苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』

はじめに

 ありがたいことに、拙著『どのような教育が「よい」教育か』を、私が主催する「教育学平らげ研究会」と、文芸評論家神山睦美さんが主催されている書評会にて取り上げていただきました。

(2011年10月の朝日新聞書評にも取り上げてきただきました。)


 教育とは何か、そしてそれは、どうあれば「よい」と言いうるか。

 教育の最も根本的な問いでありながら、これまで十全に解明されてこなかった、この教育の「本質」および「正当性」の原理を、哲学的に明らかにした作品です。

 ここでは、神山さん主催の書評会でレジュメ発表をしてくださった、“兄弟子”枡岡大輔さんのレジュメを、許可をいただきそのまま「序章」の箇所だけ掲載させていただきます。

 枡岡さんには、A4で13枚にもわたる、詳細で、また著者から見ても完璧なレジュメを作成していただきました。とても感謝しています。

 本書の内容について、多くの方に批判的に吟味していただきたいと願うと同時に、「よい」教育を構想し実践したいと考えておられるすべての方々に、もしも本書が十分に有益な指針を打ち出せているとするならば、著者としてこれ以上の喜びはありません。



苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』
(講談社、2011年)


レジュメ:枡岡大輔


序章

一  本書の問い――「教育の本質と正当性の原理」の探究解明。

 「教育とは何か、そしてそれは、どのようにあれば『よい』といいうるか」。私はこの問いに、できるだけ広範かつ深い共通了解を得られるような「答え」を提示したい。

 確かにこの問いに絶対的な答えはない。だが、この問いは教育にかかわるすべての者にとって切実な問いでもあるはずだ。教育学は「絶対」を掲げるあらゆる教育的理念・理想を徹底的に相対化してきた。それには意味がある。だがその一方で、結局はどのような教育論も否応なく相対化されてしまう、という一種のニヒリズムに陥ってしまった。私は上の問いに対し、何らかの方法で考え、答えを出す必要があると思う。そしてそれは可能だし、その答えを相互に確かめ論じ合うことができるはずだ。


二  探究の方法――フッサール現象学とヘーゲル哲学を教育学に援用する。

教育の本質とその正当性の原理をどう考えるか。この問いは、フッサールヘーゲルの哲学を援用することで、根本的に解明できるのではないか。教育を「初めの一歩」から考え直すには、両者の哲学が極めて有効だ。

現代哲学では、フッサール現象学のみが、絶対主義相対主義の対立を最も根本的に克服し得ている。竹田青嗣・西研の研究を参照しつつ、フッサールとヘーゲルの洞察を教育学に援用すれば、現代教育学のアポリアは解けるのではないか。


教育の考え方―展望― ――現象学の「問い方」を教育学に援用する。

現象学を教育学に援用すると、どのような展望が開けるのか。

(1)それはまず、「相対化の論理をせき止める」

「私たちが抱く教育に関する何らかの信憑や確信は、それが絶対に正しいことであるとは言い得ないが、それでもなお、私たちは、そのような信憑や確信が訪れたということそれ自体を、疑うことはできない」。

その内容は常に修正・変更に開かれている。だが、そのように到来したこと自体は疑いえない。この不可疑の確信・信憑を始発点として教育を考えることができるはずだ。

(2)次に、「確信成立の条件と構造」を問うことを通じて、相互の「共通了解の探究」へ議論を展開する。

現象学の、「この信憑や確信は、なぜ、そしてどのように私に訪れているのか」、という問い方が肝要だ。教育論に応用すると、確かに絶対「よい」教育などない。しかしだからといって、「よい」教育など決してありえない、と言う必要もない。もし、「ああ、これはいい教育だ」と思わず感じることがあったなら、その時、私はなぜ、そしてどのようにそれを「よい」教育だと感じたのか、その「確信」成立の条件と構造を問うことができるはずであるからだ。重要なことは、各人の教育に関する信憑や確信の成立条件を、相互に確かめ合うことが可能な形で問い合いながら、共通了解を見出そうとする方向へと探究を深めることだ。


四  教育の「本質」素描――ヘーゲルの「人間的欲望と社会の本質」論から教育の本質を問う。

(一)ヘーゲルは言う。私たちはどうしても「できるだけ〈自由〉に生きたい」と思ってしまう存在である。それ故、私たちは互いに互いの自由を主張し合って争ってしまう。

だが、この「自由」というものは、ただ独りよがりに「自分は自由だ」と主張しているだけでは決して獲得できない。

自らの〈自由〉を十全に獲得するには、「他者からの承認」をどうしても必要とする。自らが十全に〈自由〉になるためには、私の自由が他者から認められると同時に私自身もまた他者の自由を認める――〈自由の相互承認〉の理念を共有し、この理念のもとに社会を作り上げていくほかない。これこそが近代社会の「原理」だ、と。

私たちは自分の〈自由〉を巡って争うのではなく、相互が「自由」な存在であることをルール(法)として認め合い、その上で、互いの〈自由〉のあり方を調整しあっていくような社会を構想する必要がある。今となっては「当たり前」と思われる考え方かもしれないが、この「原理」がもっている重要な意味と射程は、残念ながら、これまで十全には理解されてこなかった。

(二)教育の本質とは、「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の〈教養=力能〉を通した実質化」である。

生きたいように生きたいと欲するならば、自らを自らとして立てていけるように、読書算から高度な知識技能まで、また〈自由の相互承認〉の感度を身につける必要がある。公教育はまさにそのために存在する。

教育は、諸個人にとっては、自らの自由を実質化するために必要な〈教養=力能〉の獲得を保障するもの。他方、社会にとっては、法に次いで教育によって初めて社会の根本理念である〈自由の相互承認〉の原理は実質化されうることになる。したがって、教育は「個」のためであると同時に「社会」のためのものでもある。教育に関する諸実践理論はこの目的に対して相補的なものと捉えねばならない。

なぜ社会が公教育として個々人の〈教養=力能〉を育成せねばならないか。それは、仮に教育の一切が私教育に委ねられたとしたら、教育機会や個々の〈自由〉度合いに貧富の格差が生じ、社会の原理である〈自由の相互承認〉が損なわれうるからである。社会は、すべての子どもの〈自由〉を実質化するという指針のもと、そのために必要な〈教養=力能〉育成を保障する必要がある。そしてそれが同時に、社会における〈自由の相互承認〉の実質化に結びつくのである。

 上のような主張への批判として、〈自由の相互承認〉など国家主義政策の正当化のためで、それこそ悪しき権力による暴力だというのがある。だがその批判の根拠はどこに求められるのか? 実はそれこそが、〈自由の相互承認〉に反しているから、ではなかろうか。問うべきは次である。

 「どのような教育であれば〈自由〉と〈自由の相互承認〉に適うのか、あるいはこれを促進しうるのか」。あるいは、「「権力が、どのようなものであれば〈自由の相互承認〉に適い、また各人の〈自由〉を実質化しうるか」。現代や過去の教育について、評価するにせよ批判するにせよ、その基準は、「各人の〈自由〉および〈自由の相互承認〉が現実のものとなっているか否か」という点においてよりほかには見いだせないのではないか。



第1章以下略



(苫野一徳)

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