テイラー、ハーバーマス他、ガットマン編『マルチカルチュラリズム』

はじめに

 政治哲学者チャールズ・テイラーの論文「承認をめぐる政治」と、これに対するマイケル・ウォルツァーユルゲン・ハーバーマスら、名だたる(政治)哲学者らのコメント論文が収録された本書。「マルチカルチュラリズム」(多文化主義)をめぐる、当代随一の論客たちの対論である。

 テイラーは言う。どのようなアイデンティティ/文化も、尊重に値しないなどと言うことは決してできない。今価値あるとされている文化も、長い人類の歴史からみれば一時のものに過ぎないのだから。それゆえ、あらゆる文化を尊重せよ。

 一見、まっとうな主張であるように見える。

 しかし私の考えでは、このテイラーの思想には極めて重大な問題がある。

 その理由を含めて、以下本書を見ていくことにしたい。


1.エイミー・ガットマン「緒論」

 本書冒頭には、まず編者であるガットマンの「緒論」が収録されている。

 彼女はまず次のように言う。

「もし人間のアイデンティティが、対話的に形成され構成されるのであれば、我々のアイデンティティを公的に認めるためには、次のような政治が必要とされる。すなわち、我々のアイデンティティの諸側面のうちで、我々が他の市民と共有する、あるいは共有する可能性のあるものについて、我々がこれらを公的に熟慮する余地を残しておくような、そうした政治である。」

 政治は、各人が自立した自由な存在でありうるために、それぞれの多様なアイデンティティを承認し合うべく熟慮する必要がある。そうガットマンは言うわけだ。

 ところが、どんなアイデンティティであっても無条件に認めるというわけにはいかない。

 たとえばあからさまな人種差別主義者のアイデンティティは、ある程度容認されるべきではあったとしても、尊重されるべきではない。

 そうガットマンは主張する。

 先述したテイラーの思想の問題点を、この指摘はさりげなく先取りしてくれているが、この点については後で論じることにしたいと思う。

 ガットマンは言う。では尊重されるべきアイデンティティとは何か。

 ――そのことについて熟慮することこそが、民主主義的な政治理念である。そうガットマンは言って、「緒論」を締め括る。


2.チャールズ・テイラー「承認をめぐる政治」

(1)アイデンティティとは何か

 続いて、テイラーの論文「承認をめぐる政治」である。

 彼はまず次のように言う。

 アイデンティティを、まずどう捉えるか。

 それは周囲から孤立した「私」ではあり得ない

 アイデンティティとは、常に「対話的」なものなのである。

「私自身のアイデンティティは、私と他者との対話的な関係に決定的に依存しているのである。」

 このことを踏まえた上で、現代政治理論における2つの対立を見てみよう。


(2)形式的平等 VS 実質的平等

 それは、形式的平等実質的平等との対立である。

 形式的平等とは、各人のアイデンティティの差異を顧慮せずに、すべての人を平等な存在として取り扱うことを要求する平等論である。

 他方実質的平等とは、各人のアイデンティティの差異を認めることで、不利なアイデンティティに置かれた者たちを、いわばエンパワーすることでより平等化をはかるとする平等論である。

 両者は次のような仕方で対立する。

前者が後者に対して行う非難は、まさに後者が不差別の原則を侵害するというものである。後者が前者に対して行う非難は、前者が人々を、彼らにとって非本来的な、均質な鋳型へと押し込めることにより、アイデンティティを否定するというものである。


 テイラーは、このどちらかが絶対に正しいわけではないと断りつつも、自身の立場を実質的平等の側に置く。

 そしてその上で、次のようにルソーを批判する。

二者間の依存が生じないように、我々は皆、一般意志に依存しなければならない。これはジャコバン派から始まって今世紀の全体主義的体制に至るまで、均質化を強いる暴政のなかでももっともおぞましい政治体制の政治信条になってきた。」

 要するに、ルソーは「一般意志」の概念を提示することで、すべての人民を共通の意志のもとに統一し、均質化することを説いたと言うわけだ。それはつまり、個々人のアイデンティティの差異を無視した、暴力的な統一化なのである、と。


(3)テイラーのルソー批判に対する反批判(苫野)

 ここで、この点について少し長めのコメントをしておきたい。

 ルソーの『社会契約論』のページ等でもさんざん述べてきたが、テイラーのこの「一般意志」解釈は、私の考えでは今日きわめて一般化してしまった、しかし典型的な誤読である(ルソー『社会契約論』のページ参照)。

 これはテイラーだけでなく、残念ながら、アーレントハーバーマスなど、多くの優れた思想家たちにも共有された「一般意志」解釈だ(アーレント『革命について』のページ等参照)。


 しかし実のところ、一般意志の概念は、人民の意志を統一せよなどというものではまったくない。

 それは、社会権力(法)が「正当」といいうるのは、それがある一部の人たちの意志(利益)だけを代表するものではなく、すべての人の意志(利益)を代表する時のみであるという、権力の「正当性」理念を言い表した概念なのである。『社会契約論』を丁寧に読めば、これは誤解しようのないルソー思想の根幹であるはずだ。

 もちろん、「一般意志」の絶対的な達成などはほぼ不可能なことだろう。しかし私たちは、この理念のほかに、社会権力や法の正当性を言い表す理念を持ちうるだろうか?

 強者の意志こそが法である、とか、弱者のためになる法のみが法であるとか、そのような言い方を、われわれは許容することができるだろうか?

 権力や法は、どこまでも、すべての人の意志、すなわち「一般意志」を代表している時にのみ正当と言いうるのである。この基準のみが、われわれに時の政治や法が「正当」と言いうるかどうかをはかることを可能にする。繰り返すが、「一般意志」は社会・権力・法の「正当性」の、基準としての理念なのである。

 このきわめて原理的な「一般意志」論が、残念なことに、今日多くの思想家によって誤解されてしまっている。

 その理由の1つは、まさにテイラーも書いているように、フランス革命後の恐怖政治を惹き起こしたロベスピエール率いるジャコバン派が、ルソーの影響を強く受けていたからである。それゆえその後の多くの人々は、その全体主義的教義が、ルソーに由来するものと思い込んでしまったのだ。

 ともあれ先へ進もう。


(4)どんな文化も尊重に値する
 
 先に述べたように、テイラーは、すべての市民に中立的な形式的平等ではなく、アイデンティティの差異に十分に配慮した実質的平等を重視する。

 その際、彼は次のように言う。

 どんなアイデンティティ、あるいは文化も、尊重に値すると想定することは理にかなっている、と。なぜなら、われわれが今日価値を持つと見なしている文化でさえも、長い人類史から見ればあまりに限られたものであるからだ。それゆえ、その限られた視座から、どんな文化に対してであれ尊重に値しないなどと言うことは、傲慢以外の何ものでもないのだと。


次のように論じることができよう、〈多様な性格や気質を持つ多数の人間に、長期的にわたって意味の地平を与えてきた諸文化は――換言すれば、善なるもの、神聖なるもの、賞賛すべきものについての彼らの感覚に表現を与えてきた諸文化は――、たとえ我々が嫌悪し拒否すべきものを多く含む場合ですら、我々の賞賛と尊重に値するものをほとんど確実に含むと想定することが理にかなっている〉と。あるいは多分、次のように表現することもできよう。〈この可能性をア・プリオリに無視することは、この上ない傲慢さを意味する〉と。
 結局、ここには道徳的問題が存在するようである。我々がこの仮定を受け入れるために唯一必要なものは、人類の物語の全体に占める我々の位置が限られたものであるという感覚である。我々からこの感覚を奪い去るのは、傲慢、あるいはこれに類似した道徳的欠点のみである。」


(5)テイラー思想に対する批判(苫野) 

 さて、しかし私の考えでは、以上のテイラーの考えにはきわめて重大な問題がある。

 コノリー『アイデンティティ/差異』のページにも書いたが、政治哲学の歴史は、多様で異質な人々が、いかに互いに争い合うことなく、できるだけ共通了解を得ながら社会を共に築いていけるかを問うてきた歴史だった。

 その最も洗練された思想を、私たちはルソー「一般意志」ヘーゲル「自由の相互承認」として持っている。

 一般意志については先述したので「自由の相互承認」について言うと、これは、自らの自由を主張し合って繰り広げられた人類の凄惨な殺し合いの歴史を反省し、自らが十全に自由たりたいのであれば、他者もまた自由な存在であることを相互に承認するしかないという理念である。

 ヘーゲルが明らかにしたように、この理念に基づいて社会を作っていくほかに、われわれは自らの「自由」を十全に保障するすべをもたない。もしこの理念を手放したとすれば、われわれは再び、自らの「自由」を素朴に主張し合う、とめどない命の奪い合いへと逆戻りしてしまうであろう。

 したがってわれわれは、テイラーが言うように、どんな文化/アイデンティティであっても尊重すべきであるなどと言うことはできない。

 ある文化/アイデンティティが、もしもこの「自由の相互承認」に著しく反する場合、それは抑制される必要があるのだ。

 テイラーは、われわれが今日価値あると見なす文化も、長い人類史の前では不確かなものだと言うが、私の考えではそれはむしろ逆である。

 われわれは、長い1万年にもおよぶ人類の歴史をかけて、様々な文化が互いに殺し合ってきた悲劇を何とか終わらせるために、ついに「自由の相互承認」という理念に辿り着いたのである。

 したがってわれわれは、どんな文化でも尊重に値するなどと素朴に――もちろんテイラーはそこまで素朴に言っているわけではないだろうが――言うべきではない。それはあくまでも、「自由の相互承認」の範囲内において尊重に値するのだ。

 私たちは、社会の構想原理、すなわち最も根底に据えておくべき理念が「自由の相互承認」であることを、いつも念頭に置いておく必要がある。これは社会構想を考える時、何よりも重要な「原理」なのだ。


3.ウォルツァーのコメント

 続いて、テイラー論文に対するウォルツァーのコメント論文について少し触れておく。

 ウォルツァーは、先ほどの形式的平等と実質的平等を、「自由主義Ⅰ」「自由主義Ⅱ」と言い換えて次のように言っている。

1)第一の種類の自由主義(「自由主義Ⅰ」)は考えられうる最強の方法で個人的な権利を支持するものである。そして、ほとんどこのことから演繹されるように、厳格に中立的な国家、すなわち文化的および宗教的な企てを持たない国家、あるいは個人の自由や市民の身体的保証、福祉、安全を越えたいかなる種類の集合的目標も持たない国家を支持するものである。(2)第二の種類の自由主義(「自由主義Ⅱ」)は――異なる帰属意識を持つ市民の、あるいはそうした帰属意識をまったく持たない市民の基本的人権が守られている限りにおいて――特定の民族、文化、宗教、あるいは(限られた)一連の民族、文化、宗教の存続や繁栄を支持する国家を許容するものである。」
 
 そして言う。

「テイラーはこれらの自由主義のなかで第二のものを優先させている。


4.ハーバーマスのコメント

 そうしてハーバーマスが、これらを受けてテイラーを批判することになる。
 
 彼はまず、次のように言う。

 「テイラーの解釈は自由主義の諸原理それ自体を攻撃し、近代的な自由概念の個人主義的な核心を疑問視することになるのである。


 なぜか。その理由は、先に私が述べたテイラー批判とほぼ同じと言っていいだろう。

「民主的プロセスそれ自体は法的に制度化されなければならないのであるから、人民主権の原理は基本的権利――それなくしては正当な法はまったく存在しえない――を要求している。まず最初に選択や活動の平等な個人的自由があって、次に個人の包括的な法的保護が前提条件とされるのである。」

 私なりに言えば、「自由の相互承認」が最も根底に置かれるべき原理であって、個人的アイデンティティは、その範囲内において尊重されるべきものなのである。

 テイラーの思想は、他者の自由を侵害するものとしての個人的アイデンティティもなお尊重せよという考えに行き着くことを原理的に妨げない。それゆえそうした思想は、まさにハーバーマスが言う通り、「自由主義の諸原理それ自体を攻撃」するものたらざるを得ないのである。


(苫野一徳)

Copyright(C) 2009 TOMANO Ittoku  All rights reserved.