られているその奇怪な心理状態とは次のことである。すなわち想像、創造、判断のような高尚な能力が、他の低級な、なかば動物的な能力に譲歩していることである。たとえば想像と関係なく音響を発したり、機械的に、一、二、三、四、五と順次に数をかぞえたり、何らかの形象を描こうとする想像に余地を与えずに、言葉だけをうのみにしたりする低級な能力、一言にしていえば、学校の状態と合致するもの、すなわち、恐怖や記憶力と注意力の緊張だけを発達させるために、一切の高倍な能力を圧倒してしまう能力に席をゆずっている状態である。」

 旧態依然とした教育をやめよ。それは常に、新たな生活課題に答えうる実験でもなければならない。そうトルストイは言う。

われわれの考えるところでは、学校というものは教育機関であると同時に、つねに新しい結論を与えてくれる若い世代に対する実験でもあらねばならない。」


2.教育学の役割

 そのような学校教育を構想するために、教育学はどのようなものであるべきか。トルストイは言う。

「われわれは教育および養育が何であるべきかを知らないし、また教育哲学などは全然認めない。なぜならば、人間は何を知るべきかということを人間が知る可能性を認めないからである。〔中略〕教育学の任務は、ある人々が他の人々に与えるこの作用の法則を探し出すことにのみ存するのである。」

 教育は、何か絶対的な目的・ゴールを目指して行われるようなものではない。なぜならそれは、常に生活に即したものでなければならないからだ。

 にもかかわらず、これまでの教育哲学は、「これこそが教育によって作られるべき人間像である」「これこそが教育によって授けられるべき絶対的知識である」ということを主張し続けてきた。

 しかし、いったいわれわれはどのように、絶対に正しい人間像、絶対に教えられるべき知識などを、決定してしまうことができるだろうか。

 そんなものはどこにもない。そうトルストイは主張する。

 後のデューイが鮮明に打ち出したこの教育の絶対目的の相対化を、トルストイは一足早く明言していた。

 では教育はどうあればよいか。トルストイは言う。


教育の唯一の方法は経験であり、その唯一の基準は自由であるということがわれわれの根本的確信である。



3.ヤスナヤ・ポリャーナ学校について

 トルストイが故郷に創設したヤスナヤ・ポリャーナ学校。ここではきわめて「自由」な教育が行われていた。

「生徒たちは単に何も携行しないというばかりでなく、彼らは頭の中にも、何一つもってゆく必要がない。というのは、彼らは昨日習った学科を、今日記憶してくる義務がないからだ。これから習う学科の予習で頭を悩ます必要もない。生徒はただ自分自身と、その感受性の豊かな天性と、今日も学校では昨日と同様に楽しいに違いないという確信だけをもっているだけである。」

 ヤスナヤ・ポリャーナでは、現代イギリスのサマーヒル・スクールや、アメリカのサドベリーバレー・スクールなど、今日の「自由」な学校ととても親和性のある教育が行われていた。

 実際、サドベリーバレーの創設者ダニエル・グリーンバーグは、その著『世界一素敵な学校』の中で、本書におけるトルストイの次の言葉に言及している。 

「私がおそらく不明瞭に拙劣に、説得力のない表現をもって述べたこの思想は、百年たっても一般的に承認されるかどうかあやしいものである。また百年たっても、従来の教育機関すなわち小学校や中学校や大学校が消滅して、学生の自由を基礎とした自由に形成された教育機関が発展するかどうか疑わしいものである。

 そしてグリーンバーグは、トルストイのこの言葉から100年後、自分たちは完全に自由な学校、「サドベリーバレー」を作ったのだ、と言う。


4.教師について

 本書では、とても興味深い教師論もまた描かれている。

「子供たちが掴み合いを始めるやいなや、教師が彼らを引き離しに飛んでくるが、引き離された敵同志は、互に睨み合い、恐ろしい教師の面前でさえ自制せず、以前より烈しく争い合うのを、私は何度も見る機会を得た。

 子どもたちの喧嘩に割って入り、無理矢理に仲裁する教師たち。そこで、どちらも悪いと言ったり、無理に謝らせたり、さらには互いに接吻さえさせる教師たち。

 しかしトルストイは言う。それは実は最悪のことなのだ、と。

 思う存分に喧嘩をさせてもらえなかった子どもたちは、かえって互いに恨みを募らせることになる。

 しかしもし存分に喧嘩をさせたなら、子どもたちは、どこかで互いがこれ以上傷つき合わないような地点を見出そうとする。そして周囲の子どもたちもまた、二人に何らかの形でかかわり喧嘩を収束させようとする。

 教師の早計な仲裁は、そうした子どもたちの自発性を黙らせてしまうのだ。

 とても見事な洞察だと思う。


5.養育と教育

 本書でトルストイは、養育教育を次のように峻別する。

「養育とは強制的教育のことであり、教育は本来自由である。

 ここで養育と訳されている言葉は、トルストイにとっても外国語であるドイツ語のErziehungだが、トルストイのイメージでは、これは子どもたちを鋳型にはめることである。

養育はある人間が他の人間を彼自身と同じような人間につくり上げようとする志向である」


 そして言う。

「養育の権利などというものは存在しない。

 子どもの教育は、どこまでも子どもの自由を尊重するものでなければならない。子どもたちをある価値観の中に閉じ込めていこうとする養育の権利など、誰ももってはいないのだ。

 しかしなぜ、人々は養育などというばかげたことをしてしまうのだろう。

 トルストイは言う。

 それは、の欲求、宗教の欲求、の欲求、そして社会の欲求があるからだ。

 これらのうち、親、宗教、国の欲求については、まだ百歩譲って認めるとしよう。

 しかし社会の欲求については、断じて認めることができない。そうトルストイは言う。

 それは、ある上流社会の人々が、自分たちに都合のいい子どもたちを作ろうという欲求であるからだ。トルストイは繰り返し言う。そんな権利など、誰も持っていないのだ、と。

 ではこの有害な養育を、学校はいかにして排除することができるだろうか。

 トルストイは言う。
 
「養育事業に対する学校の不干渉とは、学校が被教育者の信仰、信念および性格の形成に干渉しないことを意味する。」

「学校はただ一つの目的をもつべきである。信念、信仰および性格の道徳的領域に立ち入ろうとせずに、知識(instruction)の伝達を目的とすべきである。

 要するに、学校は「知育」に限定すべきなのである。

 かつてコンドルセによって述べられた公教育論を、トルストイもまたこのように繰り返す(コンドルセ『公教育の原理』のページ参照)。

 以上、本書は、新教育運動進歩主義教育運動と言われたいわゆる児童中心主義思想が本格的に現れてくる前に、いち早く学校教育の弊害を見抜きそのオルタナティブを提示した、すぐれた洞察力に満ちた名著であると私は思う。

 冒頭でも述べたように、学校教育は、すべての子どもたちに教育の機会を保障したという意味においては、非常に重大な発明だった。

 しかしその方法は、これまであまりに画一的にすぎた。

 その問題を、私たちはいかに克服していくことができるだろうか。

 これは、現代なお私たちが問い続けていくべき課題である。


(苫野一徳)

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