フレイレ『被抑圧者の教育学』

はじめに

 ブラジルの国民的英雄、フレイレ。貧農の人々に識字教を行い、自らの境遇を自ら理解し変化させる、そのような人間の教育を志した。

 今本書を読むと、革命の希望に満ち満ちたある時代性を感じる。搾取者と被搾取者とが、目に見えて対立関係にあった時代。

 私の考えでは、彼の「論じ方」は、超1級の思想家のものとは残念ながら言えない。結局結論ありきで、同じことを何度も何度も言葉を変えていい続けているに過ぎない。超1級の思想は、その内実をもっと豊かに、もっと豊かに、という書き方をする。

 しかしそれでも、フレイレの今も衰えることのない人気と、その後世に与えた影響力を考えると、やはり彼はとんでもなくカリスマ的な人だったのだと思わずにいられない。

 現代(といってももうずいぶん古いと思うが)告発されるのは、フレイレが闘ったような目に見える権力関係ではなく、むしろわれわれの内部に知らない間に浸透している、目に見えない権力関係だ。

 しかし、目に見える権力関係、搾取−被搾取関係は、世界規模で見た場合今もなお深刻だ。

 そうした世界的視野でみた場合、フレイレの思想は一定の有効性をもつはずだ。


1.非人間化からの解放

「非人間化は、より豊かな人間になるという人間使命の歪みであるから、おそかれはやかれ、被抑圧者は奪われた人間性をとりもどすために、かれらをかくあらしめた人びとと闘うようになる。」

 フレイレのいう「被抑圧者の教育学」は、このようないわば革命理論の一貫として読まれると分かりやすい。おそかれはやかれ、革命は起こる。そのための教育とは、どのようなものであるべきか。フレイレはそのための教育実践理論を論じたのだといっていい。



2.被抑圧者の二重性

「直接間接に革命に参加する多くの被抑圧者は、旧秩序の神話によって支配されているために、それをかれらの私的な革命にしようとする。以前の抑圧者の影が、今だにかれらの上を覆っているのである。」

 被抑圧者は、今現在実際に抑圧されている。しかし、実は自らもまた革命によって抑圧者にならんと欲している以上、ここには二重性が存在する。

 被抑圧者が抑圧者になりたいと思うようではいけない。それは結局非人間化の連鎖にとらわれることになる。解放とは、抑圧関係それ自体を解放するものでなければならない。フレイレはそのようにいう。



3.対話

 そこで、そのような真の解放を可能にするための教育は、「対話」によるものでなければならない。そうフレイレはいう。

「正しい方法は対話にある。
 解放のために闘わなければならないという被抑圧者の確信は、革命的指導によって授けられる贈物ではなく、被抑圧者自身の意識化の成果である。」
 
 知識を与えるとか詰め込むとかいう教育は、結局抑圧者のやっていることと変わらない。抑圧者は、そのようにして被抑圧者を操作しているからだ。

「人間化の教育学にあっては、方法とはもはや教師(ここでは革命的指導部)が生徒(被抑圧者)を操作するための道具ではなくなる。」


4.銀行型教育と課題提起教育

 上のような対話型教育を、フレイレは課題提起教育といって、従来の銀行型教育と区別する。

 銀行型教育というのは、知識という預金を与え与え与えていく教育方法だ。

「そこで生徒に許される行動範囲は、せいぜい預金を受け入れ、ファイルし、貯えることぐらいである。
 かれらには、確かに、自分たちが貯えているものの収集家や日録人になる機会はあるだろう。だが結局は、人間自身がこの(よくても)誤った方向に導く制度のなかでは、創造力、変革の可能性、知識を喪失し、磨り減らされてしまうのである。」

 これに対して課題提起教育は、対話によってみずから問題を発見しこれを解決していくことを目的とする。そしてこれこそが、革命のための教育なのだと彼はいう。

「課題提起教育は、革命的将来の可能性である。それは予言的であり、だからこそ希望にあふれ、人間の歴史的本性に合致する。かくしてそれは、人間を、自分自身を乗り越え、前進し、前方を見つめる存在として肯定する。」

 この具体的な方法は、「生成テーマ」の探求として定式化されている。

 それは、自らのおかれた状況で問題になっていることを、自ら見出し意識化し、その現状を分析し、その解決方法を探っていくという方法だ。

 フレイレはこうして、人間が人間らしくあるための教育を説いた。

 南北格差が最難問としてある今日、先進諸国の途上国に対する教育プログラムを考える際、以上の考えは今でも十分参考になる

(苫野一徳)



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