スミス『国富論』


はじめに

 言わずと知れた、経済学の古典中の古典。

 経済学の目的は、人々を富ませることにある。そう言ったスミス。

 それは決して、一部の資本家だけを富ませようとするものではない。

 むしろ彼は、労働者が資本家に対して不利な立場にあることを熟知し、その上で、そうした不公平をいかになくし、そしていかに国民全員の富を増大させることができるかと考えた。

 スミスは、経済活動は「神の見えざる手」に任せておけばいいと単に言っただけではない。

 不平等・不公平をなくし、すべての人にとっての経済的利益の増大を可能にするにはどうすればよいか。

 それが本書の根本的な問いである。


1.分業

 本書の冒頭で、スミスは有名なピン工場のエピソードについて語っている。

 針金を引き延ばし、切断し、先を尖らせ、お尻を丸める。さらには白く磨いたり紙に包んだりもする。

 そうした作業を、もしも1人で全部やったとしたら、おそらく20本程度、いや、もしかしたら1本しか作れないかも知れない。

 しかしこれを工程ごとに10人で分業した場合、何と1日4万8千本ものピンを作ることができるようになる。1人に換算して、実に4800本である。

 分業によって、ピンの生産性は4800倍にも増大するのだ。

 この生産性の向上には、主として3つの理由がある。そうスミスは言う。

 1つは、1人が1つの作業に特化するので、腕前が上がるため。2つは、工程の移動の際の時間が節約されるため、そして3つは、それぞれの工程に合った機械が発明されるため。

 なぜ人は、このような分業という方法を見出したのか。

 スミスは言う。それは決して、相互慈愛の気持ちからではない。人は、互いに助け合わなければ生きていけないからである。


2.貨幣

 貨幣が生まれたのは、この分業が理由である。そうスミスは言う。

 人がそれぞれに別々のものを生産する以上、その生産物を、互いに交換し合う必要があるからだ。


3.使用価値と交換価値

 ここでスミスは、後のマルクスにとっても極めて重要なキーワードとなる、使用価値交換価値という概念を提示する。

「注意すべきは、価値という言葉に二つのことなる意味があり、ときにはある特定の物の効用を表わし、ときにはその物の所有がもたらす他の品物を購買する力を表わすということである。一方は『使用価値』、他方は『交換価値』と呼んでいいだろう。」
 
 たとえば、私の手もとにあるペンは、私にとって、物を書くためのものという「使用価値」を持っている。しかしまた一方で、もしも私がこれを隣の人の消しゴムと交換したいと思った時、そしてそれを相手もまた了承した場合、このペンは、その消しゴムと同等であるという「交換価値」を持っていることになる。

 そうして彼は、続く問いを次のように設定する。


「第一に、この交換価値の真の尺度は何か。あるいはすべての商品の真の価格は何であるのか。
 第二に、この真の価格を構成し、あるいは形成しているさまざまな部分は何であるのか。
 そして最後に、価格のこれらさまざまな部分のいくつか、またはすべてを、ときにはその自然率または通常率以上に引き上げ、ときにはそれ以下に引き下げるさまざまな事情とはどのようなものなのか、あるいは諸商品の市場価格、すなわち現実の価格がその自然価格と呼んでいいものと正確に一致するのをときどき妨げる原因は何であるのか。」

 すなわち、1.交換価値の尺度は何か、2.価格形成の部分は何か、3.価格変動の原因は何か。


4.交換価値の尺度は労働である(労働価値説)

 第1の問いに対して、スミスはまず次のようなテーゼを立てる。


「圧倒的大部分を彼は他の人びとの労働にまたねばならず、彼の貧富は彼が支配しうる労働、つまり彼が購買しうる労働の量に対応する。〔中略〕したがって労働がすべての商品の交換価値の真の尺度なのである。」


 これが、リカード、そしてマルクスへと引き継がれる、有名な労働価値説である。

「世界のすべての富がもともと購買されたのは、金によってでも銀によってでもなく、労働によってだったのであり、富を所有していてそれを何か新しい生産物と交換したいと思う人びとにとって、その富の価値はそれによって彼らが購買または支配しうる労働の量に正確に等しいのである。

 続いて第2の問い、すなわち、商品価格の構成部分については、スミスはこれを、「労賃」「地代」「利潤」にみる。


5.自然価格と市場価格

 第3の問い、すなわち価格変動の原因を調べるにあたって、スミスは、まず自然価格市場価格の2つの概念を提示する。

「ある商品の価格が、それを産出し、加工し、市場にもってくるのに使用された土地の地代と労働の賃金と貯えの利潤とを、それらのものの自然率によって支払うにたりるだけの額よりも、多くも少なくもないならば、そのときその商品はその自然価格とよんでいいもので売られているのである。」

「ある商品が通常売られる実際の価格は市場価格とよばれる。それは自然価格を上まわることも、下まわることも、それとちょうど同じであることもありうる。」

 ここでいわれる自然価格とは、さしあたり、その商品を作って利益を得るのに必要十分な価格のこと、といっておいていいだろう。

 ところが実際は、商品はこの自然価格とは異なった値段で取引きされることが一般的である。この実際に取引きされる価格を、スミスは市場価格と呼ぶわけだ。

 市場価格は、需要供給のバランスによって決定される。

 このバランスのとれた価格は、つまり自然価格であるといっていい。したがってスミスは言う。自然価格は、商品の価格がたえずそこへ向かおうとする中心価格である、と。

「したがって自然価格は、いわば、すべての商品の価格をたえず引きよせる中心価格である。さまざまな偶然が、価格を自然価格よりもずっと高くつりあげておくこともあろうし、それよりもいくらか引き下げることさえあるだろう。しかし、価格がこの静止と持続の中心におちつくのを妨げる障害が何であろうとも、価格はたえずこの中心にむかっているのである。」


6.労働者の不利

 続いて、スミスがとても興味深いことを言っているのでここで紹介しておきたい。

 職人(労働者)は、常に労賃の設定の際不利な立場におかれている。そうスミスは指摘するのである。

地主、農業者、親方製造業者、あるいは商人は、職人を一人も雇用しなくても、既得の貯えで一年や二年は生活できる。雇用されずに一週間生きていける職人は多くないし、ひと月生きていける職人は数少なく、一年間生きていける職人はめったにいない。」

 後にマルクスがこのことを告発するわけだが、マルクスによってブルジョア経済学者と批判されたスミスも、この点についてはちゃんと目配りがきいていたことがよく分かる。

 さらに彼は次のようにも言っている。

「労働者の利害は社会の利害と緊密に結びついているとはいえ、彼は社会の利害を理解することも、社会の利害と自分自身の利害との結びつきを理解することもできない。」

 労働者は、ただ与えられた仕事をこなして、日々の稼ぎを得るだけであるからだ。

 したがって労働者の声は、通常社会を動かす力としては響かない。

 一方、商業者や製造業者(資本家)たちは、自らの利益のために行動することができる人たちである。社会のためにではなく、自らのために。

 それゆえスミスは、次のように言う。

商業上の何か新しい法律または規制についての提案でこの階層から出るものには、つねに多大の用心をもって耳を傾けるべきであり、もっとも周到な注意だけでなく、もっとも疑い深い注意をも払って長いあいだ慎重に検討した上でなければ、けっしてそれを採用してはならない。それは、その利害がけっして公共の利害と正確には一致しない階層の人びと、一般に公共を欺き、抑圧しさえもすることを利益とする階層の人びと、したがってまたこれまで多くのばあいに、公共を欺きもし抑圧もしてきた階層の人びとからきているのである。
 
 これもまた、マルクスに先駆ける重要な洞察だと言うべきだろう。


7.生産的労働と不生産的労働

 スミスは本書で、生産的労働不生産的労働を区別している。

 生産的労働とは、文字通り物を生産・製造する仕事のことである。

 他方、不生産的労働とは、使用人、文筆家、法律家、医師、俳優、音楽家、ダンサーなど、物を製造しない仕事のことである。

 そしてスミスは言う。資本を、すなわち国富を増やしたいのであれば、不生産的労働者より生産的労働者の再生産を行っていくべきである、と。(スミス自身が、実際に不生産的労働者よりも生産的労働者をこそ増やすべきだと考えていたのかどうかは微妙だが。)

 さらにスミスは次のようにも言っている。資本を増やしたいのであれば、節倹こそが要である、と。

勤勉ではなく節倹が、資本の増加の直接の原因なのである。たしかに勤労は節倹が蓄積するものを用意する。しかし勤労が何を獲得しようとも、もし節倹がそれを蓄え、積みかさねないならば、資本が大きくなることはけっしてないだろう。

 後にウェーバーは、資本主義の進展のドライバとなったのはプロテスタンティズム禁欲の精神であったと主張したが(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のページ参照)、まさにここにおいて、スミスは、節倹(禁欲)こそが資本を貯めるための重要条件だと主張するのである。


8.国を富ませるために(見えざる手)

 以上、さまざまな基本的事項について述べた上で、スミスはいよいよ経済学の本丸を論じ始める。

 まずスミスは言う。

 経済学の目的は何か。それは、「民衆と主権者との双方を富ますこと」にある。

 では富裕とは何か。

 それは、金を貯め込むことではない。反対に、金を流通させることで得られるものである。

金銀の使用を増加させよ、金銀によって流通させられ、管理され、調整されるべき消費財を増加させよ、そうすればまちがいなく金銀の量を増加させるだろう。


 ではそお金の流れは、どのようにあるべきか。

 政府は余計なことをせず、ただなすがままに任せるべきである。

 有名な、「(神の)見えざる手」のくだりである。

 「どの個人も、自分の自由になる資本がどれほどであろうと、そのためのもっとも有利な仕事を見いだそうと、たえずつとめている。彼の眼中にあるのは、まさに彼自身の利益であって、その社会の利益ではない。しかし彼自身の利益の追求が自然に、あるいはむしろ必然的に、その社会にとってもっとも有利であるような仕事を彼に選ばせるのである。」

そして彼はこのばあいにも、他の多くのばあいと同様に、みえない手に導かれて、彼の意図のなかにまったくなかった目的を推進するようになるのである。」



9.重商主義批判

 この「見えざる手」の観点から、スミスは重商主義を激しく批判する。

 スミスにとっては、国が富むとは消費者に益のあることであって、生産者が過剰に守られることではない。

 しかし重商主義は、生産者を守ることで消費者の犠牲を強いている。

 そうスミスは主張する。

「重商主義では、消費者の利益はほとんどつねに生産者の利益の犠牲にされており、消費ではなく生産が、すべての産業や商業の究極的な目標であり目的だと考えているように思われる。

 生産者を守ることで、独占資本が登場してしまう。しかしそれは、価格を不当につり上げ、消費者に不利益をもたらす。そうスミスは言うわけだ。


10.オックスフォード大学批判
 
 ここで、スミスの有名な(オックスフォード)大学批判も紹介しておこう。

「オクスフォード大学では、大学教授の大部分は、このところ多年にわたって、教えるふりをすることさえまったくやめているのである。」


学寮や大学の規律は一般に、学生の便益のためではなく、教師の利益のため、あるいはより適切にいえば教師の安逸のために、案出されたものである。その目的は、すべてのばあいに、教師の権威を維持することであり、教師が自分の任務を怠ろうが履行しようが、あらゆるばあいに学生が教師にたいして、教師が勉励と能力のかぎりをつくして任務を遂行しているかのように、ふるまわざるをえなくすることである。

ほんとうに出席するに値する講義には、出席を強制する規律など必要ではないし、それはそうした講義が行われているところではどこでも、よく知られているとおりである。」



11.公教育の必要性

 最後に、スミスの公教育論についても紹介しておこう。


 スミスは言う。分業が進むにつれて、人々はただ一つのことしかできない、きわめて一面的な人間になってしまうだろう。

 しかしそれは、愚かで無知な人間である。

 だからこそ、公教育が必要なのだ。

彼らは教化されればされるほど、無知な諸国民のあいだでしばしばもっともおそるべき無秩序を引き起こす熱狂や迷信の惑わしにかかることが、それだけ少なくなる。そればかりでなく、教化された知的な人びとは、無知で愚鈍な人びとよりも、つねに礼儀があり、秩序正しい。



(苫野一徳)

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